1-9

 杏奈の死と共に彼女と過ごした3ヶ月が終わった。大学の後期授業が始まるまであと数週間ある。


 9月の中頃にKeyから仕事の依頼が入った。送られたメールのURLを開くとそれはファッションデザイナーである杏奈の母親が日本とフランスに持っているデザイン会社のホームページだった。依頼はこのデザイン会社の新作デザインのデータを盗めとの内容だ。


なぜKeyが杏奈の母親の会社を狙う? これは偶然? タイミングの良すぎる依頼に戸惑いつつも僕は仕事を遂行した。


 杏奈の母親の会社のハッキングはこれまでのどの企業のパソコン内部に忍び込むよりも簡単だった。杏奈の母親はネット関係には疎いらしい。セキュリティが甘すぎる。

デザインデータを盗むことも容易にできた。こんな楽な仕事で今回の報酬は50万。Keyとは何者なのか気掛かりだったが、依頼された仕事は終えた。


 だが杏奈を失った僕の気はそれだけでは治まらなかった。杏奈の父親の会社は親戚に引き継がれてまだ経営を続けている。

杏奈を殺した奴らを一人残らず破滅させてやろう。


 杏奈が死んでから、僕は桜井物産のセキュリティを破ってデータの中枢に入り込む方法を夜な夜な考えていた。僕の指が滑らかにキーを叩く。

9月も後半に入った頃、ようやく桜井物産の内部データのハッキングに成功した。


桜井物産の表には出回らない金の流れを記録したデータを盗み出して、一般閲覧できるネット掲示板に貼り付けた。

翌日になってテレビをつけると、桜井物産の裏金流出事件として大々的に報道されていた。


 ニュースを見てほくそ笑む。これで杏奈の復讐ができた。

杏奈、天国から見てるかい? 母親も血の繋がらない父親の会社もこれでおしまいだよ。


 桜井物産……その裏側にどんなおぞましい闇が蠢いているのか、僕は知らなかった。あの時にそれを知っていたらどうしていたかな。

もし知っていたとしても、結果は同じだったかもしれない。

すでに僕はに出会っていたのだから。


 それは10月の肌寒い夜。予備校のバイト帰りに背後に嫌な気配を感じた。

この数日間、大学にいてもバイトをしていても、誰かに見張られている、尾行されている、そんな感覚に陥る。


誰かにつけ狙われる理由は思い当たらない。唯一の心当たりがあるとすれば桜井物産の件だが、あれを僕の仕業と見破れる人間はいない。


 最寄り駅を出て、アパートに通じる夜道を歩いていた僕を屈強な男達が取り囲む。


『な、なんだよ? あんた達……』


男達は僕の問いに答えず無言で僕を殴り付けた。口の中が切れて血の味が広がる。地面に倒れた僕の低くなった視界によく手入れされた革靴が見えた。


『私の忠告を聞かない君が悪いんだよ。桜井物産には手を出すなと言っただろう?』


 桜井物産……やはりその関係か。頭上から聞こえた声に顔を上げると、僕と同じ年くらいの男が僕を見下ろしていた。


『あんた何者だ?』

『Keyと言えばわかるよね?』

『Key? あんたがあの……Keyなのか?』

『そうだよ』


男は僕の側に屈み、僕の顎を持ち上げた。Keyは西洋の彫刻に似た、整った顔立ちの男だった。


『君が私の忠告も聞かずに余計なことをしてくれたおかげで後始末が大変だったよ』

『余計なことって……ハッキングして裏金のデータを盗んだことか?』

『そうさ。あそこは私の持ち物なんだ。持ち物を傷付けられたら誰でも怒るだろう? 君はおとなしく与えられた仕事をしていればいいのに』


 Keyは片手にナイフを持っている。その刃先が街灯に照らされて冷たく光った。


『しかし情報もなしに強固なセキュリティの桜井物産の中枢に入り、データを盗み出したことは評価しよう』


彼はナイフの刃先を僕に当てた。ひやりとするナイフの感触に鳥肌が立つ。


『君が生き延びる道について提案がある。まずはこのまま私に殺されるか……愛する彼女のもとに逝けるのなら君はそれでもいいと言うのかな?』


どうしてKeyが僕と杏奈のことを知っている? この男は一体……何者なんだ……?


『だが、私は君のそのハッキングの腕が欲しいな。ここまで言えばもう生き延びる道はわかるよね?』


血の味のする唇を噛み締めてKeyを見据えた。彼は笑っている。何がそんなに楽しい?


『さあ、私に殺されるか、私の下で生きるか。君はどちらを選ぶ?』


 夏が過ぎて肌寒さを感じる秋の夜。僕は悪魔のような男と出会った。

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