第三十八話 事件

 内側の垣には見張りは一人もいなかった。

 日が暮れると係の者が篝火を点けにくるが、後はそのまま朝方に消えるまで放置されているのだ。巫女団の里は豫国最大の機密とは言え、麓に複数の砦があり、ましてこの数百年、侵入者も内からの脱走者などいなかったのだから、その見張りなどこのようなものである。


 複数の部族が構成している倭国等とは違い、豫国は統一されて久しい国である。国内の奥深くにあるこの里に侵入する者など、まずいないのだ。

 それでも垣は無人であっても、門は固く閉ざされており、結局垣をよじ登る以外に越える手段はなかった。レイもナルも元々敏捷のためそれほど難しい事ではなかったが、動きやすい服装のレイとは違い、ナルは囮のためにも普段のように袖も裳も長い服装だったため時間がかかった。


 しかしもたついていると、レイが苛ついて催促するのだから、いっそこのまま帰ってやろうと何度も思ったことかしれない。


「一体、いくつ垣があるのかしら」


 闇夜に息を切らせて走りながら、ナルは思った。そもそも、まさに自分も未だかつてこの里の外に出ようとしたことなど一度もなかったので、この垣が一体いくつあるのかなど知りもしない。古い垣に終わりはなく、果てることなく続いているような錯覚に襲われてくる。


 せめて数が分かっていると気も楽なのにと思っていると、不意にナムチの事を思い出した。


 ミカドからの使者であるナムチは、この延々と続く垣をどうやって越えてやってきたのだろうか。仮にも使者なのだから、正規の入り口から堂々とだろうか。いや、確かに一度は正式な使者として里に来たこともあるが、他の時は全て非公式だと言っていた。恐らく彼もこの道のりを忍び込んできたのだ。


 レイが、「ここよ」と鋭く囁いたのは、少しでもナムチに情報を聞いておけば良かったとナルが後悔していたその時である。


 木陰に隠れた二人の先には、二人の男達が門の前で立っていた。どちらも兜と鎧を着て武装しており、眠たげな表情であくびをさえしていなければ、屈強な兵士に見えた。


 ナルとレイは頷き合った。恐らくここが最後の垣である。ここを抜ければしばらく行く手を遮るものはなく、麓を囲む砦が待ち構えるのみだった。もちろん、逃げるのならばそれだけでも絶望的なことではあるが。


「本当に、ここさえ抜ければ後は大丈夫なの?」


 ここまでくると、ナルはむしろ後のことが気になった。砦はこことは比べならないほどの兵がいるだろうし、砦は山を囲んでいくつもあるのだから逃げられる可能性は極めて低い。

 レイは怯えながらも、頷いた。


「ここまで来れば十分よ。あとはやるしかない。やるしかないのよ」

 この言葉は、自信に向けられているものに違いない。焦点が定まっていない目で、そう呟くレイは見るに堪えなかった。


「ねえ、レイ。やっぱり帰りましょう。ここを抜けても、麓には砦があるのよ。無理よ。今から帰って、イワナ様に助けを求めればきっと」


 ナルが言い終わらないうちに、レイは驚くような勢いと強い力でナルの首をぎゅっと締めてきた。殺意があるのではなく、ふざけたことを言うなという意思表示だった。


「あなたは甘い! 私を生贄に仕向けたのは、イワナなのよ! その人が私を助けるわけ無いじゃない。あなたはいつもククリ様やイワナに守られて、その身の安全を保証されてきた。でも、私はいつも一人で戦ってきたの。村長の娘だったサキや、ククリの妹だったあなたたちとは違って、東人の奴碑の娘として生まれた私は今までずっと一人だったのよ! 努力して努力して幹部にもなった。だから、大丈夫。ここさえ乗り切れば、絶対に生き抜いてみせるから、だから」


 そう言って、レイはナルを突き放すとあたりに響く大きな声で叫んだ。

「誰か、脱走者です! 誰か捕まえて!」


 兵士達のすぐ側に倒れるようにして出てしまったナルは、格好の獲物だった。今まで寝ぼけ眼だった兵士達の顔が恐ろしい目顔にかわり、武器を携えて自分の元へとやってくる。


 土の味を感じながら、ナルは一瞬何が起きたか分からなかった。計画では、ここで二手に分かれて自分はここから中へ目立つようにして中に行き、巫女の姿を見た兵士達がそれを追いかけ、レイがその隙に最後の垣を越えるという手はずだったのである。

 

 途中でナルが捕まったとしても、ナルは外ではなく内へと向かっており、薬の材料を探している間に日が暮れてしまい、慌てて家に帰るのだと説明すればそれで大事にはならないと算段していたのだ。

 レイにしてみても、その計画でもこの場から脱出することは十分な可能性があったはずなのだ。

 

 しかし、ここで脱走者という言葉を使われ、捕らえられてしまえば、それどころでは すまされない。

 ナルはレイのいる木陰の方に目をやったが、そこにはもう彼女の姿はなかった。すぐさま自分も逃げようとするが、ナルがやっと立ち上がった時には、屈強な男達が険しい顔で自分を取り囲んでいた。

 

 縄で両腕を縛られ、男達に連行されたナルがサクヤの宮に着いたのは、もう夜明けが差し迫っている頃だった。

 見張りの兵は、無抵抗のナルにむやみな暴力を振るわなかった。仮にも神聖な巫女であるから、迂闊には手出しが出来ないのだ。そもそも彼らも、少しは外敵の侵入には用心していただろうが、まさか巫女が里から逃げ出すという前代未聞の事態の対応は考えもしていなかったはずである。


 見慣れぬ男、それも武装した兵への恐怖でその場で斬り殺されるのではないかと想像していただけに、この扱いには少しだけ安堵することが出来ていた。

 それでも闇の中で垣をいくつも越え、レイに突き飛ばされ地に伏したナルの顔も衣服も泥にまみれ、髪も乱れて囚われ人に相応しい容貌になっており、ナルをより惨めな気持ちにさせた。

 取り決めがあるのか、男達は相談もせずすぐにナルをサクヤの大宮へと連れて行った。本当であれば里中巻き込んでの大事件であるが、宮への道のりは行きと同じく密やかだった。


 なるほど、『脱走者が出た』なとどいう事態を誰にも知らせまいとしているのだろう。

 サクヤの宮にはすでに幹部達が顔を揃えていた。連れてきた兵はそそくさと退散し、幹部がナルを取り囲むように座っていた。

 誰もが恐ろしく険しい表情であり、巫女団の幹部達の迫力はナルを怯えさせるのには十分だった。


 その顔ぶれの中には、必死で平静を保っているものの、蒼い顔のイワナの姿もあった。


「これはどういうことですか、ナル」


 他の娘よりは面識のあるサクヤは、厳しいながらも親しげに問い質した。まるで術を正直に話せば許してもらえそうな雰囲気を出しているが、騙されてはいけない。幹部達からは無言ながら容赦ない厳しい視線が浴びせられたが、ナルは意を決して整然と説明を始めた。


 病に効く新しい薬の材料を探していたところ、夢中になり、あと少しあと少しと思って垣の外へ出てしまったこと。知らぬ間に時が経っていて、こんな時間になってしまっていたこと。その姿を見つけたレイが、自らが脱走する際に自分を利用したのだと告げた。


 全てを説明した時、幹部であるキョウは小馬鹿にしたように笑いながら言った。


「そんな出来すぎた話、私たちに通用すると思っているの?」

 

 色白で切れ長の目、凹凸が少ない顔立ちのせいか冷たい印象の彼女は、レイの指導役だった。

 彼女は今ナルが語ったことが偽りであることを論破した。


「レイには監視をつけていたの。報告によると、自分の宮から出たレイはあなたを尋ねた後、二人で抜け出したのをその子が確かに見ているのよ。あなた、彼女の脱走を手助けしようとしたわね」


 にやりとするキョウを前に、ナルは堂々と答えた。


「いいえ、それは何かの間違いです。どうして私が、そんな事を手助けするというのでしょう。私は確かに薬の材料を探す為に垣の外には出ましたが、レイのことなど知りません」


「小癪だこと。では、あなたはあくまで一人で林にいたというのね」


 その問いに答える前に、すかさずイワナが割って入って来た。


「キョウ、あなたは少し話の方向を間違えているではありませんか。細かい部分はどうであれ、里を抜け出したのはレイで、ナルは今ここに残っています。幹部であるレイがここにいないことを見ると、彼女が脱走したことは間違いないでしょう。今早急にすべきことは、レイの行方を捜すことではありませんか」


「レイが里の外へ出たとするならば、それはもう私たちの管轄ではなく里の安全を司る兵たちの仕事です。私たちが里を出て捜索するわけにはいかないのですから、当然でありましょう。私たちに出来るのは、脱走を手助けした疑いのあるナルを裁くことです。ナルが脱走を手助けしたのかしていないのか、まずはそれをはっきりさせましょう。ねえ、ナル、あなたは本当にあの林に、一番外の林にいたのね」


 ナルはキョウの白蛇のような目顔にたじろぎそうになったが、ここで怖じけてなるものかと、なんとか堪えた。


「はい・・・・・間違いありません」


 その時のキョウの笑みは、背筋が凍るほど恐ろしいものだった。大蛇が獲物の捕食を確信した時のように陰湿で、凄惨そのものである。人間にこのような顔が出来るのだとナルは内心恐怖した。このような人がレイの指導役だったのかと思うと、それと併せて鳥肌が立った。


 「サクヤ様、この者を罪人としてお捕らえ下さい」

 ナルとイワナは互いに息を呑んだ。

 イワナが一足先に我に返り、声を上げる。


「一体何の容疑ですか。今の答えで、ナルが脱走の手助けをしたと言うことが確定するというのですか」


「いいえ、もはや脱走の手助けではありません。殺人です」

 その言葉には、集まった幹部達からも驚きの声が上がった。殺人という、巫女には決して近づいてはならないその響きに、誰もが面食らい、嫌悪感を覚えているのだ。

「実は先ほど、私がこちらに来る直前に、ナルが捕らえたあの場所の林で。見習いの巫女の絞殺死体が発見されたのです。もしナルが、レイと一緒であったならば、逃げ出したレイにこそその疑いがありましたが、ナルはあの場所に一人でいたのですから、一番疑わしいのはこの子ということになります」


 勝ち誇り、今にも笑い出しそうなキョウにイワナは怯まなかった。


「ふっ、そんなもの。レイがその子を殺して逃げ出した後、その現場を、たまたまナルが通りかかかっただけかもしれないではないですか。そもそも、逃げ出そうとしていたレイなんらまだしも、ナルがその亡くなった娘を殺す理由など、どこにあるというのです」


「それは分かりませんわ。今は全て可能性の話ですもの。もしかしたら、レイとナルとの共犯かもしれませんし。サクヤ様、お願いです。どうかこの者を拘束し、取り調べる許可を下さい。私が真実を白日のもとにさらしてご覧に入れます」

 一同の視線がサクヤの元に集まった。左右に設けられている灯りはひときわ輝いたが、サクヤは表情を変えることはなく静かな声でその問いに答えた。


「許可します」


 イワナは息を飲んで戦きはしたものの、すぐに聡明な思考を取り戻すし、すかさずサクヤに訴えた。


「では、取り調べには私も立ち会いの許可を求めます。それと面会の自由の許可も。ナルはが犯人と決まったわけでもなく、私はナルの指導役ですもの。当然でしょう」

「よろしい。それも許可します」

 キョウの小さな舌打ちを誰もが聞いたはずだが、それを指摘する者はもはや誰もいなかった。

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