第69話 どこ……
「あの話って、まだ生きてたのか」
成り行きを黙って見ていたカインが呟く。
その場にいた近衛隊の面々も「あー、あれ」というまったりとした反応を示した。
まったりできないのはクライスで「えええっと!?」と大方の予想通り大きな目をますます大きくして立ち上がっていた。
「それと」
場の空気に一切構うことなく、アレクスが泰然として続けた。
「『クライス』は死んだ弟の名だったな。女性であることを公表するならば、そのまま名乗り続ける必要もないだろう。ここはいっそ『ルミナス』を名乗ったらどうだ」
「アレクス様!?」
「縁起の良い名前だ。二十年以上、わが国の名づけランキング上位だぞ。男子でも女子でも」
「名づけ……。いや、理由はそれだけですか……?」
怖い物見たさとしか思えないクライスの質問に対し。
アレクスは穏やかな声とまなざしで答えた。
「他に何かあると?」
クロノスが、立ち上がろうと腰を浮かせた瞬間、横からロイドが手を伸ばす。
立ち上がらないように、力でおさえつけて座らせる。
鋭い視線を向けられても、頑なに首を振ってみせた。
絞り出すように、押し殺した声で言う。
「こじれるから」
一方で、ストッパーがいなかったアゼルは動いた。
アレクスの前の卓に立ったまま両手をつき、上からその顔を覗きこむ。
「ちょっと顔貸しなさいよ」
不思議そうに目をまたたいたアレクスは、アゼルの片方の手首を掴んだ。バランスを崩して短く息を呑んだアゼルに目を向けたまま、掴んだ手を自分の顎の下に触れさせた。顎をのせた形だ。
「構わないが。何に使うんだ?」
空恐ろしいほど場が静まり返った中、クロノスがぼそりと呟いた。
「兄上がボケた」
ロイドが呻いた。
「もうやだ」
* * *
アゼルが力づくでアレクスを引きずり、バルコニーへと出て行った。
会議の進行はあれが戻ってきてから、とクロノスが投げやりに宣言した。
何もかも空中分解した曖昧な空気のまま、ひとときの休憩時間となる。
「まさか本当に顔を貸すとは思わなかった。女性はああいうのにときめくんですか?」
近衛隊や魔導士、文官たちが妙にざわつく中、クロノスがロイドに問いかける。
「私に聞いてる?」
ロイドは現在女魔導士として「ディアナ」という偽名を名乗っている。振る舞いは女性のものであり、顔を引きつらせながらも、可愛らしく小首を傾げてみせた。
「綺麗な女性が隣にいたので、つい。兄上のあの掴みづらいテンポ、たまに本気で張り倒したくなるんですけど。女性相手にあれは、なんだこの男甘えてんのかって思いまして」
「殿下も甘えてみれば?」
ロイドがまぜっかえすと、クロノスはきょとんとして動きを止めてから、微笑を浮かべた。
「俺は甘えるより甘やかす方が好きです。泣くほどいじめてから、俺にだけすがりついてきたところで、徹底的に甘やかして骨抜きにするんです」
「ロクデナシ」
ロイドが肩をそびやかす。
クロノスは口元にだけ笑みを浮かべたまま呟いた。
「もとよりロクデナシに似合いの女にしか惚れませんから」
「あれ? それって、あいつのこと? そんな風には見えないよ? 純情可憐。まっとうな恋愛を希望しているように見えるんだけど」
ロイドは、円卓の向こう側にぼんやりと座っているクライスに目を向け、「あいつ」と示してみせる。クロノスは、ロイドの肩に肩をぶつけるほどに身を寄せた。
「向いていない女に惚れた場合は仕方ありません。俺なしでいられないように調教するしかない」
「さらに外道」
「要は骨の髄まで愛し抜くってだけです。重いんですよ、俺」
目は、まだクライスを見たまま、クロノスはくすくすと笑いつつ言った。
「それにしても、『ディアナ』はずいぶん絡んできますね。そんなに俺が気になるなら、実地で試してもいいんですよ。口で言うほど外道じゃないです。確認したら安心します? 一晩中でも喜んで奉仕しますよ」
言い終えてから、クロノスは待った。が、「殿下いい加減に」と予想された返答がない。
姿勢を正しながら、いぶかしむように片目を細めてロイドの顔をのぞきこむ。
「ん……!?」
思わず声をもらしたクロノスに「や、あの、なんでもないっ」とロイドが焦って言い募る。
ロイドは頬を赤く染めており、見られまいとするように片手で顔全体を覆ったところだった。
「こっち見ないで」
「すみません……!? こういう話大丈夫そうだったから、つい悪ノリしました!!」
「大丈夫だから謝らないで。ちょっと想像しちゃっただけだからっ」
「想像」
ロイドは腕を伸ばして、クロノスの口を掌でふさいだ。
「殿下、ほんとやめて。お願い。なんか無理」
「ごめんなさい。以後気を付けます。大丈夫ですか、顔本当に赤いですよ。何か冷やすもの用意しますか」
「やめて、そんなくだらないことで魔法とか洒落にならないから」
放っておいたらクロノスが魔導士の秘密をぶっちぎって氷の魔法でも使い出しそうで、ロイドは慌てて俯いた。興奮したせいで、まだ頰の赤みが引いていないのは自分でも感覚としてわかるので、顔を上げられない。
「今、自分で自分を持て余してる。落ち着くまで話しかけないで。今は、殿下の声だけで、無理」
「声だけでも!?」
「もうやめて。お願い、全部やめて。私が悪かった」
必死に言い募るロイドに対し、クロノスは「わかりました」と答えて口をつぐんだ。
会議室の空気が微妙にゆるんでいる。
クライスもぼんやりとしきっていたが、思い出したようにルーク・シルヴァの体に手をかけた。
「ルーク・シルヴァ……、え、寝てる?」
揺すぶっても反応が薄い。
本来なら使えないはずの変化の魔法の連続使用だとか、その他諸々体力的に削られているのかな、仕方ないのかな、とは一応考えた。
それでも、あまりにも安らかに寝ていたために、クライスは多大なる思いを込めて言ってしまった。
「恋人が他の男から求婚されてるのに……、え、ガチ寝!?」
* * *
「さっきの、説明して欲しいわけ。なんでアレクスがあいつにきゅ、求婚してるの!?」
やや強い風が吹くバルコニーで、向かい合った二人の髪が靡いていた。
「確認なんだが。アゼルが恋をしている相手は、私の弟のクロノスで間違いないな?」
「はい!?」
しずかな口調で話すアレクスに対し、アゼルは明らかに落ち着きを失って素っ頓狂な声をあげる。
アレクスは微塵も動じずに言った。
「今のは返事か?」
「昨日、わたし、言った? ……言ったのよね、覚えて無くてごめんなさい」
「謝るようなことではない。だが、打ち明けられた以上、私も協力はしよう」
「協力……」
意味がわからず、アゼルは両目を細めて渋面となる。
その顔がおかしかったのか、アレクスは軽く噴き出しつつ言った。
「要するにクロノスが完璧に絶対的に失恋をすればいいわけだろう。相手を奪ってしまえばいい」
「待って。アレクス、落ち着いて」
よっぽど落ち着いていない仕草で、アゼルはアレクスの上着の裾を指で摘まんで引っ張りながら、顔を見上げた。
「クロノスを失恋させる為に相手を奪うって……。そもそもあの赤毛には恋人がいるんだよね? あの……おっかない銀髪。さっきは寝てたけど、起きてるときはめちゃくちゃおっかない銀髪」
「肝心なときに寝ているような男だ。あれでは、クロノスが自分が入り込む隙があると考えても無理はない。だいたい、私はこういうことを人任せにするのは好きではない。恋人がいるからと安心していて、別れられたらどうする。クロノスだって諦めるに諦めきれないだろう。そんな不確かなことに賭けるくらいなら、全部自分で手を下した方がましだ」
「……自分で……」
「私がクライスを娶って、一生逃がさなければいいんだ。クロノスに入り込む余地など与えない。確実に失恋させる。他人任せなど、手ぬるいことはしない。それでいいだろうか」
言っていることに筋が通っているような気がしてしまうのが怖い。
よくよく考えると恐ろしいことを言っているし、よくよく考えなくても滅茶苦茶怖い。
怖すぎる。
「それ、あなたに何か利点あるの……?」
説得の糸口が一つも見いだせず、素朴な疑問として尋ねた。
アレクスは、花がほころぶような笑みを浮かべて、頷いた。
「アゼルがもう泣かなくて済む」
「わたし!?」
気が遠のきかけているアゼルの頬にそっと手をあてて、アレクスは慈愛に満ちたまなざしで言った。
「もうあんな風に泣くのはやめてくれ。胸が潰れるかと思った。アゼルにあんな思いをさせるくらいなら、こんなことなんでもない。私が必ずクライスをおさえてクロノスを失恋させるから」
前半。
ほんの少しだけときめいたかもしれない。
後半。
肝が冷えすぎました。心胆寒からしめるどころではない本物の恐怖を感じました。
「それ、わたしを救済する目的で、確実に不幸な人間出す気がするんだけど……本気?」
頬に触れている手に手を重ねて、祈るような気持ちで見上げるも、アレクスは穏やかに笑うのみ。
「そんなに心配しなくてもいい。私はクライスを心の底から大事にするし、クロノスもアゼルの愛に気付けば立ち直るだろう。誰も不幸になんかならない。そんなに人のことばかり気にしていないで、幸せになりなさい」
「わたしが、寂しくならないように、あなたが、クライスと結婚する……」
(どうしよう。何度頭の中で組み立ててみても、何か間違えている気がする。だけど、具体的に何がおかしいのか、どうしてもあと少しで答えが出ない)
戸惑うアゼルに、アレクスは優しく頷いた。
その顔を見た瞬間、反射的に「やめて」と叫びそうになった。心の中では、叫んでいた。
声は出なかった。
「行こう。どうも国難に直面しているらしい。とにもかくにもまず解決すべきはそちらの問題だ」
アレクスが違う話題を出してくれたことに、妙にほっとして、アゼルは息を吐いた。
何を言えばいいかはいまだわからず、落ち着かなげに目をしばたきながら、なんとか頷いてみせた。
いわゆる、問題の先送りだった。
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