第十一話 残酷な幻想

◆◆◆ 奴隷少女レミリア――。 


 痛みに備えたはずの身体から力が抜けていくのをわたしは感じた。

 まず初めに、わたしの肌に触れたのは熱湯ではなく生ぬるいお湯だった。


 痛いのならいつものご主人様のお仕置きで慣れている。


 くる日も。くる日も。くる日も。くる日も。くる日も。くる日も――。

 絶え間ない叫びがわたしの鼓膜を震わせる。


 夜が怖くない日など一度もなかった。


 ご主人様のご機嫌を損ねないように気を付ける毎日。

 それでもご主人様の鞭とお仕置きは毎晩わたしを苦しめた。


 助けてくれる人は、誰もいない。


 肌が焼けつく匂いが脳髄を焦がし、口から血と泡を吹いて、あたたかいものが流れようと大人の人たちはわたしを切り刻むことはやめなかった。

 痛みに暴れても、助けてくれる人は誰もいない。


 それはわたしと同じはずの男の人たちも同じだった。


 暗がりと、血生臭い世界がわたしの世界の全てだった。

 暗くて白い部屋の中に閉じ込められていたあの時も。

 縛り付けられ、からだのなかを切り開かれた時も。


 わたしの世界は暗がりに満ちていた。

 白い服を着た大人たち。

 たくさんのおねぇちゃん。お兄ちゃんはいたが今はどうなったのかもわからない。

 それでもお兄ちゃんたちが帰ってきたことは一度もない。

 でも、代わる代わる身体を切り刻まれ、暗がりに響く悲鳴だけが確かにわたしの鼓膜に焼き付いている。


 それはご主人様のもとに売られても決して変わることはなかった。


 出来損ないと罵られ、お腹が膨れたことなど一度もない。

 ゆっくり熟睡できたことなんて、一度もない。


 だって夢を見るのが怖いから。

 だからわたしは人形になることを務めた。

 ご主人様の所有物として。


 心を閉ざしても、痛みがなくなることはなかった。

 でもそうするしかなかった。


 だから今日もちょっと我慢すればいい。

 そうすればこの人もきっと満足してくれるだろう。


 もう、助けなんて求めない。

 そう決めたはずだったのに――、


「(むねが、いたい)」


 胸に手を当てれば、焼き付いた奴隷紋がキュッと傷んだ。

 こんな『痛み』は初めてだった。


 ――あったかい。


 きっと声に出ていたと思う。

 それでもわたしはあふれる小さな声を抑えることはできなかった。


 まるで割れ物でも扱うみたいに丁寧でやさしい手つき。

 傷口を気遣うように振れるタオル越しの指先が、温かく私の右腕を包み込む。

 身構えていたはずの身体はいつの間にか解きほぐされ。気付けば、わたしはわたしの全てをこの人に委ねていた。


「(ぜんぜん違う。ごしゅじんさまとこのひとじゃ――)」 


 初めは、この人もご主人様と同じようにわたしに酷いことをするのかと思っていた。

 そのためにわたしを買ったのだと。


 そう、他の冒険者の人たちと同じように。


 汚いという理由だけで熱湯を浴びせられ、その目が生意気だと蹴って殴られ、ぼろ雑巾のように床に転がされる。


 契約さえ成立したら、あとはどう扱われようと冒険者の人たちの自由だ。

 わたしに、自由意志なんてない。


 奴隷とはそういうものだ。


 全ての権利を他人に譲り渡したただの負け犬。


 ご主人様に罪はない。

 毎晩、身体を切り刻まれようと、焼きごてを押し当てられようと、それはご主人様の自由だから。

 わたしは、ご主人様の所有物。

 わたしは、みにくい奴隷。


 それはこの胸に焼き付いた奴隷紋が証明している。


「(やめてほしいのに、こえがでない)」


 自分の中で守っていたものがガラガラと崩れていく音が聞こえてくる。

 こんなこと、わたしは望んでない。


 優しくされるなんて絶対にない。

 それはこの目の前の男の人も同じだ――と思っていたのに。


 男の人にこんなに優しくされたのは初めてだった。

 ぬるま湯に濡れたタオル越しに大きな掌が、垢と汚れにまみれた身体を丁寧にふき取っていく。

 腕を。足を。背中を。目につく汚れを落としていく。


 未熟でやせっぽっちでガリガリの身体はきっと気味悪いに違いない。

 だれだってこんなものに触れようと思わない。

 だから、ご主人様はわたしを直接触れるようなことはしなくなったのに。


 透明なお湯が入っていたはずの桶は黒く汚れていた。

 それでもその汚水に手を入れるこの人は、嫌がりもせずわたしの身体を拭き続けていった。


「(やめて、お願いします。やめてください、お願いだから――)」


 叫びだしたい。今すぐ走って逃げだしたい。

 じゃないと、わたしは本当に『壊れ』ちゃう。


 だって、あまりにもご主人様と違うから。

 こんなにも丁寧に扱って貰えたのは生まれて初めてだから。


 どうしたらいいのかわからなくなるから。


 ――残酷な地獄を見せるとこの人は言った。


 なされるがまま身体を触られるけど、怖くなはない。

 むしろ、ちょっと気を抜いただけで体が崩れてしまいそうだ。

 あったかいだけじゃなく、気持ちがいい。

 頭がポワポワして考えがまとまらなくなる。


 ぐちゃぐちゃになる。自分がどこに立っているのかもわからなくなるくらい。


 でも。寝ちゃ、だめだ。

 寝たら、お仕置きされちゃう。


 それでも徐々に重くなっていく瞼が止められない。

 こんな汚いわたしを買ってくれた。助けてくれた、この人をわたしは――


◇◇◇


 気付いたとき、わたしは天井を眺めていた。

 目を開けようとする瞼が重く、何度か細かく瞬かせる。

 ここはどこだろう?

 ふわふわした高揚感は未だに身体全体を包んでいるが、不思議と恐怖はやってこなかった。

 このまま眠ってしまおうかと、浅く息をつき、首を僅かに傾ける。

 その視線の先。

 椅子に腰かけた一人の男の人が目に入り、わたしは慌てて身体を起こした。


「よう、ようやくお目覚めか。ずいぶんと熟睡してたな」

「あの、わたし、どうして、――っ!?」


 こんなはずじゃなかったのに。

 慌てて起き上がったせいなのか、視界が突如として歪み、額を抑える。

 でもそんなのはどうでもいい。

 ご主人様のお客様を差し置いてベットを使ってしまった。

 掛けられたタオルケットを剥がし、ベットから飛び降る。そしてそのまま男の人のもとに駆け寄ろうとした身体が力なく膝から崩れ落ちた。


「――えっ?」


 途端、衝撃が身体を打ち付け、ぎこちなく身体が軋みを上げる。

 自分の身体が自分のものではないような感覚。

 痛みはない。それでもこれは――、


「あまり無理すんな。『処置』は終えたが病み上がりだ。しばらくふらつくぞ」


 病み、あがり? 

 それがどういう意味を持つのか馬鹿なわたしにはわからない。

 でもこれだけはわかる。

 わたしはお金を出してまで助けた人を、放っておいて自分だけのうのうと寝てしまったのだ。


「あの、ごめんなさい!! 気持ちよくていつのまにか寝てしまって――、ごめんなさい。ぶたないでください」

「おーおー、奴隷根性がしっかりと染みついてんな。開口一番がいいわけじゃなく謝罪とは」

「お願いします。何でもしますから。罰なら受けますから。ご主人様に報告するのだけはやめてください」

「ふっ――、誠実なのは結構だがここの調子はどうだ」

「ふぇ――? むね、ですか?」

「ああついでに頭もな」


 男の人がわたしの頭を指さしたので、慌てて頭に手を当てれば、本来あるはずのものがないことに気づいた。

 頭が、軽い。

 それに視界がやけにはっきりしている。

 

 そうして投げ渡された鏡をのぞき込めば、そこには醜い傷跡をさらけ出したわたしが映り込んでいた。


「これは――」


 傷跡を隠すように伸ばしていたはずの髪が短く切り揃えられていた。

 べたついていた濁った髪は元の白さを取り戻し、ボロボロに破れたはずの服も新品の貫頭衣に変わっていた。

 まるで生まれ変わったような気分。

 わたしがわたしでないみたいだ。

 嬉しい。嬉しいはずなのに。


 ――鏡の中のわたしは笑ってはいなかった。


 頬や目元についた切り傷が外気に露出し、醜い顔をさらけ出していた。

 傷をなぞるたびに、当時のお仕置きの記憶が脳裏によぎり身体を好調くさせる。


「……どうして」

「……手入れが鬱陶しかったんでな、黒曜でさっぱり切らせてもらった。……どうやら不満そうだな」


 ご主人様と同じように意地の悪い笑みを浮かべてわたしを見る。

 これ以上、口答えしてはいけない。

 いけないはずなのに。戦慄くように動くわたしの身体が勝手に動き出した。


 枝垂れかかるように男の人の膝にしがみつく。そして――、


「あの、どうして切ってしまったんですか。あれがないとわたし――」

「……そいつは奴隷のテメェと俺に何か関係あんのか」

「でも。わたしはご主人様の所有物で」

「俺はテメェを好きにしていいと言われたから切ったまでだ。それがなんだ? 奴隷風情が俺に口答えするのか?」

「えっ――、そ、そういうつもりは……」


 血液が一瞬で凍り付く案格がわたしの身体を襲った。


 そうだ、わたしは奴隷だ。

 この男の人が何をしようがこの人の勝手なのに――どうしてこんなことを。

 一晩とはいえ、わたしを買ってくれた人に掴みかかるように縋りつくんなんて愚かなことを。

 殴られたって仕方がないことをしてしまった。

 慌てて男の人の膝から離れ、床に額を擦りつける。


「ご、ごめんなさい。ただ、髪がないとわたし――」

「ご主人様にいじめられちまう、か?」

「――っ!?」


 ご主人様の笑顔が、頭によぎり身体が不自然に強張った。

 頭上から軽い息づかいが聞こえ、床に大きな影が落ちる。

 

「はっ――、どうやらその様子だと相当ひどい目に合ってきたようだな。まぁ奴隷なら当然だよな?」

「ううっ――」

「なんだったら主のクソ野郎がいないこの場で、不平不満をぶちまけてみせろよ。なんだったら命令してやってもいいぞ?」


 そんなの、答えられるわけがない。

 信じた人に弄ばれたことなんて一回や二回じゃない。この男の人だってあの冒険者たちと同じようにわたしを裏切るかもしれないのに。


 そこまで考え、ある疑念がわたしの頭をかすめた。


「(……裏切る、ってなに?)」


 そんなこと一度も考えたことなかったのに。どうしていまさらこんなことを?

 動揺が全身に伝わり、震えが身体を支配する。


 初めはご主人様の戯れで、この人の部屋に忍び寄り金品を奪うはずだった。

 そのことに関して罪悪感はなかった。

 殺してでも奪わなくちゃ、今度はわたしが酷い目に合うからだ。


 この人に助けを求めたのだって、ご主人様のお仕置きから逃れたい一心で飛び出た言葉だったはずだ。

 利用する、はずだったのに。それがいつの間にかほだされている自分がいる。


 この人なら信じてもいいかもしれないとよくわからない感情がわたしのなかに芽生え始めていた。


 出会ってまだ一日もたっていないのに、この男の人に惹かれている自分がいる。


「(また痛い思いをするだけ。期待しちゃ、ダメ)」


 それでもまっすぐと私を見下ろす真っ赤な瞳は、ご主人様とは違う色を秘めていた。

 怖いのに、怖くない。

 たぶん、匂いだ。

 よくわからないけど、この人の匂いは怖くて恐ろしいのに、どこまでも穏やかで優しい匂いがするのだ。


 まるでわたしの全てを受け入れてもらえるような。


 そんなことはない。この人だっていずれわたしを傷つけるに決まっている。

 甘い考えを打ち消そうとするが、わたしのなかに芽生えた『何か』は消えてくれなかった。


 そして混乱するわたしの思考は、ついに突拍子のないことを口走り始める。


「あの、きれいにしてくれてありがとうございます」

「あん? テメェ、いまどういう状況かわかってんのか? 脅されてんだぞテメェ」

「で、でもわたし。あんなが気持ちいいのうまれてはじめてで――」


 なにを言っているのだろう。


 こんなのわたしが恥ずかしいだけじゃないか。

 はずかしい?

 どうしてわたしはそんなことを――、


 慌てて訂正を入れようと口を開きかけたところで、突如、か細い音が小さく部屋に鳴り響いた。


「あっ――」

「はっ、本当に正直な奴だな。テメェは」


 それはわたしのお腹から出たわがまま。

 小さく安堵したわたしの身体から零れた不平不満。

 奴隷として受け入れたはずの身体が、絶対に上げることのなかった生まれた初めての主張だった。

 おかしい。いつもならこんなことないのに。


「あの、ご、ごめんなさい。これは勝手に――」

「なに焦ってんだよ。別にそのくらい生きてりゃなんでもねぇだろ」

「でも――」


 慌てて謝ろうとしたところで、ひざ下に白いパンが現れた。

 それは男の人から投げ渡された一つの食べ物。

 いつも食べている硬くて黒いカビの生えたものじゃなく、ご主人様がいつも食べている白くて柔らかいパン。


 初めて触る食べ物を手に取り、の人を見上げれば、再び椅子に腰を下ろす男の人が、小さく息をついた。


「あ、あのこれは――」

「俺の夕食だ。黙って食え」

「そんな――!? いただけません。ご主人様の許可なしにこんないいものを頂くわけにはいきません!!」

「何を遠慮してんのか知らねぇが、あの褐色優男はお前に俺の言うことは聞くように命令したはずだが?」

「そ、それはそうですけど、奴隷のわたしがこんないいものを」

「テメェの同僚は酒や肉を好き放題喰っていたぞ?」


 愉悦に富んだ笑みが返ってくる。

 あれはまさしくご主人様と同じ顔。

 それなのに恐ろしく感じていない自分がいる。


「いいから黙って食え。いちいち怯えられちゃろくな情報収集もできねぇんだよ」

「情報、収集……ですか?」

「ああ。何のためにテメェを買ったと思ってやがる。銀貨六枚だぞ銀貨六枚。無為に時間を過ごすつもりはねぇんだよ。こっちは」

 

 わたしが知ることなんてたかだか知れている。

 この人は一体、わたしに何を期待しているのだろう。

 こんな醜い奴隷のわたしに。

 でも、この人の言うことは聞かなきゃいけない。


 なんだろう、この矛盾は。

 わたしの中で奴隷の身分として生まれてはいけない『感情』が生まれたような気がした。

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