四ツ目通りをまでをしばらく下った頃。堀川を渡り少しして江東区役所の庁舎が見えた。すぐのところの交差点を右に曲がる。永代通りとあるその通りに入ったところで、車は再び路上駐車した。前島に着信があったためだ。

 慌ただしく車を止め、「少し、失礼します」言って車を降りる。外からは一言も聞こえない。ただ先頭席のドアが開いた時だけ、外の空気と隔たりのない雑踏がまじまじと聞こえただけ。

 電話の途中、前島は慌てたように車に飛び乗った。見るにシートベルトも付け忘れている。車は急発進した。とても安全とは呼べなさそうな速度。

「すみませんが、すぐに東中野には行けそうにない」

「えっ、それは、どうしてです?」

「ナオが逃げました。秋葉原で電車を飛び降りたみたい。悪いが、あんたも付いてきて貰いますよ。あんたみたいな人がいなきゃ、面倒なことになりそうなんですよ」

 車のハンドルをいまにも叩きつけそうな勢いで、前島はハンドルを握っていた左手を強く握り直した。右手は、ずっとハンドルを握ったまま。何かの前兆か苛立ちが、一瞬の行動に垣間見える。態度の一変が、それをどこかしらで裏付けた。

 流れる景色。停止信号で止まった場所からすぐのところに、木場駅の入り口がある。

「だらだらしてられないな」

 つぶやきながら、前島どこからか地図を取り出す。すると車は周りの目も顧みず左折した。だいぶ余裕のある通りを、前島は遠慮なく飛ばした。揺れる車内に、僕は思わず頼りない天井付近の手すりに掴まった。

「どこに行くんですか?」

「台場だ。あそこは意外と単純じゃないから、まるで鬼ごっこさ」

 見知らぬ通りをずっと行く。終始空いていて、信号待ちの意味がないところも多いが、決して信号破りはしない。前島の運転は荒いところもあるが、その辺は律儀だ。おかしな進路をたどりながら、ようやく見えてきた台場の観覧車がいつかの夜を思い起こさせる。だが、台場はそれだけではない。

 印象的な高い建物はいくつもあった。前島はまったくの無関心でだが、こっちは数年前に流行りの便乗で来たくらいであまり覚えていないし、夜景は初めてだから流れる景色が少しもったいないとさえ感じる。

 球体ビルの手前を左折し、東京テレポート駅のロータリーに続く道に入ったところの駐車場。きれいに止めた車を降りた僕と前島。

「付いてきてくれ」

 観覧車を眺める僕に、前島は促した。一目見る暇もなく、急ぎ足で駐車場を出て、通った交差点を渡る。さっきも見えていた丘の階段を上る。道路の上を急ぐうち、球体は真正面に見えていた。

 前島は電話する。「うん、ブロムナードはこっちが探す、わかった、頼んだぞ」

 誰かとのやり取りを終えた前島は、このブロムナードと呼ばれる広場を散策した。あまりにも広いその広場の様子はよく知らないが、とにかくいまの時間は人がまったくおらず、遠くの球体ビルや観覧車がアンバランスに感じられるほど。若干の寒気はするし、こんな遠くまで見渡せる場所に人っ子一人いないのに、どうしてお目当ての彼女がいると思うのか。

「ここにはいないんじゃ?」

「いや、わからん。全部見えてるようで、台場はいろんな角度から見ないとわからないんだ」

 どこかに根拠があるらしい一言。前島はこの後も、左右に移動しては奥を見渡し、また反対に回ったりした。こっちも目が回りそうだが、球体ビルのおかげで方向音痴にはならなさそう。

 向こうの街灯がうらやましかった。ここはまだ暗い。僕の背中に誰かが隠れていても、物音がしなきゃわからないくらいの暗闇。確かに、物陰がなくても探しものは見つからないかもしれない。

 また前島に電話。

「なに、見つけた? わかった、すぐ行く」

 電話を切った前島。ブロムナードの外側、球体ビルの方に向けて歩みながら。

「潮風公園にいた。洗いざらい精算するよ」

 アスファルトの上を久々に踏んだような感覚。ついこの前できたできたばかりの未来科学館を流し見て、ゆりかもめの下の通り。少し人の気配があるような気がしたが、船の科学館駅前には人の気配がなかった。ただ頻繁に車が通り過ぎるだけ。通行人などごくまれだ。眼下に首都高が見渡せる。左側は海底トンネルか。右側は広々として、球体ビルが斜め右にあった。

 それを過ぎ、やっと公園らしき入り口。反対側には高層ホテルがあって、球体ビルなんかはすっぽりと覆われてしまった。足を止めることもなく公園内の木々の間に行く。この時間ではあまり良いイメージを持てない公園の影みたいな場所だが、前島は躊躇もしなかった。

 そこに人影があった。ナオと錦糸町でワゴン車に乗り込む時に見た金髪テクノカット。運命の再会だった。世の中に金髪テクノカットのいかつい野郎が何人いるだろうか。テクノカットは僕を見ても、気づいてないのか変な身じろぎはしない。ただ前島ばかり気にしているようだった。

「なんで逃げた。これからは頑張るはずじゃなかったのか?」

 ナオに飛ぶ説教。

「この人にも恥をかかせてるんだ。ひとつ、謝ったらどうだ?」

 前島は僕のことを言っているようだった。

「いえ、僕は何も。それと僕、ヨウスケって言います」

「……そうですか。何かすみません。私があそこで名刺を断ったから」

「大丈夫ですから。ナオさんも謝る必要はない」

 僕が喋っていると、うつむく前島に対してナオの態度は頑固だった。腕を組んでとなりのテクノカットにも遠慮は見せない。むしろテクノカットがその迫力というか、一線を画するようなナオに圧倒されている。

「代表、撮影のほうはどうします? カメラマンは浜松町に待たせておきましたけど」

「すぐに向かおう……ヨウスケさん、今日は本当にすまない。これはほんのお詫びの気持ちですから、ナオのためにも受け取ってください」

 スーツの内ポケットから封筒が出てくる。

「僕はそんなつもりじゃ……」

「遠慮しないでいいのよ、そんなはした金」

 ナオがいった。腕を組んだまま、野次を飛ばすような様。

「ナオ、黙ってろ」

 テクノカットの一言で、ナオは口をふさいだ。前島は封筒を差し出したまま。僕は封筒と前島を二度見する。持ち手を見るに、割と厚そう。詫びにしたって、そこまで厚い理由はないだろう?

「それじゃ、失礼します……僕は電車で帰りますから、お気になさらず」

 僕は封筒を手に取った。少しお辞儀して、気味の悪い公園の木々から走り出す。すぐに車通りが見えて、安心してくるが足は止まらない。そのまま台場駅の階段まで向かい、駆け上がる。ここまで来れば持ち物の多い、買い物帰りのファミリーやカップルも多い。

 当たり前の安全地帯に息を切らしつつ、新橋までのきっぷは310円。仕方ない。500円玉を使ったから、余分なお釣りも多い。喉も乾いたことだし、寒いなか炭酸ドリンクを買った。こんな季節だからこそ、フレッシュな気分にもなりたくなるものだ。

 暖房まみれで混雑する車内のおかげでそのフレッシュな気分はすぐに失われたが、ようやく新橋に着いてまともな帰路につく。


    ■


 翌、火曜。雨がチラつく少しうるさい朝。玄関先には小包が投函されていた。昨日の夜、シュンから連絡があったが、最新版アンチウイルスソフトのディスクを送ったということらしい。わざわざ郵送しなくてもいいのだが、貰い物には感謝しなければ。

 開けてみると一枚のディスクと説明書類。支度をするうちに読み込んで、いろいろ設定。案外早く終わってしまった。試しにネットを覗く。見知りのポータルサイト。新鮮なニュースが並ぶ。テレビではやってないような芸能ネタまで細かく掲載されていた。

 思い出したようにURLを入力して開いたのはシュンのホームページだった。掲示板に顔を出す。『シュン、来たぞ』すぐに返事が届く。『ようこそ』埒もない会話。『送ってくれてありがとう』『礼はいいから、もっといろいろパソコンを役立てろよ』。

 飽きたのか、忙しくなったのかあるところからすっかり返信が来なくなる。どうでもいいが、区切りが悪かった。だが僕も出る時間。本当は区切りなど適当で良いのだ。元からそんな関係でつないできた。

 『錦糸町南口ブックタワー』。店先は開店前から行列。話題なのに部数がまったく足りないという小説と写真集お渡し会のおかげだろう。どちらも先着順。速いもの勝ちの世の中に、みな貼り付いて離れようとしないのだ。

 少しだけ前倒しして開店という店長からの通達直後。1階正面口から入ってまっすぐのエスカレーターを駆け上る足音。エスカレーターが1列だからだろうか、もう少しゆっくりして欲しいところだが、なだれ込む人々は文学エリアに積まれた例の小説を手に取る。

 まるで奪い合いのような場面もあったが、部下たちがうまく取り計らってくれる。僕らが会計をやったり、入れ替わりでわずかな在庫を店頭に足して沸かせる。また、写真集お渡し会目当てのおじさんたちは3階に向けて一度エスカレーターを乗り換えていた。あちらのことは知らないが、2階は例の本が積まれる一角以外は誰もいない。書店員も同じく。

 会計カウンターだって例の本のすぐとなりにある。すべてが見渡せる状況は、万引き防止にもなる。いくら人が多いといったって、本を取る手は必ず見える。ただでさえ大きめな単行本を隠すのはなかなか困難。そうしているうちに、例の本はすべて売り切って在庫切れ。

 次の入荷は不明と伝えると、買えなかった客たちはすべての店員に詰めかける。僕も対応していると、向こうから写真集片手にエスカレーターを降りてきたおじさんが微笑んでいた。こちらを見るその目は哀れとか、蔑みの類いだろう。同時、そのおじさんにぶつかる男。

 当たりどころが悪かったのか、写真集のカバーがやや曲がってしまったらしい。怒るおじさん。無視して駆け下りる男。店員の一人が駆け寄るも、肝心の男は逃げてしまった。一方、目の前の客は別の本を探すか、うつむいたままの背中でエスカレーターに立ち止まるなどして、個性にあふれていた。

 少し鼻につく匂いがする。あまり吸いたくない感じ。臭いのではない、タバコみたいな匂いだ。紙を扱うから従業員エリアの一部以外は禁煙にしているはずだが。奥のスペースを見に行く部下が叫んだ。

「火事だ!」

 僕はすぐにすぐ後ろにある火災報知器の重々しいボタンを押下した。けたたましく鳴り響く警報音。事態を察知したのか、上から下から店員が集まってくる。同時、客たちは下に避難させた。火元は会計カウンターや客の集まりからはエスカレーターに隠れて見えないところ。要は、正反対のエリア。あまり売り上げのない本が多くマニアの姿さえ見られないから、体のいい不人気エリアだ。

「あいつがやったんじゃないか」

 憶測が飛ぶ。写真集オヤジにぶつかった黒ずくめの男。足早の理由。無理もないが、僕はあくまで消化器を手に火元へ向かう。だが、紙の密集地帯は運悪くどんどんつながっていく。火元は何箇所もあったのだ。消化器一つじゃ足りない。みんな、消化器をかき集め火にぶつけるが、勢いは収まらない。苦しくなってくる。気づけば煙が天井までぐるぐると店内をうろついていた。

 消防車のサイレンが通りから聞こえる。僕もみんなも、ここらが引き時と判断したようだ。エスカレーターを駆け下りる。まさか、僕が外を求めて動くエスカレーターを夢中になって降りるだなんて。そして、苦手という意識は夢中であるうちに抜け落ちた。

 店を出ようという頃、なだれ込む消防隊員。重々しいホースを抱えてエスカレーターを上る消防隊員にとって2階は戦場だ。僕の職場がいまでは錦糸・江東橋界隈でいちばん危険な場所になっている。認めたくないが、聞きつけて集まる客でもない第三の野次馬が嫌らしく危ない様を語りかけるようだ。

 行き交う消防と救急隊員たち。何が起きているのか、僕にはわからなかった。ただ2階で火事というだけ――警察も集まってくる。僕はいろいろ訊かれ、気づけばビル2階の窓は開かれていた。

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