第十三話 不可解な影
◆◆◆ 荒神裕也――
無数の叫びが折り重なるようにして夜を震わせる。
それはどこか混沌とした種類の叫びだ。ドタバタと派手な音をたて続けに鳴り響き、焦った宿泊客の声が慌ただしく廊下に鳴り響く。
そして――、
「い、いまの叫び声は」
「しっ、黙れ。外に何かいる。こいつは、……血の匂いだ」
「そ、それじゃあ今のは――」
「客の声だったな。野党でも入ったか」
「そんな、それじゃあご主人様は――」
立ち上がったレミリアの表情が一瞬青ざめるのを俺は見た。
この宿には従業員と俺ら二人を除く二十人の宿泊客が滞在らしい。
聞きなれない男の叫びだったが、どうやら彼女にとっては見知った叫び声だったようだ。
とするとあの褐色優男でも死んだのか。
キュッと自分の胸の手を当てるレミリアを一瞥していると、慌ただしい物音のあとに今度こそあのすかした商人の叫びが今度こそ廊下に響き渡った。
「――ご主人様ッ!?」
「おい、馬鹿。いま動いたって何にもならねぇぞ」
「離して。いま行かないと、わたし、わたしが――」
掌のなかから小さな温もりが逃げていく。
犬っころのように飛び出すレミリア。扉の奥がどうなっているかも確認せず飛び出す馬鹿がどこにいる。
勢いよく扉を開け放ち、廊下に身を躍らせる。そして廊下の先を見つめ、
「えっ――」
不格好な骨格をした四足獣が、赤黒い大口を開けてレミリアに飛び掛かった。
間抜けた声を漏らし、固まる小さな体躯。
そのまま横に黒曜を振るわねば、レミリアの顔は消失していただろう。
打ち振るわれる邪気の一太刀が、扉と脆い壁が派手な音と木くずをまき散らし、四足獣の化物の首を断つ。
絶命の声もなく後方に流れ飛んでいく化け物の身体。
壁にぶち当たり、派手な音をまき散らしたあと、力なく痙攣し動かなくなった。
「あ、あ、あああ」
「非常時に勝手にうろちょろしてんじゃねぇ!! 死にてぇのかテメェは!!」
「あ、アラガミ様。でも、あれ――」
あまりの衝撃に腰でも抜かしたのだろう。床にへたり込むレミリア。
その不安げに身体を痙攣させ、喉を震わせる幼い指先がとある一か所を指し示した。
「……なるほど。コイツはなかなか愉快なことになってんな」
血だまりのなか。一人の男が倒れ伏していた。
絶望の表情で瞳を開け、内臓をまき散らした男の顔には見覚えがある。
あの褐色優男が連れていた取り巻きの一人だ。
足止めにでも消費されたのだろう。
開け放たれた扉から血の跡がべっとりと床にこびりついている。
「……ガイゴ―様」
口元を抑えて、必死に吐き気をこらえ呻く声は弱々しい。
状況から見てもあの四足獣に襲われたとみても間違いない。
「はっ、それにしても奴隷を身代わりに使うなんざ、なかなかどうして奴隷使いの荒い奴だな。四人で囲めばあの程度の化け物でもまだ勝機はあったろうに」
「ご、ご主人様はあまり戦闘が得意でないので。でもどうしてこんな酷いことに――」
「……この辺で、魔獣が部屋に出没するなんてことはよくあるのか?」
「…………わたしが、知る限りでは、ありません」
緩く首を振るうレミリアが、枯草色の瞳に不安をため込んで俺を見る。
何度かこの宿を利用したことのあるレミリアもどうやら初めての現象らしい。
「この宿には、教会が交付している、≪魔除け≫があります。滅多なことでは、魔獣が室内に入ってくることは、ないのに」
「そいつの強度はどのくらいだ」
「わからない。でも、神様の力は絶対、だから」
そうたどたどしく言葉を紡ぐレミリアは、震える両手を抑え込んで僅かに身を寄せてきた。
死になれたと言っても恐怖がマヒしている訳ではないらしい。
僅かに俺の服の裾を握る指先が強くなるの俺は感じた。
「
「でも、どうしてこんなことに。他のお客様は――」
「逃げたか、あいつに食われたかのどちらかだな」
騒動が収まったのに誰一人一向に顔を出さないのは不自然だ。
扉を一つ一つ確認していけば、開け放たれた部屋は『赤黒い喰いさし』を残してほとんど空だった。
「……命あっての物種か。ふっ、この世界の人間ってのはずいぶんと逃げ足が速いんだな」
「あの、ご主人様は、やっぱり、私を置いて」
「さぁな。だが奴隷のお前にしたら朗報なんじゃねぇの?」
「いえ、あの――」
僅かに言い淀み、自分の平たい胸を触るレミリア。
「ああ、お前の呪いはそうだったな」
「――ッ!! なんで、そのことを知っているの」
一方的な≪因果の呪い≫
対象が死ねば、その死を連動させる形で呪いが刻まれた者も道連れになる悪趣味な呪い。
あの商人がどうなったのかは知らないが、『現状』を見る限り逃げ切ったのか。
もし無事に逃げ切ったのだとするなら、きっちり荷物をまとめて逃げるあたりがさすが商人というべきか。
抜け目ない奴だ。
しかし、そう悠長に観察している暇はないらしい。
鼻をひくつかせれば異様な臭気が階段の方から匂ってきた。
月夜が隠れた闇の中。
僅かな光源を頼りに目を凝らせば、死体が僅かに身じろぎする。
「ひっ――!? し、死体がかってに」
「いいや違う。なるほど、今宵の晩餐会に招かれたって訳か」
闇の中で蠢く唸り声を確かに聞いた。
先ほどまで何もなかった黒い床からのっそりと黒い塊が現れる
しがみつくレミリアを僅かに抱き寄せれば、闇の中で揺れる真っ赤な光がいくつも顔を出した。
「チっ、化物の同窓会でもやってんのかこの店は――」
「きゃああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッッッ!!!?」
血肉を食んだ生臭い匂いが充満する廊下に狂気の叫びが伝播する。
耐性のない者が深淵をのぞき込めば即座に正気を持っていかれるほどの衝撃。
照明が落ちた廊下の片隅。レミリアは見たのだ。窓から零れる月上りによって暴きたてられた獣の軍勢を。
「……どっから来やがった。クソが」
それは獣であって獣でなかった。
僅かに偏った骨格は生物のそれではない。だらしなく赤黒い舌を覗かせ、死体を食むそれは飢えた野獣だ。しかし、異形とも呼べる眼窩に収められた瞳は三つや四つと数もばらばらの統一性のない。
おおよそ狼に近い骨格をしながら、唸り声ははっきりと頬を掠めた。
「ア、アラガミ様。う、後ろ」
「黙ってろ。舌噛んで死にてぇか」
「は、はい」
服の裾をしっかりと掴むレミリア。
これ以上余計なものを見て混乱させるのも面倒だ。
そのまま顔を胸板に押し付けるように抱き寄せれば、息の詰まった声とともに体が僅かに硬直したのを感じた。
そして――、
振り向きざまに飛び出せば、背後に陣取っていた化け物が叫び声をあげながら襲い掛かってくる。
「道を空けろ、雑魚ども」
「GUAAAAAAAAUッ!!」
吠えたてるように獣の牙が臭気を伴い襲いかかる。
その数は三つ。対してこちらは『荷物』一つだ。
ハンデにもならねぇ状況だが、万が一もある。
冷静に戦況を分析し、俺は適切な行動で化け物を斬り飛ばす。
血しぶきを上げる獣の身体。
黒曜を通して俺の口の中に奇妙な味が広がった。
「(なんだこの味は――)」
横に跳び退り素早く自室に身体を滑り込ませる。
腕のなかで悲鳴が上がるが関係ない。そのままベット脇に放置した『荷物』に手を伸ばせば――、
死角の死角。
ベットの下から突如顔を出した獣の体躯が俺――ではなく、腕のなかで震えるレミリアに牙を剥いた。
容赦なく迫るぶぞろいな牙。
身をひねって躱し、そのまま顎を蹴り上げれば、鋭い嘶きと共に獣の身体が影の中に消えていった。
「(影を移動すんのかこいつら!?)」
それがこの化け物特有の能力かは知らないが、これほど厄介なことはない。
間髪入れずに背後から襲いかかる化物の顎を黒曜で粉砕し、そのまま打ち据えるように窓に打ち出せば。
人間大の体躯は吸い込まれるようにして窓を割り、甲高い音共に水っぽい音がべちゃりと落ちた。
窓枠に手をかけ、後ろを振り返る。
どうやらあの化け物は俺たちを獲物と認識している節がある。
こいつらがどこから現れたのかはっきりしない以上。消耗するのは俺達だ。
「窓から飛び降りる。舌噛むんじゃねぇぞ」
「えっ? あの、ちょ――、きゃあああああああああああああああああッ!?」
落下。
風を押しのける重圧と共に幼い叫びが鼓膜を震わせる。
着地の際、衝撃を殺し、素早く頭上を見上げれば躊躇うようなそぶりを見せる化け物共が憎らしげに唸り声をあげていた。
どうやら光の下では影移動はできないようだ。
「定石通りの展開だな、おい厩舎はどっちだ!!」
「あ、はい、アラガミ様の馬は、建物の裏手です」
「そりゃ確かか」
「わたしが運んだので確かです」
宿屋の裏手に回ればそこには確かに、納屋と称した小さな建物が見える。
おそらく長年使ってこなかったのだろう。
経年劣化の末、朽ち果てたボロ屋がポツンと佇んでいた。
そして――、
「ご主人様の、荷馬車がない」
「それは確かか」
「たしかに、ここにあったけど。いまは――」
小さく口籠る言葉に力はない。
俯き、唇を噛むレミリア。
あんな数々の拷問を受けておいて、ご主人様から捨てられたことに素直に喜べないあたり奴隷根性が魂まで染みついているようだ。
しかし、些細な面倒ごとに関わっている暇はない。
厩舎を開け放てば、エバロフの嘶きが興奮気味に俺を出迎える。
身体を小刻みに揺らし、まるで迎えに来るのが遅いとでも文句を言っているような調子だ。
手綱を引き、エバロフを外に出し、一度夜空を見上げる。
霧が濃いが、幸いにも夜空がやや白ばんでいる。
朝が近い証拠だ。馬を走らせてもこの明るさなら問題ないはずだ。
すると突然後ろを振り返るレミリアの表情が僅かに曇ったのを俺は見た。
「あの、アラガミ様。わたしはここで――」
「おい、まさかあのご主人様を待つなんて駄々こねるつもりじゃねぇだろうな」
「えっ――」
一瞬言葉を詰まらせ、目を丸くするレミリア。
やっぱりそのことで悩んでやがったのか。
主人に見捨てられたってのに健気なもんだ。
「ごちゃごちゃいうのはあとだ。いまはとりあえず時間がねぇ。そんなところに突っ立ってねぇでさっさと来い」
「連れて行って、くれるんですか?」
「ここでテメェを見殺しにしたら、あの変態褐色優男に多額の慰謝料を要求されるのは目に見えてるからな。それだけだ」
「……アラガミ様」
語調を弱めて、その小さな手を重ねて押し黙る。
頭の中で幾重もの葛藤を重ねているに違いない。
俺が『書き加えた』呪縛はこいつの中にはもう残っていない。
さほど素性も知らない俺を警戒するのは当然だ。
だが、
「迷ってるくらいならさっさと乗れ。奴らが来たぞ」
「えっ、あの、――きゃっ!?」
僅かに伸ばしかけた右腕を強引に掴んで騎乗させる。
目を白黒させ、身体を委縮させるレミリア。
その困惑した視線を無視して、エバロフの腹を軽く蹴る。
嘶くエバロフが上機嫌に身体を震わせる。
飛び掛かってきた化け物の身体を後ろ足で蹴りつけ、倒れ伏したその不格好の身体を前足で踏みつけた。
腕のなかで悲鳴が上がり、ためらいがちに震える身体が俺の胴を掴んだ。
「あ、あのこれから、どこに行くつもりですか」
「城門都市ガーディア。わりぃが俺の用事に付き合ってもらうぜ」
反論も聞かずそのまま構わずエバロフを走らせれる。
大地を蹴る蹄が地面を抉り、腕のなかで先ほどとは違う悲鳴が上がる。
そして駆け抜ける冷たい朝霜を身体に受け、後ろを振り向けば共におんぼろの建物は姿を小さくし、霧に飲まれる形でその姿を消していった。
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