第8話 酒(後編)

 ジャーヴィスは自分の机に向かい、シャインが来るのを待っていた。

 そっと目元をこすりながらも、信じられないといわんばかりに、手に携えた緑がかった酒の瓶を見つめている。


「本当に……あったんですね。アスコットワイン。しかも……年代物のようです。そのラベル」


 シャインはコルクを抜いて、一緒に用意してきた硝子の杯にワインを注いだ。


「失敬してきたんだ。の酒蔵から」


 シャインは笑みを浮かべてジャーヴィスに杯をすすめた。

 それを受け取ったジャーヴィスの頬がピクリと引きつる。


「あの人って、まさか。グラヴェール中将閣下の?」

「そう。取りあえずあの人アドビスの選んだ物なら、誰に出しても大丈夫かと思って。なんせ、俺は酒に疎いから」


 ジャーヴィスは納得したように杯を手に取り、立ちのぼる酒の香りを嗅いだ。シャインは彼が満足げに微笑を浮かべるのを静かに眺めた。


「なるほど。流石グラヴェール中将閣下だ。これほどの酒は久しく味わっていません。とっておき、ありがたく頂戴します」

「じゃ、これが君の割り当て分だ。よろしく頼むよ」


 シャインはジャーヴィスの机の上に、未分類の書類を並べた。



 ◆◆◆



 積荷の明細書と受取書の突き合わせという地味な作業を、淡々とシャインは艦長室でこなしていた。ジャーヴィスと会話した事で気分転換になったのだろう。元々眠りが浅いせいもあり、いつしかシャインは作業に夢中になっていた。


「……終わった……」


 最後の一枚をとじ紐に綴じ、シャインは強ばった両腕を伸ばしながら長椅子に背中を預けた。


 四角い船尾の窓の外が白みかけている。艦長室の中もじきに迎える朝の光のせいで薄ら明るくなりつつあった。


 流石に眠気を感じつつも、シャインはふっと我に返った。

 そういえば、仕事を手伝わせたジャーヴィスが、終わったと報告して来ない。


 ひょっとしたら、夜も更けてシャインの部屋に行くのが憚れると思って、それで報告に来ないのかもしれない。


 シャインは手を伸ばして机の上に置いてあった懐中時計の蓋を開いた。針は五時前を指している。


「確かジャーヴィス副長は早朝直だったっけ」


 早朝の当直は四時半からだ。

 彼はもうとっくに起きていて、甲板に立っている事だろう。


 シャインは椅子から立ち上がり、再び伸びをして、長椅子の背にかけていた青い航海服を羽織った。ジャーヴィスに任せた書類を彼の部屋から持って帰るためだ。


「……?」


 艦長室から外に出たシャインは、ふと、ジャーヴィスの部屋から明かりが漏れている事に気付いた。


「ジャーヴィス?」


 副長室の扉は鍵がかかっていなかった。もとい、扉を開いたシャインは暫しその入口で身を固く強ばらせた。


『よろしく頼むよ』


 そう言って彼に押し付けた書類の山が、そっくりで机上に載っている。いや、それを前にしたまま、ジャーヴィスがこくりこくりと舟を漕いでいるのだ。そして『あっ』とシャインが思った途端。

 ごとんと。

 右腕を枕にするように、ジャーヴィスの頭が下がるのを見てしまった。


「……」


 起きるかなと一瞬思ったが、ジャーヴィスは小さな寝息を立てている。

 遅刻をするのもされるのも嫌いで、寝坊なんてめったにしない彼が、当直時間を30分以上過ぎても眠っている。


 これは珍しいものを見た。

 いや、そうじゃない。


 シャインは半ば薄笑いを浮かべながら、ジャーヴィスが抱え込むように腕の下敷きにしている書類を恨めしげに見た。


 そして半分程、中身が開けられているアスコットワインの瓶を眺めた。

 これを飲むようにすすめたのは自分だ。

 そのせいでジャーヴィスが睡魔に負けても文句は言えない。


 頭を振りながらジャーヴィスの部屋から出ようとした時、ロワールハイネス号が大きく左舷側に傾いた。

 まずい!

 机上の杯とワインの瓶がずずっと滑って落下する。

 これが割れたらジャーヴィスだって目を覚ます。


 シャインは手を伸ばし、なんとかワインの瓶と杯をつかまえた。だが、前に一旦傾いた体勢はすぐに立て直す事ができない。シャインはワインの瓶を抱えたまま、ジャーヴィスの寝台の下に倒れるように転がった。


「……何事だ」


 打ちつけた後頭部をさすりつつ、シャインは目を開けた。

 椅子に腰掛けていたジャーヴィスが顔を上げて、未だ視線が定まらない様子で周囲を見回している。


「なんでもないよ。船が横波を喰らって傾いただけだ」


 シャインの声を聞いてジャーヴィスが不思議そうに顔をゆがめた。


「グラヴェール艦長? 一体、私の部屋で何をなさってるんです?」

「いや、別に」

「別に、って……ん? 大事そうにワインの瓶を抱えて?」


 ジャーヴィスは目元を擦り、何かを気にするように、再度、机上に散らばっている書類に視線を落とした。


「……あ」


 目元を擦った手を口元に当て、霞がとれていくように、その真っ青な瞳が細められていく。


「あああ、わっ、私はもしや!」


 ジャーヴィスは椅子から飛び上がらんとする勢いで立ち上がった。


「私はっ、私はひょっとして、何の仕事も終わらせないまま、眠ってしまったんですかっ……!」


 床に座り込んだままシャインはジャーヴィスの狼狽ぶりを見つめていた。


「あ、ジャーヴィス副長。起きたんなら丁度良いです。早朝直はとっくに始まっているんで、当直お願いします~」


 クラウス士官候補性がジャーヴィスの部屋を伺うように、金髪の渦を巻いた頭を見せて立っていた。


「早朝直? とっくに始まっている……?」


 ジャーヴィスは不意にものすごい勢いでシャインを見つめた。


「グラヴェール艦長!」

「なっ、何だい?」


 ジャーヴィスが半ばどなるように叫ぶ。


「今、ですか――!?」



 ◇◇◇



 予定通り軍港へ入ったロワールハイネス号へ、書類の監査に来た役人たちを無事見送ってから、シャインは艦長室でシルヴァンティーを飲んでいた。


 心配していた不正の疑いをうけるような、指摘事項もなかった。勿論、そんなことをシャインはしていないが、安い給金を少しでも潤そうと、海軍の物資をくすねて転売する艦長や主計長もいるため監査が入るのは仕方がない。


「ジャーヴィス副長には、悪い事をしたなぁ」


 シャインは茶をすすりながら、ジャーヴィスの朝の狼狽ぶりを思い返した。

 シャインに頼まれた仕事も忘れ、早朝直には寝坊をし、うたた寝の現場をシャインに見られたと随分落ち込んでいたようだ。


 静かな副長の様子に、シルフィード航海長は嵐が来るかもしれないと、朝からぶつぶつと祈祷めいた言葉をつぶやきながら舵をとっている。


「僕が副長を起こせばよかったんですよね」

「いや、無理に起こさなくてよかったんだ。もとい、君にそんな勇気はないだろう?」

「え、えへへ……そうですよ、艦長。士官候補生ごときの僕が、副長を起こすなんて生意気な事、できっこないじゃないですか~」


 時間になっても甲板にジャーヴィスが現れないことが気になったクラウス士官候補生は、一度副長室を覗いて、彼を起こすべきか小一時間ほど悩んだらしい。胃が痛くなるほど。


 コンコン。

 艦長室の扉を誰かが叩いた。


「開いてるよ」


 カップをソーサーに置き、シャインは部屋に入って来た人物を見上げた。


「ジャーヴィス副長……大丈夫かい? なんか、元気ないみたいだけど」

「グラヴェール艦長。あの、今朝は……申し訳ありませんでした」


 入口に突っ立ったまま、ジャーヴィスは覇気のない様子で謝罪の言葉を述べて頭を下げた。


「いや。そもそも俺が悪かったんだ。君に自分の仕事を押し付けてしまったから」


 その点はシャインも申し訳ないと思っている。ジャーヴィスは仕事が早いので、どこか彼に頼ってしまう、自分の甘さが招いた結果ですまないと詫びた。

 そこでようやくジャーヴィスの強ばった顔に明るさが戻った。


「本当に悪かったよ。だから、これ……」


 シャインは執務机に近寄り、一番下の引き出しに入れておいたものを手にとった。


「そ、それは……」


 ジャーヴィスが絶句する。


「君にあげるよ。今度は非番の時に楽しんでくれ」


 シャインの手には、ジャーヴィスのために昨夜開けた、あのアスコットワインの瓶が握られていた。


「グラヴェール艦長……」

「何だい?」


 ジャーヴィスが喜んで受け取ってくれるだろうと思っていたシャインは、副長の突き刺さるような眼差しを見て息を止めた。


「あなたはっ……そうやって、また高価な品物で私を釣るおつもりですか! 私は何かの見返りを期待して、いつも仕事をしているわけではありません。あなたが困っていたら、当然の義務としてあなたの仕事を手伝います。そもそも、そのような高価なワインをちらつかせなければ、私も居眠りすることなく仕事を終わらせる事ができたのです。そりゃ、私だって、配給の薄いワインを飲みながら仕事をしています。飲酒のせいと言い訳したくありませんが、昨日の件ではやはりあなたが悪い。いいですか、あなたが私という部下を本当に信頼して下さっているなら、今後はこのようなことはないように願います。お気持ちは嬉しいですが、それはそれで、ありがたく受け取らせて頂きますから。では、私の言いたかった事はこれだけです。それでは、これにて失礼いたします!」


「……」


 ジャーヴィスはきっかりと礼をして艦長室から出ていった。

 後に残されたシャインはただそれを呆然と見送った。


「ロワール? いるかい?」


 シャインはお気に入りの長椅子に腰を下ろした。


「何、シャイン?」


 軽やかな風のように、ロワールの声がシャインの耳をくすぐる。


「疲れたから寝る。夜まで誰も部屋に入れないでくれ」

「いいけど。どうして?」


 シャインは頭にクッションを引き寄せながら、傍らに佇むロワールに言った。


「ジャーヴィス副長がああなったら、誰も止める事はできないんだ。さんざん皆に愚痴ったら、気持ちがすっきりするだろうから、俺はそれまでここで避難する」


「まあ、じゃあ皆、今日は副長にしごかれるわよ? シャインったらずるい」


「艦長の特権。俺はもう彼の愚痴をきいたからいいんだ。じゃ、頼むよ、ロワール」


 そうして艦長室に籠ったシャインは難を逃れた。

 だが運悪くジャーヴィスの愚痴の相手につかまったシルフィードが、珍しく体調不良を訴えて丸一日寝込んでしまった。


 その報告を受けたシャインは、シルフィードに例のとっておきを見舞いとして差し入れるのだが、特上のワインの味を知った彼は再びそれを相伴したくて仮病を使う。

 シャインがジャーヴィスに説教を喰らったのは言う間でもない。



 ー完ー



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る