第35話 Vincentの記憶
目眩がする、足元がふらつく。
どうやら、
ポールに別人格が存在したこと、その人格が激しい恨みを抱えているかもしれないこと……ヴァンサンの憎しみが正当なものかもしれないこと……何もかも、上手く消化できない。
「オリーヴ」
懐かしい声がする。
これは……ポールの、声……?
「大丈夫ですか……?」
でも、私に声をかけたのは、ポールじゃない。……ヴァンサンだ。
「……申し訳ありません……その、妙なことを、言ってしまいましたね……」
ヴァンサンは俯きつつ、相変わらず
「すみません……私達のことなど、気になさらない方がいいでしょう……。貴女は、私とは違います。……帰るべき場所が、あるのですから……」
まだサングラスはずれていて、隙間から黄緑……ペリドット色の瞳が、見える。ポールと同じ位置にある、泣きぼくろも……見え……
あれ? 泣きぼくろ?
待って。どうして、ほくろの位置まで同じなの?
兄弟でも、もし双子だとしても、そこが同じになるのっておかしくない?
いや、でも、ヴァンサンはポールの肉体に近づけるために去勢されたんだし、ほくろを人工的につけるのだって、可能ではある……し……。
「オリーヴちゃん? どした?」
思考がまとまらない。レオナルドが相手じゃ、レニーやキースみたいに推論を言ってくれることもない。……だけど……逆に言えば、じっくりと、情報を精査できるってことでもある。
「敗者の街」や死者、過酷な人生については彼らの方が詳しい。でも、ポールと数年間でも関わった私の方が、分かることは多いはずなんだ。
「おい、黙っちまったぜ。どうするよ、カレシなんだろ?」
「……いや、違いますよ……」
「照れんなよー好きって顔に書いてんじゃねぇか」
「何を馬鹿な……って、やめてください……! ウィッグが落ちてしまいます……!」
頭をわしゃわしゃと撫でられ、ヴァンサンのウィッグもずり落ちそうになる。
黒髪だ。……そういえば、ポールの記憶でも……同じ髪の色に、同じ瞳の色って……
思考がまとまらない。何か、もう少しで辿り着けそうなのに、ピースが上手くはまらない。
「……と、ともかく……まずは、私や
「アテナ? 誰それ」
「オリーヴの……飼い猫ですよ。……先程見た記憶に、遊んでいた場面が……ありません、でしたか……?」
……え? 私、そんな場面は思い出してない。
確かに、ウチの猫の名前はアテナだ。……だけど、漏れ出した記憶の中にそんな情報はなかった。アテナの名前だって、ロデリックにすら伝えてない。
ポールが話していた? それなら、そうと言えばいい。……どうして?
……ねぇ、ヴァンサン。あの胸元の傷……まさか……
「ポール……?」
私がその名前で呼ぶと、ヴァンサンはビクッと肩を震わせ、こちらを見た。冷や汗が頬を伝い、瞳には怯えが広がっている。
やり方はよく分からないけど……感情が強く揺れた時、記憶が「溢れ出す」ような気がする。それなら、試す価値はある。
記憶はあくまで主観だから、隠されたり捏造があったりはするかもしれない。……でも、今、彼は弱っている。取り繕ったとしても、ほつれはあるはず……!
ヴァンサンの肩を掴み、瞳を真っ直ぐ見据える。ちょっと首が痛いけど、今の彼は猫背だからどうにかなった。
「私は味方だよ。だから、教えて」
「……ッ、や、やめ……」
怯えるように、瞳孔が開く。
揺さぶられた感情が、私の中に流れ込んでくる。
「み、
ヴァンサンの絶叫も虚しく、閉ざされていた「記憶」が開かれた。
***
「それ」に、気付いてはいけないと、自分に言い聞かせていた。
私はトマ家でも「いない扱い」をされるほど、汚らわしく、醜い存在なのだと……そう、思い込もうとしていた。
「ポール! ピアスをつけるのはいいけど……ちゃんとした方法でね。
「そうだぞ。相談してくれたらピアッサーも買ってくるし、なんなら専門店で開けることもできる」
養父母は優しい。私達が「きょうだい」で保護されたのなら、ポールだけに優しくし、ヴァンサンだけを「いない扱い」にすることなんて、考えにくい。……けれど、人間とは信用できないものだ。そう、自分に言い聞かせていた。
「……私は、ヴァンサンですよ……?」
「……! ……そう……」
どうして、そんな、悲しい顔をされてしまうのだろう。私は、私が、私だと主張しただけだというのに……。
「ポール。明日もお医者様のところに行きましょう。……大丈夫、きっと良くなるから」
私は、「ポール」ではない。ポールは私の
「大丈夫だよ、ヴァンサン。ぼくが、守ってあげる。きみがどれほど虐げられても、ぼくは……ぼくだけは、きみの味方だ」
「私が苦しむのはあんたのせいだ。あんたが存在するから、私はこんな惨めな目に遭う。……私はあんたが憎い……!!」
「大丈夫、大丈夫だよ、ヴァンサン。ぼくは……きみに、そんなことを思ったりしない。きみは大事な弟だ。きみを救いたいんだ」
私は、幼い頃に抱き締められた記憶があまりない。
それなのに、記憶の中の「ポール」はいつだって私を抱き締めている。温もりも、感触も……「分からない」のに……
「……グレース・ヴァンサンから連絡は?」
「もう関わらないで、って……。本当に、酷い母親……!」
「良いじゃないか。俺は……関わらない方が幸せだと思う」
「……。そうかも、しれないね……。ごめんなさいね、どこかで、期待してしまってたのかも。『子供を愛さない親はいない』なんて、幻想でしかないのに……」
養父母の会話に聞き耳を立てたくせをして、「私達」は耳を塞いだ。
……ええ。本当は、分かっていたのです。
私は
嘘を真実にすり替えていたかったのです。「私」も、「ポール」も。
本来の母親は……グレース・ヴァンサンは、その時々で言うことを変える人だった。
──男でも女でもないなんて、おぞましい。触んじゃないよ! 仕事前に汚れがうつる!
──昨日は殴って悪かったね。……ちょっと考えてみたけど、どっちでもないって逆に完璧なんじゃない? アリだよ、アリ!
──はぁ? そんなのもわかんないのか、この穀潰し! 役立たず!
──本当に、ポールがいて良かった。あんたが心の支えだよ……。愛してる……
日常的な暴力に
愛される偶像に「なる」ために、ポールは……ポール・ヴァンサンは自分の負の感情を切り離した。
排除した嘆きや怨嗟が「私」に流れ込み、そのぶん、ポールには余裕ができる。「弟」という救う対象……依存する対象も創り出せる。
本当に虐げられていたのは、自分だと言うのに、
苦痛を自分のものにできないから、「私」という「別人」に託す。
「私」はこんなに痛くて辛いのに、私が苦しい思いをすればするほど、「ポール」は穏やかに笑う。
そのくせ、ポール本人はそれに気が付かない。
誰かを救うことで救われたかった。
救ってくれる誰かが欲しかった。
孤独な
……私達は、孤独に耐えられなかったのだ。
「ポール」は冷たい鏡の感触を「弟」の手のひらと誤認したまま、「
暗く、狭い部屋の中から外の世界に出られたのは、幸運だった。
……けれど、
痛めつけられた過去すらなかったことにし、「
誰かと積極的に関わる反面、
誰にも「自分」を知られたくなかったからだ。
「ポール」は……心の傷に触れられたくなかった。
やがて、
自分にしかない経験、他人の持たない肉体、それらがあれば、特別な作品が作れると……子を成すことのない
でも、違った。
「ポール」は自分に向き合えていなかった。自分の傷を見たくなかったのだ。
自分の感情と向き合わなければ、作品に魂なんて、いつまでも宿らないのに。
そして、「ポール」は、ほつれ始めた張りぼてに気付かないまま、ついに誰かを愛した。……愛してしまった。
明るく笑う、愛らしい人。なんの苦しみも痛みも知らない、無邪気な恋人。
私達は、他人の愛し方を知らない。どれほど強く想っても、どれほどそれを伝えようにも……言葉も、表情も、作り物にしかならない。
それに、オリーヴと私達では……生きる世界が違う。
「ポール」が恋人を愛すれば愛するほど、「私」の苦痛は増した。
恋愛にまつわる不安、疑心、恐怖、懊悩……すべてを、私が引き受けることになるのだから。
……私はさらに、「
ああ、そうです。
それが例え、自分自身だとしても。
けれど、「ぼく」は消えたくないと叫びました。
死にたくない。まだ、生きていたいんだと……そうやって抗おうとするから、「私」はその感情を殺しました。
「私」が「私」として死ねるように……生きようと足掻く「ぼく」を殺しました。
生きたがる「ぼく」を跳ね除け自殺を図りましたが、何度も失敗しました。
終いには脚立に細工を仕掛け、事故死するように仕向けましたが……結局は、自分の手で、自分の胸にハサミを突き立てることになりました。
養父に見つかり、救急車で運ばれ……何日も、高熱にうなされました。
生きようとする「ぼく」を無理やり自分から引き離し、「ぼく」が二度と帰って来ないように、「私」は「ヴァンサン」の記憶を強固に塗り固めようとしました。偽りの記憶で隙間を埋め、二度と「私」を苦しめる「ポール」が蘇らないようにと願いました。
「私」は……「ヴァンサン・トマ」は「
本当は療養施設にいて、仕事の紹介も施設の
「嘘です! 信じません……!
***
「嘘です! 信じません……! 私に、兄が存在しないなど……!」
はぁ、はぁと息を荒らげ、ヴァンサンは頭を抱えて膝をついた。
「違う、違う……!! でたらめです! 私は……私には『
どういうことなのか、理解が追いつかない。
ポールはヴァンサンの言う通り、多重人格だった。……だけど……別人格は、マノンに取り憑いた「少女」じゃない。
目の前にいる、ヴァンサンだ……ってことで、いいの……?
「……どゆこと? 一人の人間が、二つの身体持ってるってこと?」
レオナルドはさっぱり理解できていないらしく、何度も首を捻っている。
「多重人格は……同一人物の別側面でしかないはず。つまり……レヴィのところにいる『ポール』は、切り離された魂って、こと……?」
どれだけ強く、「もう一人の自分」を拒絶したんだろう。
引き裂かれた感情が「死者の世界」に迷い込むぐらい。彼は、「自分自身」を憎んだ。
……ポールの語った「黒い霧の中」は、「敗者の街」とは限らないのかもしれない。「街」に本当に迷い込んだのがいつなのかは分からないけど……「黒い霧の中」って、自分の精神世界のことも示していたんじゃないのかな。
声が似ているのも、ほくろの位置が同じなのも、当たり前だ。……私が手を差し伸べずにいられなかったのも、当たり前だ。
ヴァンサンは、ポールなんだから。
「……精神の死、ってやつ? どっかで聞いたぜ」
「たぶん、肉体より……難しいよね。バラバラになっちゃったなら、余計に……」
「そうか? 死んでも死なねーんだろ、精神って」
「う、うーん……そういう捉え方でいいのかなぁ……」
レオナルドの言い分も、わからなくはない。
確かに、アンドレアも一度は「精神の死」を迎えていたらしい。だけど、彼女はロデリックの元に帰ってきている。
でも、違うんだよ。……例え身体が生きていたとしても、壊れたものは壊れたままなんだ。
胸が痛い。自然と涙が溢れて、止まらない。
思わずヴァンサン……ううん、ポールの身体を抱き締めた。
「気付かなくてごめんね……つらかったよね、苦しかったよね……」
低いけれど、体温が伝わってくる。……カタカタと小刻みに震えているのも、伝わる。
「い、いいえ……貴女を愛した人は……『私』では、ありません」
「……切り離しちゃうくらい、苦しかった?」
「……『
ああ、ようやく分かった。
ポールは私を思って、記憶を奪った。それは、事実だ。
だけど、私のせいでポールは苦しんでいた。……それも、事実なんだ。
「女性が……怖いのです。笑顔も、怖いのです。愛を、信じられないのです……」
その痛みは、傷ついた者にしか分からない。だから、私は気付けなかった。
ポールはきっと、ずっと泣いていたんだ。痛くて、苦しくて、それでもそれを言えない人だった。……負の感情を、うまく発露できない人だった。
「……ごめんなさい……オリーヴ……」
涙を流し、彼は片手で顔を覆う。
黙って抱き締め続けることしか、私にはできなかった。
本当に、嫌になっちゃうな。どうして、こうなっちゃったんだろう……。
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