第39話 この空の下に君がいる(前)

 駆けるクライスの横につけたクロノスは、その腰に腕を伸ばして力づくで捕まえて、地を蹴った。


「飛んだ方が早いよ」


 有無を言わさず。

 飛翔、急上昇。

 鋭い夜風を肌身に感じたクライスは、暴れたり声を上げたりする前に、クロノスの身体にしがみついた。


 みるみる間に高度を上げるクロノス。

 二人の眼下に広がるは町の全容。

 夜だというのに、明るい。

 至る所に灯りが燈されており、宝石箱をひっくり返したような夜景となって煌いていた。

 騒乱の気配を追いながらも、目にした光景にクライスは場違いな呟きをもらした。


「綺麗」


 同じものを目にしていたクロノスが、口を開く。


「勇者が魔王を倒して先の大戦に終止符を打ち、世界は平和になった。職にあぶれた魔導士たちの余力が、魔石灯の普及に寄与している。戦に割かなくて良くなった人力で、文明がぐっと進んで彩りを得たわけだ」

「まさに平和の象徴ですか、この夜景は」


 クロノスが、ふっと声の無い笑いをこぼした。

 抱き合っているせいで、顔の位置がとても近い。

 クライスは、クロノスに目を向けようとした。身じろぎした拍子に額が顎にぶつかりかけ、クロノスが顔を逸らしてかわす。

 遊ばせた黒髪の毛先がクライスの頬をかすめた。


「魔法使えたんですね」

「さっき、あいつらをけしかけたのはわざとだな。近衛のくせに、危ないことしやがる。オレがどういう対応するか、試しやがって」

「ルーク・シルヴァが変なことを言っていました。それで、クロノス様も、アレクス様同様に何か能力があるのかと。戦闘力が高いのはわかりましたけど……。その上、こんなにあっさりと飛翔魔法を使う魔導士だとは思いませんでした」


 クロノスは、クライスの視線を避けるように遠くを見た。夜の冷たい空気を肺腑にいっぱい吸い込んで、吐き出して、ひそやかな声で呟く。


「……オレはずうっと前から魔導士だよ。知らなかっただろ」


 その言葉の意味する「ずうっと前」に思いを馳せることなく、クライスはクロノスにしがみついたまま、眼下に目を凝らす。


「あそこだ。街の外壁が壊されている……!」


 同じく状況を見て取ったクロノスが、そこへ向けて降下を開始する。


「『暴走する魔物』か。先日王宮を襲撃したのと同じ類かな……」


 声に躊躇いの響きがあった。


「どうしたの?」


 敏感に聞き取ったクライスが目を向ける。

 間近で見つめ合い、クロノスは何かを振り切るように言った。


「説得できないかな」

「魔物を?」

「そう。ロイドさんも、ルーナも、一度は魔物と話そうとしていた。今はもう、魔物と人間には戦う理由がない。ひいてくれるなら、それが一番良い」

「その説得は、効果があったんですか?」

「ルーナは追い払っていた」


 クライスは唇を引き結ぶと、巨躯の魔物の姿を見つめる。ベヒモス。戦うには難敵。

 すでに外壁を壊して、町へと侵攻している。


「説得だなんて、そんなことが可能なら」


 呻きのような囁き声がクライスの唇からもれた。苦渋の滲んだ横顔をクロノスは見つめる。「そんなことが可能なら」その続きを聞きたくて。


(可能なら?)


 それは、多くの魔物を屠った勇者であれば心臓を握りつぶされる痛みを覚えるであろう、可能性。

 魔族と人間の対話が可能なら、あの戦いはなんであったのか、と。

 けれど、クライスは苛立ちを断ち切るかのように軽く頭を振って魔物を強く睨みつけた。


「下ろしてください。犠牲者が出る前に、止めないと」

「わかった。ここから一直線にきざはしをかける。真っすぐに駆け下りろ。透明だから、踏み外すなよ」

「大丈夫」


 交わした言葉はごくわずか。それでも、二人は互いに相手の意図を正確に汲む。

 クロノスは、片手を自由にして空に指で文字を描く。そしてすぐにその手をクライスの肩に手を置いた。


「道は開かれた。行け」


 * * * 


 ベヒモスは、青黒い肌で巨躯の牛のような見た目をしている。頭には二本の角がありその突進で外壁を打ち破ったのだろう。今は何を目指すでもなく、手当たり次第に角を突き立て、石造りの建物にまで穴をあけている。


(動きが変だ。酩酊しているような、自制がきいていないような……)


 空から渡された階段を駆け下りながら、クライスは地上の様子を視野におさめる。

 ベヒモスの周囲から、人はあらかた逃げているようだ。

 逃げ遅れはいないかと素早く周りを見回す。何人か、建物の影から様子を伺っている者がいる。気持ちはわかるが危ない、とクライスは顔をしかめた。

 その間にも、駆け下りる足は止めない。

 暗闇の中、見えない階段を踏み外さないように走る。ベヒモスの直ぐ上で、クライスは階段を蹴って飛んだ。

 そのまま首に狙いを定めて、剣を突き立てられれば、勝機はある。

 わかってはいたが、あえて正面に降り立った。


「こんばんは! 僕の声って聞こえる!?」


 グルルルル……、呻き声が、獰猛そうな牙の突き出た口から漏れる。

 目が濁っている。およそ、理性というものを感じない。

 それでも、クライスは笑みを浮かべて続けた。


「僕はそんなに強くないから、剣で身を守ろうとしている。でも、もし君が話し合いに応じるというのなら、すぐに武器は捨てるよ。どうして町に来たの? 理由がある?」


 すぐ近くの、二階建ての建物の屋根にクロノスが降り立った。


(何かあれば、クロノス王子の魔法が僕を守る)


 姿が視界の隅にあるだけで、力がみなぎってくる気がする。こんな思いを彼に抱いたことはかつてないのに、それが今はひどく自然に思えた。

 戦場で背を任せるならあの人が良い、と。


「できれば戦いたくないんだ。魔物は人間の領域を侵犯しない。人間も魔物に手を出さない。その線引きで共存しようよ。僕らはそれができるはずだ……!」


 目は逸らさない。

 ベヒモスの動向をじっとつ見つめる。

 この距離で、聞こえていないはずがない。でも、聞いているようには見えない。

 グ、グ、グ、グ、グ、グ、と苦しそうな呻きと粘ついた唾液がだらりとその口から落ちる。


(だめかな)


 ベヒモスの前足が地を掻くように蹴った瞬間、クライスは覚悟を決めて剣を抜き、走り出す。

 見守っていたクロノスがすっと人差し指と中指の二本を揃えてクライスの剣を指した。 


「雷撃の加護を」


 クライスの剣に稲妻が落ち、バチバチと白く発光して光を放つ。

 その援護があるのを見越していたかのように、クライスは驚くこともなく受け止めて、剣を振りかざし、跳躍した。

 すれすれで通過したベヒモスの上に降り立ち、太い首に剣を突き立てる。

 クライスの膂力では貫けぬ外殻めいた皮膚を雷が焼き、ベヒモスが恐ろしい悲鳴を上げた。間近でその大音声に耐えながら、クライスは体重を込めて剣を押し込む。

 両断できずとも、致命傷を。

 ベヒモスがどんなに暴れて振り落とそうとしても、クライスはその小さな身体から出ているとは思えぬほどの咆哮を上げて耐えきった。

 やがて魔物の命が尽きるまで。


 * * * 


 建物の影からその戦いぶりを眺め、歓声を上げる町の人々に混ざって、人間の姿をした魔族の男女もクライスを見ていた。


「勇者と魔導士か……。なるほどね。オレら、あいつらに負けたんだよな」


 仄暗い笑みを浮かべて、ロイドは軽く髪をかきあげた。


「覚えてないんだけどな。勇者の方は」


 ルーク・シルヴァが低い声で応じる。目はクライスを追いかけたまま。


「他の魔族はどうか知らないけど、オレはとやかく言うつもりはない。魔族と人間の領域を守る交渉者としては、クライスがダメ元でも説得を試みたことは評価する」


 ロイドはあらゆる感情をおさえこんだ声で、早口に言った。

 そして、横に立つ長身のルーク・シルヴァを見上げて念を押すように言った。


「他の魔族の心情は知らない、ってもう一回言っておく。……お前が勇者のそばにいるのは『正しい』のかもな。あいつを殺したい同族はごまんといるぜ」


 警告に、銀髪の青年姿となった元魔王は、無言のまま小さく頷いた。


 * * *


 屋根の上からクライスの奮闘ぶりを眺めていたクロノスは、そのまま周囲を見渡した。

 町の警備兵が集まってきている。中には王子の顔を知る者もいるかもしれない。

 王子が魔導士という事実を知られるつもりはなかったので、そっと身を引いて人影のない路地へと降り立つ。

 灯りがなく、ただ月の光だけが届く細く暗い道で、壁に背を預けてひとり呟いた。


「覚えていないし、忘れているし、そもそも知らないから二度と思い出すこともないくせに──オレのことは当然のように使うんだな。いい性格してるよ」


 クライスの動きは明らかに、魔導士であるクロノスが後衛から支援するのを見越していた。

 おそらく、意識してのものではない。ただの勘だろう。


 ルミナスの人格のかけらも残していないくせに、いざというときの判断にその存在が影を落とす。

 クライスのせいではないと思いつつも、それがどうしようもなくクロノスの心を疼かせた。

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