第74話 恋人たちの時間

 非番といわれましても。


「少し寝たら良いんじゃないか。なんだかんだで昨日からあまり休んでいないだろ」

「色々とあったからね」


 会議を寝倒してすっきりとしたルーク・シルヴァには言われ、王宮の廊下を並んで歩きつつ、クライスは言葉少なく答えた。


(アレクス様の求婚。馬車の中ではクロノス王子も何か言っていたし……)


 クライスがいまだ未経験の「初体験」に関して。

 知らないから思い出しようもないのだが、尋ねれば微に入り細を穿って教えてくれそうで大変恐ろしい。具体的な行為は想像できないとはいえ、「優しい男」を自認するクロノスの前世に、自分はいったい何をされたのか。

 ぞくっと悪寒がはしって、あわてて打ち消す。

 何か含むところがありそうなあの目つきだとか、上品な笑みを浮かべる唇や器用そうな指先だとか。

 クロノスの転生前の姿なんて知らないのに、ふとした瞬間に記憶を刺激されるのだ。

 よりにもよって「恋人」の隣にいるときに考えるようなことではない。


「部屋で寝ようにも、長いこと空けていたから、埃っぽいだろうなぁ」


 何か別のことを考えようと無理やりに会話を続けて、クライスは途端に憂鬱な気分になった。

 そうでなくとも、近衛隊の官舎には、危険がある。内鍵をしっかりかけるにしても、心もとない。隊士の間にはすでに女性であるとの情報も出回っているだろう。

 さてどうしたものか、と考えていたらルーク・シルヴァにごく平淡な口調で言われた。

 

「俺の部屋に来ればいいんじゃないか。湯も使えるし。夕方まで寝て、外に食事に出ればいい。その前に、何か食べた方がいいか。厨房に聞いて来る。お前は着替えを取って来るといい」


 てきぱきと話をまとめられてしまう。


「いいの?」

「だめな理由ってなんだ? どうせ修行中がどうとかいうつもりだろ、別に手は出さないぞ」

「そういうわけではっ」


 真顔で返されて、クライスは慌てて顔を逸らす。


(手を出すとか出さないとか最近そういう話ばっかりな気がするんですけどっ)


 どうしてこうなっちゃったかな、と思いながら視線をさまよわせていると、ルーク・シルヴァの大きな手に手が捕まった。


「行っておいで。待ってるから。それとも、一人じゃいけない? 俺が一緒に行こうか?」


 自室に戻るのに、若干躊躇っているのを見透かすように言われて、「大丈夫っ」とクライスは勢いよく答える。

 くすり、と笑ったルーク・シルヴァは、掴んだままの手を引き上げて中指の付け根あたりに噛みつくようなキスをひとつ落とした。

 唇にまれる感触に「ひえっ」と声を上げると、「おっと」と軽く言いながら離される。

 胸の前で噛まれた手を手でおさえてドキドキしながら見返すと、にこにこと微笑まれた。


「また後で」

「うん。急ぐ」


 顔が赤くなっているのを感じながら、クライスはなんとか笑みを浮かべて答え、その場を後にした。


 * * *


 ルーク・シルヴァの私室は王宮内の個室として考えるとやや広めで、大きな布を衝立がわりに吊るせば、湯浴みのスペースもすぐに出来上がった。


 用意してもらった湯で身体を清めて、さっぱりとした服に着替える。普段から人に出会わない時間帯に手早く入浴を済ませる習慣が身についているので、躊躇いなく速やかにすべて済ませた。

 その後、小さなテーブル越しに、背もたれのない箱のような椅子に座って向かい合い、厨房から頂いてきたというパンにハムやチーズを挟んで一緒に食べた。


 ローブを脱ぎ捨ててしまったルーク・シルヴァを見ていると、ずいぶん前にもこんなことがあったなとふと思う。

 初めてデートに誘ってそのままお泊りになだれこんだ時だ。


「ルーク・シルヴァは、部屋にいるときは何をしているの?」

「寝てる」

「言うと思った」


 本の詰まった本棚。観葉植物がいくつも置かれ、天井からはドライフラワーや乾燥した草が吊るされている。粗末な机の上は黒縁眼鏡が鎮座している他は何もない。研究している気配もなければ、趣味嗜好を感じさせるものも見当たらない。


「この部屋、人が住んでる気配があまりないかも。私物は最小限って感じ。いつでも出ていけそう」

「そうだな。もともと王宮勤めにもそんなに理由はなかったから」


(だよね……。実力隠しているくらいだし)


 膨れ上がった不安で喉がつっかえる前にパンを飲み下し、ルーク・シルヴァが瓶から注いでくれた水を一息に飲む。

 ふう、と人心地ついてから呼吸を整えて、口を開いた。


「いつまで。ここにいるつもりなの?」

「解雇されるまでかな」


 返答は、ごくのんびりとした口調だった。

 クライスは姿勢を正し、ルーク・シルヴァの顔を正面から見る。


「僕たちはいつまで一緒にいられるの?」


 ルーク・シルヴァの翡翠のような瞳が見返してくる。逸らさないで、受け止める。

 どこか遠くを見ているようにも感じる瞳だ。

 やがて、ぽつりと言われた。


「死ぬまで見守るつもりだった」


 クライスは俯きかけてから、迷いを振り切って、顔を上げた。


「『だった』ってことは。方針が変わった? どうして?」


 息詰まるような沈黙の後、ルーク・シルヴァはゆっくりと両方の掌を天に向けるようにして持ち上げた。

 何も持っていない自分のその掌に目を落とし、呟いた。


「俺はお前に近づき過ぎた。手に入れるつもりではなかったんだ」


 迷いと後悔の滲んだ声。

 その瞳の昏さに慄きながらも、ルーク・シルヴァが泣いてしまう直前のようにも見えて、クライスは思わず席を立った。

 すぐ横に立ち、腕を伸ばして頭を抱き寄せる。


「僕は迷惑?」


 答えが怖いのに、聞いてしまう。ドキドキと胸が鳴っている。落ち着かない気分で部屋の中を見回す。

 抱きしめる腕にぎゅっと力を込めると、両方の腕に手がかけられて外されてしまった。

 直後に、立ち上がったルーク・シルヴァに強い力で抱きしめられていた。


「見ているだけのつもりだったのに」

「僕を見ていた? リュートが?」


 顔を上げて尋ねると、再び胸に押し付けるように後頭部をおさえられてしまう。髪の間に指が入り込んで、わしゃっとかきまぜられる。


「お前が俺に気付くずっと前から、見ていたよ。だけどこんなに近づくとは思っていなかった。話したり触れたりする日がくるなんて」


 言われている内容が頭に浸透するにつれて、クライスは落ち着かなくなる。


(ずっと見てた……? じゃあときどきすれ違っていたのとか、やっぱり気のせいじゃなかった?)


 だけど。

 どうして。

 答えを求めて探してしまえばたどり着くのはいつも同じ人の影。

 おさえつけてくる手に抗って、顔をあげる。右手を伸ばして頬にふれ、注意をひいた。


「もしかしてリュート、いやルーク・シルヴァも『ルミナス』を探していたの?」


 ルーク・シルヴァは目を伏せて微かに顔を傾けて、クライスの掌に軽く唇を寄せた。


「ルミナスを見たことはある。話したことはない」


(知り合いではないから、探すほどの理由はないという意味? だったらどうして僕を?)


「本来手に入れるつもりのなかった相手をこの腕に抱きしめてしまって、歯止めがきかなくなっている自覚はある。今すぐにとは言わない。だが、いつか俺を受け入れてほしい」


 ぼんやりとしているクライスの髪を指で撫ぜながら、ルーク・シルヴァは慎重な口調で言った。

 クライスは、 腕を回して抱きしめ返しながら、胸に頬を寄せて、早口に告げる。


「受け入れるも何も、僕はいまの時点で、ルーク・シルヴァの恋人のつもりなんだけど」


 恥ずかしい。ものすごく恥ずかしい。

 自分で言って恥ずかし過ぎて、紛らわせるようにぐりぐりと頭を押し付けていると、軽く耳たぶを指で引っ張られた。

 身体をややかがめて耳元に唇を寄せたルーク・シルヴァにぼそりと言われた。


「身も心も貰い受けるぞ」

「はい」


 ばくばく鳴る心臓に焦りながら、目を見上げて返事をする。

 その瞬間、ルーク・シルヴァに蕩けるほどに甘く微笑みかけられて。

 ばばっと顔に血が集まって真っ赤になる感覚を味わった。


(身も心もって、あれ……!? それって)


 やばい。

 雰囲気クラッシャーな自覚はあるけどつい確認してしまった。


「いまから!? ここで!?」


 ルーク・シルヴァに遠慮なくふきだされる。


「違った? ごめんいまいち飲み込めてないかも……!」


 あたふたと言い募っているうちに、ルーク・シルヴァに軽々と抱き上げられてなおさら変な悲鳴が出た。

 それに構わず、寝台に運ばれて、身体をおろされた。

 慌てて上半身を起こしたところで、足を掴まれて履いていたブーツを両方とも引き抜かれた。


(うわー……!)


 もはや声にもならずに心で叫んでいたところで、肩をおされて再び寝台に倒される。

 なんだか絶体絶命だ!! と声を振り絞って名を呼ぼうとしたが、首の後ろから頭を支えるようにぐいっと腕をまわされた。


「とりあえずお前寝た方がいいぞ。疲れているだろ」


(腕枕されてる……どうしよう顔が近い……)


 状況に落ち着けないまま固まっていると、至近距離でふっと微笑まれる。


「最中に寝落ちされても。体力回復してからにしよう」


(うわあああああああああっ勘違いだったけど、勘違いじゃなかった……!!)


 

「修行中の身なんですが! というか寝られる気がしない」

「だと思った。眠りの魔法をかけてやる。どうせまだ昼だし夜も長いんだ。ゆっくり寝ておけ」


 疲れた感覚がどっと襲い掛かってきて、力なく首肯する。

 心得たように、ルーク・シルヴァが額に口づけてきた。

 そこで、クライスの意識は途絶えた。


          


 クライスが完全に眠りに落ちたのを見届けて後、ルーク・シルヴァは枕にしていた腕を引き抜き、身体を起こす。

 乱れて頬にかかったクライスの髪を指で撫でつけながら呟く。


「さて。夜までに一仕事するか。面倒くさいけど仕方ない」

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