1‐2
午後の講義の担当講師は柴田雅史准教授。90分間の講義の最中、明日香は片時も柴田から目を離さない。
『それでは各チームで決めたテーマに沿ってマーケティングを進め、来月末のチームごとのプレゼンまでにしっかり準備をしておくように』
ホワイトボードの前に立つ柴田准教授は教室内を見渡した。彼の視線はいつも美月の席で止まる。美月がどこにいても、柴田は目ざとく美月を見つけ、見つめている。
今日も彼は美月を数秒間見つめていた。
講義終了のチャイムが鳴り、学生達が席を立つ。
『浅丘さん、このレポートよく書けてるね』
柴田は教室を出ていこうとする美月を呼び止めた。明日香は一番後ろの席で遠巻きに二人の様子を観察する。
プリントを持ってさりげなく身体を美月によせる柴田に対して、美月は苦笑いを浮かべて後退りしていた。
『浅丘さんはチームリーダーだから大変だろうけど頑張ってね。何かあればいつでも相談して』
「はい。ありがとうございます」
美月が教室から出ていったのを確認した明日香が席を立つ。階段教室の段差を一歩ずつ降りて、前方の柴田に近付いた。
教室にいるのは明日香と柴田の二人だけだ。
「せーんせっ」
『明日香。さっき居眠りしてたよな?』
「してないよぉ。先生の講義で寝るわけないでしょ?」
二人きりだからこそできる親密な会話。明日香は背伸びをして柴田にキスをした。
『こら。学校ではダメだっていつも言ってるだろ』
「いいじゃない。誰もいないよ」
『次の講義遅れるぞ』
「次は休講になったの。ねぇ、さっき浅丘さんと何の話してたの?」
美月の名前が出ると柴田の顔つきが変わった。その変化に明日香の心がざわめく。
『浅丘さんのレポートの出来を褒めていたんだ』
「へー。浅丘さん成績いいもんね」
『明日香も浅丘さんを見習って提出物の期限守れよな。今日のレポート、出してないのは明日香だけだぞ』
「私だけ特別免除ってことにしておいてよ。彼女の特権」
明日香は舌を出して笑うと、椅子に座る柴田の膝の上に乗った。
絶対にあげない。絶対に浅丘美月に先生はあげない。
(先生は私のもの。私だけのものなのよ)
*
目黒駅前にある大型書店が美月のアルバイト先だ。書籍を棚に並べていた美月は後ろから声をかけられた。
「上野さん!」
振り向くと3年前から懇意にしている上野恭一郎がいた。彼は警視庁の刑事だ。
『久しぶり。近くまで来たから寄ってみたんだ。元気そうだね』
「上野さんは……ちょっとお疲れですか? クマができてます」
美月は彼の顔を見上げた。上野の穏和な顔立ちには似合わない目の下のクマが少々目立つ。
『事件ばかりで休む暇もなくてね』
「休める時にちゃんと休んでくださいね」
『ありがとう。今度また皆で食事に行こうね。木村くん達と話すと俺も若返った気分になれて楽しいんだ』
「隼人に話しておきます」
美月の優しい笑顔を見ていると上野は活力が湧いてくる。彼女の笑顔には人を幸せにする力がある。
この笑顔をずっと見守っていたい。
『じゃあ、またね。仕事と学校の方も頑張ってね』
「はぁい! 上野さんはあまり頑張り過ぎないでくださいね。でも犯人逮捕は頑張ってください!」
『あはは。うん、犯人逮捕は頑張るよ』
あの時高校生だった美月が今年はもう20歳を迎える。
美月の大学受験の際には合格祈願の御守りを彼女に贈り、合格発表の日は上野もそわそわとして落ち着かなかった。
第一志望の明鏡大学に合格したとメールをもらった時は上野もガッツポーズをして喜んだほど。まるで娘の成長を見ているようだ。
小学校低学年くらいの少女が学習ドリルの売り場を美月に尋ねてきた。美月は腰を屈めて少女と目線の高さを合わせて話を聞いている。
「じゃあ行こうね」
少女が何を求めているのか察した美月は少女の手を引いて店舗の通路を歩いて行った。
書店のエプロンをつけて髪をポニーテールに結う美月はすっかり“本屋のお姉さん”が板についていた。小さな女の子にとっては話しかけやすく親しみやすい店員なのだろう。
(あれから3年か。時が経つのは早いものだな)
美月の成長が嬉しくもある一方で一抹の寂しさも感じる。これでは本当に娘を持つ父親の気分だと苦笑いして上野は書店を後にした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます