第65話、当たり前と感じて気づかなかったこと
無性に悲しかった。
何故そうなのか、セラは自問する。
娼婦と遊んでいない――そう言い張るケイタだが、いざむかえば、娼婦たちからの熱烈な歓迎ぶり。一介の顧客というには、サービス過剰にも思えるが、そのあたり詳しくないセラには何とも区別がつかなかった。
はっきりしているのは娼婦たちがケイタを大歓迎し、積極的に誘っているということだ。本当に何もなかったとはとても思えない。
ただ――
セラはモヤモヤした気持ちになる。
どうして、胸の奥が痛く感じるのだろう。
どうして、目の奥がじんときて、涙がこみ上げてくるのだろう。
どうして、何故? わからない。
考えれば考えるほど、おかしな話だった。
ケイタが娼婦と遊ぼうが、ライガネンを目指す旅に支障をきたさなければ別にかまわないのではないか。
実際、ゴルド橋は寸断され、大雨の後の増水によってバーリッシュ川を渡れない現状、時間を潰したところで何も悪くない。
ケイタは傭兵であり、セラの部下ではない。善意で旅に同行してくれているのだ。付き合ってまだ日は浅すぎるが、たくさんの恩と濃厚な経験をもらった。
彼には感謝してもしきれない。尽くしてくれた彼にも、休養は必要なのだ。
そう、セラは頭では理解した。けれども心が納得しない。疼いている。
本当に自分に同情するなら、軽々しく女遊びなどするべきではないのではないか。この足止めされている状況を打開するために、一緒に考えてくれてもいいのではないか、と。
……!
セラは愕然とした。
初めは、他人を巻き込むことに抵抗を覚えていた。
聖アルゲナムが陥落したあの日。セラを守って力尽きていった仲間や、囮となって自らの国の姫を逃がそうと犠牲になった民たち――
本当なら、あの場で死ぬまで戦うべきだった。
父王の遺言、未来のための苦渋の決断――その思いを胸にここまで頑張ってきた。
結果、セラの心を苦しめ、周囲を巻き込むことへの忌避へと繋がる。
それなのに――
いつからか、セラはケイタを頼るようになっていた。
彼は不可思議な力でセラの旅を助け、幾多の危機を切り抜けた。リアナやユウラという心強い仲間も、ケイタの仲間だ。
彼がいなければ――当にこの旅は終わっていたのだ。滅びた国、民の犠牲は報われず、託された使命も果たされず。
――私、最低だ……。
恩人の彼の、たった一夜の娯楽さえ認められない器量の狭い人間になっていたことが。
感情が納得できない? それが何だ。私は元とはいえアルゲナム国の姫。自らの感情よりも使命を優先させなくてはならない。
個人の感情は殺せ。
使命を優先させろ。
ちくり、と胸が痛んだ。
だが、それは無視した。今は放浪しているとはいえ、そこは王族生まれの意地だ。
すっと、涙がたまったまま顔を上げた。
向かいからやってきた人に気づかず、肩が当たってセラは倒れた。
石畳に尻を打つ。前方不注意だった。
「ごめんなさ――」
ぐいっと持ち上げられる。差し出されたのは手のひらではなく、服を掴む荒々しい腕。
「おい、どこに目つけてんだぁ小娘!」
傭兵とおぼしき外見の男。それが三人。いずれも粗野かつ、表情からして荒々しく、絡まれる相手としては最悪の部類だ。
「前見て歩けボケが。こっちはそれでなくてもイライラしてんのによぉ」
あ? ――セラはカチンときた。苛立っているのはこっちも同じだ。
だがそれを顔には出さない。ぶつかったのはこちらの不注意もある。アルゲナムの元姫として、礼節はわきまえて――
「おい、今はそんなのにかまってる場合じゃねーだろ」
男の一人が、セラを掴んでいる男に言った。
「早く娼館に行って、誰でもいいから拉致ってこないといけねーだろが。アニキの仇を討たなきゃなんねーだから」
娼館――その言葉にセラははたとなる。さっき行ったビルゲのことだろうか? 拉致とか兄の仇とか物騒なことを口にしている。
「ケッ、そうだった。……あ、でもよ、この女も、ビルゲの娼婦じゃね?」
娼婦!? ――セラは血管が沸騰する勢いで頭に血が上った。
「……放してください」
「あ!?」
「放しなさい、と言ったのよ!」
セラが睨めば、男も青筋立てて顔を近づけた。
「ああっ!? んだとこの女!」
「探しているのはオレだろ――!!」
ふっと声がよぎり、ついでセラの目の前で男がぶん殴られた。
解放ついでに、すっとセラの肩を抱き寄せる者――ケイタ。
「無事か、セラ!?」
「あ……ええ……」
途端にセラは頬が急に熱を帯びるのを感じた。現れたケイタはセラから手を離し――それがセラにとって寂しさを覚えた――アウトローらへと向かう。
「グロルハントの残党か? だったら狙うのはビルゲの娼婦じゃなくて、オレだろうが!」
ケイタは、一息の間に男らに接近した。
ナイフや鈍器を抜いた彼ら。だが次の瞬間、一人は腹を抉るような拳を叩き込まれ、身体をくの字に曲げる。
もう一人は振り上げた棍棒を掴まれ、引っ張られるとケイタが返した左肘を顔面に喰らい、吹っ飛んだ。
倒れた二人はピクリとも動かない。
気のせいが凄い殴打音が聞こえた気がした。……セラは知らなかったが、ケイタは殴打した拳や腕を鋼鉄並みに固めており、当然そんなものを高速で叩き込まれれば人間など簡単に殴殺できるのだ。
「さて――」
淡々と、しかし瞳の奥に殺気を秘めたケイタが、最初に殴った男を逆に掴みあげた。
「残ってるのはテメエだけだ。生き残りの連中のことを洗いざらい話してもらうぜ」
「ひっ……!?」
男は震え上がった。殺される――本能で察したのだ。
「た、頼む! こ、殺さないでくれっ……!」
「……」
ケイタは男の首を掴り、ぎりぎりと締め上げる。
これ以上はいけない――セラは声をあげた。
「ケイタ! もういい! もういいですから、放してあげて」
「……運がよかったな、お姫様の慈悲に感謝しろ」
ケイタは男を放してやる。
「そこで寝てる二人を連れてけ。通行の邪魔だ」
脅しつけるように言われ、男はみっともない悲鳴を上げて逃げた。
ふっと、溜息というには収まらない怒りを含んだ息をつくケイタ。
セラは身体の前で手を組んで背筋を伸ばす。
「ケイタ……あの」
「ん? ……ああ」
わしゃわしゃと自身の黒髪をかくケイタ。
「悪かったな、セラ。面倒に巻き込んじまって。あいつら、昨日オレが始末したグロルハントっていうギャングの下っ端」
「ギャング?」
昨日って、いつの間に――セラは驚いてしまう。ケイタは続けた。
「さっきのビルゲの娼婦たちに頼まれてな。どうせ足止めされてるからギャング掃除の依頼を受けたんだ。旅費稼ぎも兼ねて」
あ……。セラは、違う意味で衝撃を受けた。
「さっきの娼館でのあれって――」
「ちょっとしたお礼、だと思う」
ケイタは居心地悪く顔を上げた。
「そうだったのですか……」
セラは俯いた。
慧太のこれまでの態度、娼婦たち、そしてギャングだという男たちの言動――すべてが繋がった。
彼は傭兵として当然のことをしたのだ。依頼され、それを果たした。旅費稼ぎも兼ねて。
ケイタはセラの使命、その旅のことをきちんと考えてくれていたのだ。
思えば自分は文無しだ。町の宿に泊まるにもお金は掛かる。アルゲナムから旅立ち、世間で物を調達するにはお金やその他交換できる品が必要なことを思い知らされている。この善意の傭兵たちは自己負担をしているのだ。
――考えてなかったのは、私のほうだ……。
人を巻き込みたくないと思いながら、ケイタたちが同行するようになってすっかり頼りきっていた。簡単な事実さえ、忘れてしまっていたのだ。
「……セ、セラ?」
ケイタが驚いたような顔をしている。――やめて、そんな顔で、私を見ないで。
涙がぽろぽろとこぼれる。恥かしくて、情けなくて、悔しくて。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
泣いちゃいけない、これ以上、彼に心配かけちゃいけないのに――セラは涙を拭うが、後から後から湧いてくる。
そんなセラに、ケイタは先ほどまで殺気を放っていたのと同一人物とは思えないほどの動揺を見せる。
「なあ、セラ……頼むよ。泣かないでくれ――」
セラは悪くないから――ケイタはそう言って、なだめてくるのだった。
彼は優しい。
けれど、今はその優しさがセラには辛かった。
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