1-8

 ――ねぇ、先生。

 私ね、もういいかなって思ったの。

 家族も友達もこの世界もニセモノで全部薄っぺらい

 私がいなくなっても誰も悲しまない

 ずっとそう思って生きてきた。


 だけど先生だけは私の本物でした。

 もし死ぬとしても最後に先生との思い出がほしかったの。

 私のワガママな思い出作りに付き合ってくれてありがとう。


 思い出作りは1ヶ月じゃ短いし、半年じゃ別れが辛くなる。だから3ヶ月だったの。

 でも3ヶ月になる今でもこんなにサヨナラするのが辛くなるなら、半年だともっと辛くなっていたかな。


 先生から結婚しようって言われた時、とっても嬉しかった。誰からも必要とされていない私を先生が初めて必要としてくれた。

 それだけで生きていてよかったって思えたよ。


 でもごめんね。

 あと1年半は私には長すぎるよ。

 そこまで私、がんばれない。

 先生と一緒ならがんばれると思っても、薄っぺらい現実に押し潰されてもうがんばる力もないんだ。

 ごめんね。先生。


 3ヶ月、先生とたくさん思い出作れたね。

 映画みたり、ご飯食べたり、遊園地も動物園も水族館にも行けた。

 浴衣を着て好きな人と夏祭りに行く夢も先生が叶えてくれた。


 この3ヶ月は私にとって、生きてきた中で一番楽しくて幸せな3ヶ月でした。


 先生と出会えて、先生に恋して、愛されて、幸せでした。

 私がいなくなっても金魚達がいるよ。

 アンナがいるよ。


 ねぇ先生。

 こんな薄っぺらい上部だけの世界なんて、本当に壊れちゃえばいいのにね。

 今までありがとう。

 先生は私の初恋で、すべてのことが初めての人で、私が世界で一番大好きな人です。


 先生のお嫁さんになりたかったけど、私じゃない誰かがなるのかな。

 先生もいつか私じゃない人と結婚するよね。

 それは悔しいし悲しいけど先生の幸せを祈ってるね。


        *


 僕がその手紙を読んだのは8月30日の夜、予備校の授業を終えた後だった。手紙は予備校の教務室の僕のデスクの上に教材に挟まった状態で置かれていた。


 夕方、今日は予備校の授業がない杏奈がここに来たらしい。僕のデスクにこの手紙を置いて杏奈はすぐに帰ったと同僚の講師が言っていた。

僕は受け持ちのクラスの授業をしていて杏奈が来たことは帰り支度にこの手紙を見つけるまで知らなかった。


可愛らしいサクランボ柄の封筒と揃いの便箋には杏奈の丸っこい字が綴られている。手紙を読んで血の気が引いた。

すぐに杏奈の携帯に電話する。コール音は聞こえるのに杏奈はなかなか電話に出ない。


{……先生?}


 何度も、何度もかけ直して、ようやく杏奈の声が聞こえた。僕は目を押さえる。涙が滲んでいた。


『杏奈! 今どこにいる?』

{ナイショ}

『お願いだ教えてくれ! お前……死のうとしてるのか?』


杏奈は無言だった。とにかく、杏奈が居場所を教えてくれたら駆けつけられるように駅に急ぐ。側の大通りから聞こえるクラクションの音がうるさかった。


{教えたら先生、私の所に来ちゃうでしょ?}

『当たり前だろ!』

{じゃあダメ。先生を死なせたくないもん}

『杏奈っ!』


もしかしたら彼女は自宅にいるかもしれない。杏奈の家の住所を正確には思い出せず、こんな時に役に立たない自分の頭に苛立った。


{先生、ごめんなさい。1年半は長すぎなんだぁ……}

『大丈夫。僕が杏奈を守る。だから……』


 だから死ぬな……その一言がどうしても言えなかった。生きていくことが辛い人間には〈死ぬな〉も〈頑張れ〉もただの薄っぺらい言葉に過ぎない。


{もう充分、私は先生に守ってもらったよ。先生に出会えて幸せだった}

『僕は本気で杏奈を愛してる。だからお願いだ。僕のために生きてくれ』


涙が頬を流れる。立っていられなくなって歩道にうずくまった。


{ごめんね。先生のために生きるには私はもう電池切れなの}


最愛の人が今から死のうとしているのに、泣くことしかできない非力な自分が情けない。


{泣かないで、先生。私、もしも生まれ変わったら次は最初から先生のお嫁さんとして生まれてきたいな。それでね、先生の子供を産んで、家族みんなで笑い合って幸せになるの。楽しそう。早く……そうなるといいなぁ}


 杏奈が通話を切った。僕も電池が切れたロボットのように茫然自失で電車に揺られ、帰宅した。

部屋の中で泣き崩れる僕を二匹の金魚が見つめている。……二匹?


金魚鉢の中を泳いでいるのは二匹だけ。杏奈がアンナと名付けた赤い金魚だけが、金魚鉢の底で横たわって動かなくなっていた。

まるで杏奈と一心同体のように。


 杏奈が自殺したと知ったのは翌日、8月31日の夕方だった。その日はバイトもなく、無気力に1日をやり過ごしていた僕の家に刑事がやって来た。

杏奈の携帯の通話履歴から僕に辿り着いたらしい。


 杏奈は血の繋がらない父親と、異父兄あに異父姉あねを次々と包丁で殺害した後に自分も胸を刺して自殺した。僕との最後の電話の直前に杏奈は父親達を殺害していたのだ。


 僕は杏奈と3ヶ月だけの恋人関係にあったことを警察に話した。杏奈から貰ったあの手紙は誰にも見せたくなかったが、手紙を見せなければ彼女が何を思って自分の命を絶ったのかがわからない。

彼女の苦しみを語れる人間は僕しかいない。


 杏奈の母親は仕事で海外に行っていて留守だった。杏奈が本当に殺したかった相手は母親なんだろうと、それは僕だけが知っている真実。

親の勝手で生を受け、親の勝手で命を絶った。杏奈を殺したのはこの身勝手な母親だ。

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