2-9
クラゲの水槽を通過して東側の経路を辿ると目的のアクアトンネルが見えてきた。しながわアクアリウム最大の目玉であるアクアトンネルは全長25メートル、
先月に松田と初めてこの水族館を訪れた時から美月はアクアトンネルが気に入っていた。
東側の入り口からトンネル内に入ると、青い照明に照らされた世界は海の中にいる気分になる。スキューバダイビングでもしているみたいだ。
魚達が頭上や左右をゆっくりと泳いでいくのを眺めながらトンネルを進む。凹の形のちょうど中間地点、カーブしている曲がり角を曲がったところで美月の歩みは止まった。
カーブの先に人がいる。その人は手すりに体を預けて頭上に広がる海の世界を眺めていた。
『……浅丘さん? どうしたの?』
美月に気付いた松田宏文が驚いた顔をしている。美月も、まさかここで彼と落ち合うとは思わなかった。
「……目が覚めちゃって……」
『ははっ。俺も同じ。なんか眠れなくてさ。ここに来たくなった』
「ここにいると、自分が海に潜っているみたいで不思議な気持ちになります」
美月は通路を挟んで向かい側の手すりに彼と同じように体を預けた。
『人魚姫になった気分?』
「先輩、人魚姫好きですね」
『好きだよ。特に最後に王子を殺せなくて泡になって消えるところがね。……飲み会で余ったのくすねてきたんだけど、飲む?』
松田はコンビニのビニール袋に入ったチューハイを美月に差し出した。彼自身は缶ビールを手にしている。美月は数歩進み出て手を伸ばしてチューハイの缶を受け取った。
「いただきます」
チューハイはカルピス味だ。二人はしばらく無言でアルコールを体に入れた。
(どうしよう。先輩と二人きり……。でも告白は断ってるし……)
彼と二人きりでは気まずさが消せない。だから松田が突然口を開いた時は、心臓がドキッと跳ねた。
『浅丘さんの彼氏の幼なじみに渡辺亮っているだろ? 亮くんは俺の従兄弟なんだよ』
「えっ……ええっ? 嘘……」
『ホント。俺の父さんの姉が亮くんの母さん。世間って狭いよなぁ』
驚愕する美月を見て松田は笑っている。
(先輩と亮くんが従兄弟?)
確かにそう言われると、松田宏文と渡辺亮は面差しが似ている。顔の系統や雰囲気に近いものがある。
『俺と亮くんが従兄弟って信じられない? それともそれは信じたくないって顔かな?』
「え、えっと……」
意地悪く微笑む松田に返す言葉が見つからない。
『亮くんも浅丘さんが俺の後輩だって知って驚いてたよ。もちろんキスしたことは亮くんには話してないから安心して。あれは俺が無理やりしたけどさすがにね。亮くんは浅丘さんの彼氏の幼なじみだから言えないよね』
「……先輩、なんだか前よりも意地悪になってません? 酔ってるだけですか?」
面白がる松田を美月はふて腐れた顔で睨む。
松田はこんなに意地悪な人だっただろうか? 前はもっと優しくしてくれたのに。
『俺が優しくしないと寂しい? 優しくしないでって言ってたくせに』
「それは……そうですけど……」
美月は彼に背を向けてチューハイを一口飲んだ。よくわからない苛立ちに支配されるのは、松田が以前と態度を変えたから?
『……こうやって、からかってでもないとヤバいんだよ』
背後で松田の呟きとビールの缶が床に置かれる音が聞こえた。
『からかって意地悪して突き放して、そうしないともう無理』
美月は振り向けなかった。彼がどんな顔をして今その言葉を言っているのか、松田の顔を見るのが怖くて振り返ることができない。
心臓だけが、ドキドキと大きな音を立てていた。
『どうして今日ここで……出会っちゃったんだろうな』
松田が背を向ける美月の片腕を掴んだ。
『こっち向いて』
「……嫌です」
美月は顔を伏せたまま答えた。松田の顔を見てしまえばこれまで張り詰めていた何かが破裂してしまう予感があった。
隼人の顔と佐藤の顔が交互に浮かぶ。
隼人が好き、その想いに変わりはない。
でも佐藤を忘れられないことにも変わりはなくて、3年経った今でも彼と過ごした夏の季節は息苦しい。8月8日は佐藤が海に落ちた日、彼の命日だ。
佐藤に会いたくて泣いて、佐藤に会えなくて泣いて。
隼人の気持ちが見えなくて泣いて、自分の気持ちがわからなくて泣いた。
『こっち向けって』
「……ダメ」
『美月』
初めて下の名前を呼ばれた瞬間、反射的に顔を上げた美月を彼は振り向かせた。大粒の涙が彼女の頬を流れ落ちる。
『なんで泣いてる? 俺のこと、嫌い?』
美月は泣きながら首を横に振った。松田の声は優しくて、その優しさにさらに涙が零れる。
『そんなに苦しいなら……俺のところに来る?』
彼は掴んでいた美月の腕を引き寄せて彼女を胸元に押し付けた。
松田のもとに行けばこんなに泣かなくても済むのだろうか? 隼人が好きなのに佐藤を忘れられない罪悪感で自分を責めて、隼人の心にいる女の存在に怯えなくても済むのだろうか?
松田のところに行ったって、隼人を傷付けた罪悪感と佐藤を忘れられない苦しみはきっと変わらない。それでも……。
「やっぱり先輩は……意地悪なくらいがいいですよ。優し過ぎる……」
『だから前にも言っただろ。俺が優しくするのは好きな子だけ。……好きなだけ俺を利用しろよ』
止めどなく流れる美月の涙が松田の服に染み込んだ。
「自分の気持ちが……わからないの」
『うん』
「隼人のことが好きなのに佐藤さんのこと思い出して会いたくなって、でも佐藤さんは死んじゃったからもう会えなくて、だけど会いたくて……佐藤さんに会いたくてたまらなくなるの……」
『うん』
美月の心の叫びを松田は受け止める。彼は泣いている美月の背中を優しくさすり、彼女の手からチューハイの缶を取り上げて床に置く。
「でも隼人を他の誰かに盗られるのは嫌で……私を助けてくれたリオって人に嫉妬して……こんな自分が嫌い。大嫌い……」
『俺は好きだよ。今こうして気持ちをさらけ出してくれる美月が好きだよ』
どうして? ねぇ、どうして貴方はそんなに優しいの?
『振られたのに未練がましいよな。だけど俺もこうでもしないと諦めつかないんだ。好きな女の子が泣いてるのにほうっておくなんてできない』
美月は涙でぐちゃぐちゃになった顔を上げた。松田の温かな眼差しに心を奪われていく。
『美月の気持ちはわかってる。今だけ俺を利用しろよ』
「先輩……そんなんじゃ、いつか悪い女に捕まっちゃいますよ……?」
『それならもう捕まってる。いいんだよ。自分から捕まったんだから』
彼と彼女の顔が近付き、触れ合う唇。何もかもを忘れるように、罪のキスを重ねた。
「私みたいな勝手な女……もう好きになっちゃダメですよ……」
『そうだな。ワガママで勝手で笑ってたと思えば哀しげな顔をして泣いて。危なっかしくてほうっておけない』
ここにいるのは何者でもないただの男と何者でもないただの女。男はひたすらに女を想い、女はひたすらに男の愛に溺れる。
この短い恋愛の唯一の目撃者は水槽を泳ぐ魚だけ。青い世界で悠々と泳ぐ魚達が二人を見下ろしている。
もう戻れない。引き返せない。
私は罪を犯しました。
どうしてこうなってしまったのか、自分でもわかりません。
私は強くなんかない。弱い人間なんです。
だから今だけはこの甘くて優しい愛に溺れていたいのです。
今だけでいいから、この人の温もりに溺れていたい。
ゆらゆらと揺らめく青い世界で
たった一夜の
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