第七十四話 天を翔ける地上のけもの

 晴れ渡った蒼天を見ながら、太師張政はかつて「張角」と名乗っていた過去に思いをはせ、目を細め皺を作った。


『蒼天已死 黄天當立 歳在甲子 天下大吉(蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし。歳は甲子に在りて、天下大吉)』


 蒼天とはすなわち、天命である。天命を失った漢を死した蒼天とし、自らは火徳の漢を革める土徳の黄天とした。


 そして、あの年は甲子であった。古より天命が下される「革令」の年といわれ、まさに乱れた漢土の革命には相応しい年だった。


 人々は、自分に希望を託していた。爛熟し、腐敗しきった漢という国は、官位が売買され、出世は賄賂が全てとなった。賄賂のすべては無辜の民からの搾取によるものであり、民の生活は困窮を極める。そこに天災が襲いかかる。病が流行る。だが、文武百官がそのようにして出世しているから、彼らの中で民の救済が頭にある者などいようはずが無い。


 国が荒れる一方で、民は常に救いを求めていた。だが、そんな救いなど、天からは降りては来なかった。ただひたすら奪われ、なぶられ、天に向かって非難の声を上げる気力も無いまま、虚空を眺め、死を待つばかりの者たち。

自分はたまたま神通力を与えられ、その力で風雨を鎮め、疫病を治してはいたが、感じていたのは彼らにと同じ空虚な絶望であった。


「ありがとうございます。ありがとうございます。これでまた働けます」

 あの若者は確かに笑顔だった。だが、五日後に飢えと過労で死んだ。身体を弱らせて病にかかり、それを治したからといって彼らの生活は何も変わらない。結局、終わりの無い地獄に送り出しているのと何が違ったというのだろうか。

 この病んだ国を治さねば、民たちは救われない。その志から師より道を学び、太平道という組織ができあがった。信徒は漢土中に瞬く間に増え続け、数十万の規模となった。

 

 そして人々の願うままに、革命を試みた。数十万の信徒がそのまま軍兵となるわけだから、とてつもない規模の武装蜂起である。

 だが、それはその年の内に鎮圧され、「乱」として歴史に名を残すことになった。

 天命は、我らに下らなかったのだ。

 それからどれほど天を憎んだことであろう。どれほど人の無力を嘆いたことだろう。

 

 結局、どれほどの希望と熱情が、あるいは絶望が集まろうと、人は天の下では奴(奴隷)にすぎないのか。

 

 そんな自分が、倭国すなわち蓬莱と呼ばれるこの地に流れ着き、王に仕え、古代より伝わる「九鼎」を使って天命を受けさせて天子を誕生させ、今、かつて天命の象徴とした蒼天を仰いでいる。なんと皮肉なことだろう。

 だが、それは仕方の無いことである。人の意思よりも、天こそが太平への道なのである。

 

 大日の輝く蒼天に小さな輝きを見たのは、張政がそう思って睫を伏せて深い息を吐いたその時だった。


 「あれはなんだ」

 

 どこかの軍兵が小さな光を指して、叫んだ。

 張政はすかさず漆黒の瞳を赤くし、千里眼をもってその先に目をやる。

 すると、阿蘇の方角から大日へと蒼穹を翔けるのは、一羽の鵄ではないか。金色に輝く鵄はますますと高く飛び上がり、まるで日の中心へ還るかのように何のためらいも無く進んだ。

 その小さな輝きが、大日の輝きと重なった。


「な、なんだ」


 その瞬間、轟々という音が天地に響き渡り、凄まじい振動で大気を振るわした。地震だ地震だと軍兵たちが混乱する中、張政はすぐに冷静に状況を分析する。

 この振動は、地中からのものではない。むしろ空から降ってきているものである。空からの振動が地に響いているのだ。

 一体、何が起こったというのだろうか。あの輝く鵄が、天を動かしたとでも言うのか。


「まさか・・・!」


 次の瞬間、何故か憤りを覚えた張政と、平野に集まった軍兵が蒼天で見たものは、とてつもない奇跡であった。

 山や森、地上のあちこちから、あの鵄に続いて今まで見たことも無いような無数の鳥たちが、大日へと集まっていた。雀、燕、烏、鳶に鷹、鶴、白鳥、ありとあらゆる種類の鳥たちがまるであの金鵄に導かれるかのように、日天へと向かっていた。この天地の震動は、彼らの羽ばたきによるものなのだ。


「ちょ、ちょっと、張政! これは一体何事なの?!」


 倭国大王の震えた声をよそに、空の鳥たちはますます数を増していた。

何千何万何百万。この地の言葉で言うならば、八百万(やおよろず)。このままでは天全体を覆う勢いである。

 そして千里眼で真実を見ている張政は、さらに信じられない事実に直面していた。


「こ、これは。なんということでしょう。信じられません。あの・・・あの無数の鳥一羽一羽に、小さな、小さな神が宿っております。あれはこの地で生きた人の意思です!」

 張政は目を見開き、師より賜った九節杖を放り出して、何かに訴えるかのように叫び続けた。

鳥たちはなおも天空に集まり続け、幾重にも重なって層を成し、ついには全天を覆い尽くした。

 地上は、まさに夜となった。


「なんとういうこと。なんということ。古来からの正しい作法で天を祀り、天子となった私が誓約に負けるなんて・・・」


 頬に手をやる帥鳴の呟きと呼応するように、集まった軍兵たちは地の果てに放り出されたように乱れに乱れて狼狽えた。ある者は武器を投げて逃げだし、ある者は正気を失って失禁したり踊ったり叫んだりしている。馬上の将たちも、彼らを叱咤するどころか暴れる馬を抑えるのに必死でそれどころでは無かった。


「静まれ!」


 かつて聞いたことの無い張政の怒鳴り声が羽音を突き抜けて響き渡ると、軍兵たちは少しは落ち着きを取り戻した。だが、彼らの視線はひたすら天空に蠢く翼を持った黒い影にある。

 その時、無数の蠢きの一群が、明らかな意思を持って動き出した。

 張政は恐怖した。

 先ほどまで、あの位置にあったのは。


 その一群が円を描いて道を開くと、地上には一筋の美しい光が降りてきた。

 人々は無意識のうちにその光の先の楼観に顔を向ける。

 そこにいたのは、紛れもなく一人の巫女である。

「ククリ・・・!」

 ククリは目を閉じ両手を広げ、降り注ぐ聖なる光を吸い込むように全身に受けていた。


 そして全てを見通すような眼を開くと、眼下の張政と帥鳴を見やった。楼観の邪視避けに吊された幾つもの鏡が日光を反射し、その光は倭国の巫女や軍兵を容赦なく貫いた。人々は悲鳴を上げ、目を覆ってその場に蹲る。


 追い打ちをかけるように、ククリは大切に胸に下げていた鏡を手に取って反転させると、天に掲げて光を受けた。途端に五色の光が反射し、鏡からあふれ出す。

ククリはその光を集まる軍兵に照らした。すると今まで狂騒の坩堝であった者たちがぴたりと動きを止め、全ての力を抜き取られたかのようにただ呆然として、その場にへなへなと座り込んだ。


 この瞬間、まさにククリこそが『太陽』だった。


「ああつ、兵たちが。ちょ、張政。私は・・・負ける・・・負けるのか?! 倭国は、あの女に乗っ取られるのか?!」


 輿から落ちた帥鳴の言葉で、太師張政は我に返って王を支えようと駆け寄った。


「・・・いいえ、大王の存命の内は奴国が倭国の宗主でありましょう。なれど、大王がお隠れになったのちは」

「まさか!」

「そう、大王は死した後に負けまする」

「張政・・・お前は、どうしてそんなに嬉しそうな顔をしているのよ!!」

そう言われて、張政は自らの表情と、流す涙に気がついた。

「大王よ、あなたは天命が下って天の化身となりました。けれど、この誓約、人ならばあなたが負け、ククリ殿が勝つというのは、喜ばしい事ではありますまいか。ご覧なさい、あの光を。ククリ殿が制しているあの光。あれこそ、天壌無窮の光でございます」


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