第21話 Oliveの記憶

 16歳の夏。両親が共に忙しくなり、あたしはフランスの祖母の家に行くことになった。

 電車を乗り継いでユーロトンネルを超えて、パリ郊外の祖母の家へ。フランス語を全然覚えていないのに道に迷ってしまって、途方に暮れていた時に「彼」が現れた。


大丈夫What'sかいgoing on,お嬢さんlady?


 言葉はなかなか通じなかったけど、身振り手振りや短い単語などで、彼は言いたいことを理解してくれた。

 無事に祖母の家に辿り着き、拙いフランス語で礼を言うと、彼は穏やかに笑って、拙い英語で返事をした。

 今思えば、一目惚れだったのだと思う。


 その後、休みの日に祖母と美術館に行って、偶然彼と出会った。


「……おや、きみはあの時の……」


 運命かもしれないと思った。

 思わずはしゃいでしまって、休憩室で色々な話をした。連絡先を交換して、また会う約束もして、天にも登る心地だった。


 彼が芸術家だと知って、作品を見せてもらった。

 よく分からないヘンテコな造形物ばかりだったけど、新鮮な感じがして私は好きだった。


「オリーヴ。美しさって、何だと思う?」


 ポールの作業場で、こう問われたことがある。


「綺麗だなーって、たくさんの人が思うこと?」

「そうだね。それも、美の基準のひとつだ」


 私の返事に、ポールは含みのある言葉で返した。


「でも、ぼくは……それだけが美じゃないと思う」


 ライムグリーンの瞳がきらりと輝く。


「一見醜く見えるものの中にこそ、美しさがある。……少なくとも、ぼくはそう思う。それを証明したいんだ」


 懐かしむように細められた目は、どこを見ていたのだろう。


「そっか。ポールも、誰かに伝えたいことがあるんだね」

「……ぼく「も」ってことは、オリーヴもかい?」

「うん! 私ね、記者になりたいんだ」


 夢を語り合ったあの時は、いつか別れの日が訪れるなんて、何一つ考えていなかった。




 18になって成人の報告をし、いつの間にやら恋人になっていた。

 あの日々は本当に光り輝いていて、幸せだった。


 けれど、ある日、彼がデート中に血を吐き、救急車で搬送された。

 内臓に異変があったらしくて、しばらく入院が必要になった。


 お見舞いに行った時、彼は庭園で新たな作品を作っていた。

 壁にいくつかの染みが散ったような作品で、タイトルは「息吹いぶき」。「ここでは完成させるのが厳しいけど、インスピレーションが湧いたからね。軽く形にだけはしておきたかったんだ」とのこと。

 正直なところ、今までより格段にセンスがいいと思ったし、退院後に何かの賞も取っていた気がする。

 そう。退院した時は「内臓に軽く傷があっただけだよ。大したことじゃない」と言っていて、私もそれを信じたんだった。




 どういう流れだったかは分からない。

 偶然だったのかもしれない。

 涙を流す彼の姿を見てしまった日、私達は初めて深いキスをした。


 性的なことを望まなかった彼の裸を、その日、初めて見た。

 それなりに鍛えられて無駄な肉のない身体は、男性のようにたくましくも見えたけれど、女性のようにしなやかにも見えた。

 事前に聞いていた通り、男性器も女性器もない身体。……けれど、そんなことは特に気にならなかった。

 それよりも、傷痕と火傷と痣だらけの肌が月光に照らされていたことが痛々しかった。私は可能な限りすべての傷にキスを落として、震える身体を抱き締めた。


「オリーヴ」


 ぎこちない愛撫に時折身体を跳ねさせ、彼は小さく私の名を呼んだ。縋りつくようでいて、怯えているような……弱々しい響きだった。


「死にたくない」


 絞り出したような掠れ声を覚えている。


「まだ、死にたくないんだ」


 消え入りそうな慟哭を覚えている。

 それでも、次の朝、私を起こした彼の笑顔はいつも通り穏やかで、飄々ひょうひょうとしていた。

 ……なんとなく、もう二度と会えないような、嫌な予感がした。




 その後すぐ私はエディンバラの両親の元へ帰り、休暇を過ごした。

 フランスに戻ったらすぐ、会いに行こうと決めていた。


『……はい。トマです』


 祖母の家から彼の家に電話をかけると、聞き覚えのある声がして胸が弾んだ。


「もしもし、ポール? 私だよ、オリーヴ! 帰ってきたよ!」


 早く会いたい。そんな思いは、


『……あには、死にました』


 たった一言で打ち砕かれた。


「……え?」


 信じられなかった。

 どうして? いつ? どこで? 何があったの?

 あらゆる疑問が頭の中を渦巻いて、収まらない。


『その……内臓の傷が……。……いえ、申し訳ありません。詳しいことは、話せなくて……』


 彼と似た声の、彼でない誰かが、電話先でボソボソと呟いていた。

 信じられなくて家に駆けつけると、インターホンの向こうで、老婦人が申し訳なさそうに語った。


『ごめんなさいね……どんな事情があっても、ポールのことは教えられない』

「えっ、どうしてですか!? 私……恋人なのに……!?」

『……ポールの実の親に、情報が渡ると困るから……』


 ポールは虐待被害者で、おそらくは弟と一緒に保護されてトマ家の養子になった。

 薄々察していた部分と、突きつけられた部分が頭の中で繋がって、しばらく身動きが取れなかった。


 あまりに大きな喪失感。彼の存在が私の中でどれほど大きかったのか、嫌でも思い知る。

 別れすら言えなかったことが、余計に私の心を強く締め付けた。




 そのままフランスの大学を出て、パリで記者になって……それでも、忘れられなかった。


 いけないことだと知りながら、

 それでも区切りをつけるためだと、

 知ることができればそれでいいと、

 自分に数多の言い訳を重ねて、

 私は、誘惑に負けた。


 ポールの母親を探し出す。

 最初は、それだけのつもりだった。

 でも……知れば知るほど、私の心は憎悪で塗り潰されていった。


 彼女はそれなりに裕福な相手と再婚していた。

 適当な取材を口実にして接触すると、「子供」の話題には露骨に嫌がる素振りを見せた。


 ポールの身体に刻まれた、あらゆる傷痕を思い出す。

 シャツを脱がせようとする私の手を震えながら掴んだことも、傷をなぞる私の指に身を跳ねさせ、両手で顔を覆ったことも、思い出す。

 ポールは……私の恋人は、幸せになる前に死んでしまった。芸術家としての夢もあって、私という愛する人もいて、それなのにたった25歳で命を落とした。


 許せなかった。


 彼女がかつて、あるイタリアン・マフィアの愛人だったことを掴み、そのマフィアが抗争で壊滅したことも知ると、私は「マフィアの愛人」というテーマで記事を書いた。名前は伏せたけれど、彼女を知る人間なら誰のことだかすぐにわかるように情報を散りばめ、記事の最後は敵対組織に情報と肉体を売って生き延びたと締めた。

 それが真実か嘘かなんて知らなかったし、当時の私にはそんなことどうでも良かった。


 彼女がポールのように苦しんでくれれば、それで良かった。


 もちろんそんなことを書いてしまえば、私もマフィアに目をつけられ、祖母や両親にまで迷惑がかかるかもしれない。……そうなった時のために、縁を切る覚悟も決めていた。




 結論を言うと、私の元にマフィアの構成員が訪れることはなかった。

 ポールの母親本人が雑誌社にクレームを入れ、訴訟を起こすつもりだと上司から聞かされた時、私は図星をついたのだとすら思った。……まあ、結果的には、ほとんどが事実だったのだけど。


 裁判で、私は私怨で悪意のある表現をしたことを認め、恋人が虐待されていたこと、おそらくはその後遺症で命を落としたことも洗いざらい話した。

 賠償金を払い、雑誌社を辞めた私のことを、祖母や両親は決して罵ったりしなかった。

 そればかりか、母は私を労い、父は知り合いの雑誌社に声をかけて私の再出発を応援した。


 私は確かにジャーナリズムに反し、罪を犯した。それでも、ポールへの想いは貫いたつもりだ。

 ただ……それでも不安だった。


 ポール。私、間違ってないよね?

 復讐したんだよ。

 あなたのために。




 ***




「……あねは、愛されていたのですね」


 ヴァンサンの声が、私を記憶の世界から引き戻す。


「そして、貴女は……偽りで塗り固めた仮面を愛した……」


 静かに、それでも確かな嫌悪を込めて、ヴァンサンは語る。


「私は、そうは思わないよ」

「……何を根拠に……」

「ポールは……本当にあなたを救いたかったから、芸術という形で気持ちを伝えようとしたんじゃないのかな」


 きっと、どこかでボタンをかけ違えてしまって、ヴァンサンはポールを憎んでしまったんだろう。

 すれ違った感情が殺意になって、悲劇が起こってしまった。……ヴァンサンも虐待被害者だ。深い深い心の傷が、いつしか兄弟の関係に暗い影を……


「く、くく……くっ……き、ひ、ひひ……っ」


 不気味に響いた笑い声が、思考を中断させた。


「ほ、本当に、貴女は……貴女は、愚かな人ですね」


 震える声で、ヴァンサンは私を詰る。


「あの声が……恐ろしくて……私は、あれを埋めた土を掘り返しました……」


 あの声……おそらく、いつかの「記憶」で見た電話のことだろう。

 はぁ、はぁと息を乱し、ヴァンサンは自らの肩をかき抱く。


「死体は消えていました。……そして……振り返ると、血塗れのあいつが……死んだはずのあいつが、私を突き落としたのです……!!」


 ガタガタと震え、取り乱した様子で、ヴァンサンは叫ぶ。


「……おいおい、さっきは電話の声に誘われて身投げしたって話だったろ」


 レニーが呆れたように言う。


「嘘つきはお前さんなんじゃねぇのかい?」

「ち、違います……私は……いえ、私も醜い嘘つきです……違いない……私は……私は、殺されて当然の……汚らわしい罪人です……」


 ヴァンサンは頭を抱え、今度は声を潜めてぶつぶつと呟く。


「……あー……こりゃ、相当病んでるな。たぶん、記憶そのものが歪んでやがる」


 大きくため息をつきつつ、レニーはキースの方に視線を投げた。


「どうするよ?」

「……薬か何かをやっているようにも見えるな。違法薬物でなくとも、睡眠薬か鎮静剤を乱用している可能性は高い。まともな証言は期待できないだろう」


 キースの見解が、ヴァンサンの辿った過酷な人生を思い起こさせた。

 憎悪はいつの間にかどこかへと消え去り、どうしようもない虚しさと悔しさが胸に迫る。

 壊されてしまった弟に必死に寄り添おうとしたポールの姿が、ありありと想像できる。


「……ヴァンサン」


 私が呼びかけても、ヴァンサンは頭を抱え、うずくまり、震え続けている。


「私、あなたを救いたい」


 だって、ポールはきっと、今でもそれを望んでいるから。

 私の言葉が聞こえたのか、ぴたりと彼の動きが止まった。

 サングラスの奥から、視線を感じる。


「……何が……」


 掠れた声が、ピアスのついた唇から漏れる。


「何が、目的なのですか……」


 わなわなと唇を震わせ、顔面蒼白のヴァンサンは露骨に私から距離を置く。


 うーん……これは、難儀な予感がするなぁ……。

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