第8話 酒(前編)

「……どうも、集中できないな」


 ロワールハイネス号の艦長室で、お気に入りの長椅子に背中を預けていたシャインは手にしていた書類から顔を上げた。


 出かかった欠伸を噛み殺しながら目元を擦る。柔らかいランプの照明に照らされた卓上に視線を向け、そこに置いておいた銀色の懐中時計に右手を伸ばす。


「もう0時前か」


 溜息と共につぶやきながら、シャインはげんなりと卓上に再び視線を向けた。

 そこには昼間、ジャーヴィスに言ってかき集めさせた、様々な書類や帳簿がうずたかく積み上げられている。


 それらの大半は、ロワールハイネス号が半年の間に運搬した、物資の明細と軍港との物品受領書だった。


 シャインは荷物が確かに受け渡されたことを証明する物品受領書の突き合わせと、サイン漏れのチェックという実に地味な作業を延々と行っていた。


 積荷の受け渡しは艦長であるシャイン立ち合いの元に行われる。積み込み時の量が運搬後に減ってしまうことが多々あるが、それは鼠の被害にあったり、嵐で船内が浸水し、やむを得ず傷んだ積荷を廃棄したりするからだ。


 だからあからさまに積荷が減っていても大きなおとがめはなかった。

 そう、先月までは。

 シャインは再び欠伸を噛み殺し、気を紛らわすため立ち上がった。

 限界だ。

 息を吐き出し、シャインは甲板に行こうと艦長室の扉を開けた。外の新鮮な空気を吸って、それからかまどの火を起こしてシルヴァンティーでも作らないと、作業効率が上がらない。


「……やっぱり、起きてる?」


 甲板へ出よう。そう思いながらも、シャインの目線は救いを求めるように、艦長室を出て右側にある副長室を伺っていた。上部の扉が格子になっている副長室からは、黄色いろうそくランプの光が神々しくこぼれている。


 積荷の受け渡しの確認作業は誰にでも頼める仕事ではない。重要文書扱いなのだ。だから、例えばクラウス士官候補生に手伝ってもらってもいいが、残念な事に彼は、今夜深夜直の当直で甲板を離れる事ができない。


「ジャーヴィス? 起きてるかい?」


 シャインは副長室の扉に近付き軽く握った拳でそれを叩いた。

 わざとらしく呼び掛ける。

 起きているとから呼び掛ける。


「……なんですか?」


 不満そうなきしみ声を上げて扉が開いた。そこには青い航海服を脱いで白い綿の長袖とベスト姿のジャーヴィスが立っている。


「あ、よかった。まだ起きててくれて」

「いや、もう休む所です」


 ジャーヴィスはばっさり言い捨てた。

 シャインはその言葉に唇をひきつらせながら、全く目元が笑っていないジャーヴィスの顔を見やった。


「あの、その……寝ようとした所、悪いんだが……」


 ジャーヴィスの青い瞳がすべてを納得したように細められる。ジャーヴィスは腕を組み、まるで教師が生徒に説教するような口調で話しだした。


「やっぱりまだ終わらないんですね? だから常日頃から私が申し上げているじゃないですか? 取引が終わった時に、明細書と受領書を一緒にとじ紐で束ねておくべきだと。別々にしまっておいてもいいですけど、監査の時に、指定した日付の受領書と積み込み証明書を出せといわれたら、それを探すだけでも時間がかかってしまいます。

  私は副長ですから、あなたのやり方に文句も忠告も申し上げる立場ではありませんが、でも、傍から見ていると絶対私のやり方の方がいいに決まってるんです。後でやろうとする、その怠惰な精神がいけないのです。いいですか? グラヴェール艦長。あなたはそこが唯一の欠点です。仕事を先延ばしにする人は、決して良い仕事をすることができないと、私は今までの経験から……」


「わかった、わかったよ、ジャーヴィス副長。それを今身に染みて痛感している所だ」


 シャインは慌ててジャーヴィスの言葉を遮った。

 そして、ジャーヴィスの部屋を訪れたことを激しく後悔した。


 ジャーヴィスは明らかに機嫌が悪い。おそらく、彼は本当に寝ようと思ってその支度をしていたのに、シャインによってそれを妨害されたからだ。

 でなければ普段礼儀正しい彼が、こんな嫌味な言い方をするはずがない。


「ああ、全部俺の怠惰のせいだ。今後気をつけるから、悪いけど、少しだけ手伝って欲しい……」


 機嫌の悪いジャーヴィスとは関わりたくない。けれど今抱えている仕事を一人で終わらせる気力もない。明日は問答無用で監査官がロワールハイネス号にやってくる。やましい事は何一つないが、書類の上でそれが指摘されて、あらぬ疑いをかけられることだけは回避したい。


「だったら、もう少し早く声をかけて下さればいいのに。終わらないのはわかっていたはずです」


 ジャーヴィスが再び抗議の火蓋を切って下ろそうと口を開く。

 まずい。

 シャインはいそいそと副長室へ入り込んだ。二人の会話が必要以上外にもれるのもまずい。特に、副長に説教される艦長なんて水兵達に見られたら、いい物笑いの種になってしまう。


「本当にすまない。君の睡眠時間を削ってしまう埋め合わせに、『とっておき』を用意するから手伝ってくれ」


 強ばっていたジャーヴィスの目元が、『とっておき』という言葉を聞いて不意に見開いた。


「『とっておき』とは?」

「とっておきだから、とっておき」


 シャインは薄く笑ってジャーヴィスを椅子に座らせた。


「単調な作業だから、何か飲みながらでもやらないと気力が持たない。だから、来客用の『アスコットワイン』を特別に開ける」

「!」


 椅子に座ったまま、ジャーヴィスが顔を上げた。右手を喉に添え、ごくりと唾を飲み込んだ。


「そっ、そんなものがこの船にあったなんて……知りませんでした」

「それはそうだ。言ったら最後、皆に飲まれて無くなってしまうからね」


 シャインはジャーヴィスの渋面が幾分和らいだ事に安堵しながら言った。


「でも、一体どこに?」

「それは言えない。なんたって、来客用のだから」


 ロワールハイネス号の建造に携わったシャインだからこそ、他の乗組員が知らない隠し場所を知っている。大きな声では言えないが、艦長室には様々な所に、ちょっとした物をしまっておくための場所があるのだ。


「じゃ、とってくるから待っててくれ」

「あ、私が艦長室に行った方がいいのではないのですか?」

「いや、いい」


 シャインは首を振りながらジャーヴィスの申し出を断った。

 彼と一緒に作業をすれば、きっと最後まで付き合わせてしまう事になる。そうしたらジャーヴィスは今夜徹夜になってしまう。彼は明日、早朝直だから、朝四時半には起きてクラウスと当直を交代しなければならない。一時間だけ手伝ってもらったとしても、彼の睡眠時間は約三時間ぐらいしかないのだ。


「少しだけ手伝ってくれたらいい。一時間程で終わると思う。じゃ、待っててくれ」


 ジャーヴィスにそう言って、シャインは艦長室に戻ると件の場所から酒を取り出し、ついでに副長に手伝ってもらう、仕分けの終わっていない書類の箱を手にとった。


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