第三話 はじまりはいつもデブ

 結果だけ言えば、デイビット鷹倉は大健闘をすることになった。


 ヒグマの力は生物の中でもトップレベルのもの。生身の人間ではまず到底太刀打ちできないのが普通だ。仮に猟銃を持っていたとしても、軽トラックの突撃のようにして襲いかかるそれに狙いを定めることはまず無理だろう。


 ヒグマは時速五〇キロで走り、最高速度は時速六〇キロまで達する。にらみ合い、仮に襲いかかって来たとすると、一秒で約十四メートルの踏み込みになる。


 そして人間が対応できるのは、事象が起こってから〇・五秒。その間約七メートルの間合いが熊の絶対的な間合いとなるのだ。


 七メートルの確殺距離キルレンジ


 これ以上人間がヒグマに近づくことは、即ち死の確約を意味する。


 たとえ槍を持っていたとしてもかなりの遠間。近代兵器のマグナムハンドガンでどうにか対応できるギリギリの間。そんな事が解らないデイビット鷹倉では無いはず――なのだが。



 なんとデブは、自分から死地へ飛び込んでしまった。



 飢えたヒグマは大声を上げ、ややその身体を引き気味で右の腕を振るう。それが直撃してしまえば、絶対に無事では済まない恐るべき力。だがデイビット鷹倉はふっと沈み込むと、挨拶と言わんばかりに右腕の大振りのフックを見舞う。


 直撃こそしたが、やはりヒグマには効かない様子。ごわごわとした体毛と、その下にある肉が、彼の豪腕をたやすく受け止めてしまった。


 ヒグマはヒステリックになって左腕を振ってくる。舌打ちをしたデイビット鷹倉はすぐに足を引いてスウェー気味にそれを避ける。


 研がれた爪が頬をかすり、風圧が彼の頬肉を揺らす。たまらずさらに大きく引いたときには、覆いかぶさるようにして噛み付いてきたヒグマが虚空を噛んでいた。


 ヒグマはすぐに次の攻撃を仕掛けてくる。発達した後ろ足は人間とは比べ物にならないほどの脚力を有しているのを、デブはまさに今実感した。静から動へと動くのに、これほどまでシームレスであるとは。さしものデイビット鷹倉の頬にもつつ、と汗が流れる。


 彼は左足を軸にギュン、と横に回る。ヒグマがそれに追随して顔を向けた瞬間、デイビット鷹倉が大きく振り回し高らかに上げた右手を、思いっきりヒグマの鼻っ面へと振り落とした。


「えいしゃあああああああ!」


 そのまま二、三発と鼻っ面へ拳を落としてゆく。据え物打ちならばコンクリートブロックを三枚ほど粉砕する彼の拳槌は、装甲板のようなヒグマの骨にヒビを生じさせた。


 それから熊とデブの壮絶な死闘が繰り広げられていた。


 見た人がいたならば叫ぶのだろう。人間がヒグマと対等に戦うとは、と。


 見た人がいたなら訝しむのだろう。流石にこれは映画の撮影か何かだ、と。


 見た人がいたならば驚愕するだろう。デブがこんなに鮮やかに舞うとは、と。



 あっという間に一時間が経過した。



 もうどちらが熊なのかデブなのか熊なのかわからないほどの乱戦。デイビット鷹倉も腰にあったサバイバルナイフを惜しみなく使い、抜刀しては熊の手や肩口に突き刺してゆく。何も鷹倉流象形拳は拳だけのみの武術ではない。自然に寄り添う人間の術もまた取り入れられているのだ。


「おいしゃああああ!」


 丸太ほどの足がグワッと伸び上がる。それはヒグマの顎を捉え、大きくのけぞらせた。


 だがヒグマはなおもタフだ。一瞬よろけはしたが、直ぐに復帰して大腕を振るう。消耗しているとは言え、体重一〇〇を超えるデイビット鷹倉を吹き飛ばすには十分な力。奮った腕が左肘に当たると、デブはボールのように地面を転がった。


 追撃するヒグマはここぞとばかりに噛み付こうとするが、デブも既に人外の域に達している。ギン! と目に炎を灯らせると、腹の弾力を生かし、膝をスプリングのようにして地面を蹴ると宙へ舞う。


 再び虚空を噛み付いたヒグマに対し、クルリと宙返りした後のヒッププレス。執拗に顔面へ攻撃したからか、押しつぶされたヒグマは悲鳴を上げて下がった。


「(ハア、ハア……いいぞ北方の放浪者ドリフター。貴様は喰うに値する。これほどの相手は戦ったことがない!)」


 口が開けばそう言えたのだろう。だが自然の爪に頬を切り裂かれたデイビット鷹倉は、最早言葉を出すことは出来なかった。裂帛の気合のみで、伝達する言葉を紡ぎあげるのは困難のようだ。


 それだけでなく、彼はもう誰が見ても満身創痍。額から血をダラダラと流し、左腕は先の打撃で折れている――のにも関わらず、デイビット鷹倉は大きく腕を広げて構える。


 それは最初にヒグマがしたような威嚇のポーズ。これも鷹倉流象形拳の『熊ノ型』の一つ。振り上げるが脱力し、その腕は丸太でありながら流水のようにある。しずしずと流れる血潮を小川に、されど力の奔流は滝を思わせる。


 やがてデイビット鷹倉に重なるのは、濁流を飛び出すシャケを狩る熊。これは、その反射力を模したカウンター技だ。


「(鷹倉流象形拳『熊ノ型』――奥義、荒鮭返し。さあ来い。貴様がシャケになるのだ!)」


 雄々しく、異様な姿。


 それはもう人間ではなく、デブは熊そのものになる。


 ヒグマもまた、認識を改めた。


 狩りだと思っていたら、縄張り争いだったとは。つまりこのデブを打倒さなければ、この一帯のものは口にできない。それは自然の絶対的なルール。ならばとヒグマはデブに敬意を払い、さらなるパワーを練り上げる。


 舞い散る木の葉が二人を、いや二匹を引き立てる。燃え上がるような夕日が差し込み、闘いは終局へ至る。



 しかし終わらせたのは二匹の力ではないのが、世の無常であった。



 最初に弾けた音がした時、ヒグマは力なく倒れた。そして次の音がした時、デイビット鷹倉の胸に激痛が疾走る。


 何事かと見てみると、胸から血が滴っていた。何か弾丸のようなものが突き抜けたようだ。


 すぐに事態を理解する。これはだ。あまりにも象形拳の技が神に至ったおかげで、遠間からではさしものハンターたちも彼を熊と誤認してしまったようだ。


 デイビット鷹倉は思う。


 これも、森羅万象にある一つの末路だと。然してこれは、象形拳として神に至った証拠であると、ある意味満足した。


 其の場にあぐらをかいたことで、初めてデブが人間と認められたのだろう。ハンターと思わしき人たちが「おい、あれは人だぞ!?」と悲鳴を上げている。


 デイビット鷹倉はそこに怒りを感じていなかった。半分覚悟していたからかもしれない。もう五分ほど闘いが続いていたら、遅かれ早かれこういう結末になっていたのだろうと。


「(後悔があるとすれば。この熊を食べたかった)」


 最後の力を振り絞り、眼前の熊に感謝の意を示す。


 それは合掌ではなく、右手を箸を持つ手。そして膝の上に置いたのは、どんぶりをささえる左手。奇しくもそれは笑顔の練習のためによく見た弥勒菩薩みろくぼさつの姿に似て――やがてデブは静かに息を引き取った。



 デブ英傑、ここに死す。



 世界のデブたちは嘆き悲しみ、同時に大いなる勇気を得る。体のことで差別を受けていた人々は「俺たちだってやれる!」とばかりに立ち上がり弔いの四股を踏み始める。各所で局地的な地震が観測され、ニューヨークは震度三ほどの揺れを観測したほどだった。


 その影響力は凄まじく、最終的には世界中の著名人が哀悼の意を捧げ、各武術界は『真・熊殺し』『グランド・オブ・ファットマン』『神拳 无二口ふたくちいらず』などの冠位を送った。


 最後に、時のローマ教皇は賛美歌ハレルヤの歌詞を以って彼をこう讃えたという。



 KING of MEET and LOAD of LOIN


 ――ミートの中の王、そして、上肉ロースの中の主――



 ★



 ところがどっこい、デブの物語はここからはじまる。


 滔々と流れる乳白色の世界の中、一人デブは漂っていた。


「(死んだか。だが死後も意識があるとは)」


 デイビット鷹倉は目を閉じたままうーんと伸びをする。目を開けてみると視界は真っ白。それは白い地平がみえるというよりも、光で全てが覆われているような感覚。牛乳の中に一人浮かんでいるような、そんな閉鎖感を感じた。


「身体が治っている」


 頬を触り、いつものふくよかな弾力を感じる。切り裂かれた部分も全て無事。そして着ているものは、何故かお気に入りのアロハシャツとジーンズ、そしてバンダナ。死に装束のサイズが無かったのか、それともしのぶ人々が気を利かせたのかもしれない。


「ここはどこだ?」


 座っているのに浮いている感覚。浮いているのに、上下感覚はしっかりとある不思議な場所。歩こうにも地を捉えること叶わず、泳ぐようにして手を描いても進まなかった。


 ふよふよと浮かぶ、風船のようなデブ。


 これは流れに任せるしかないと座禅を組み、脳内で熊との再戦を始めた時――ようやく語りかける声が聞こえた。



『ドゥィヒ! すっごい好み!』



 それは透き通る清らかな声に、煩悩がフルで注入された残念な言葉が乗っていた。


『あー、コホン……聞こえますか勇士……世界中の人々に希望を与えし勇士よ……』


「いや、そこでもっともらしくエコーをかけてもな。何用だ」


『やっゔぇ声すっごいカッコイイ! 二世紀張った甲斐があったわ! ハレルヤ! その神とは全く違う神格だけどハレルヤ!』


 彼が思うに、それは神の類の上位者の声なのだろう。声質からして女神というものなのだろうか。しかしここまで俗っぽいものだとは思いもよらなかった。


 デイビット鷹倉は考える。ここで誘いに乗ってしまっても良いのだろうか。もしかすれば、これは西洋の悪魔のように堕落させるための甘い罠なのかもしれない。


 ここは激しく強い態度で臨んだほうが良いのだろうか。だが彼はすぐに首を振った。何者であっても、自分のことを勇士と呼んだのだ、例え淫靡なサキュバスであっても礼節をわきまえるのがデブというものだと。


「名を名乗ってくださらないか美しい声の方。俺はこの通り、乳白色の世界を漂うことしかできない。もし手を取ってくださるならこれ以上の幸せは無いだろう」


『うっ……がっ……あぁぁ』


 何ともいやらしい声が聞こえてきたが、デイビット鷹倉は鬼が出るか蛇が出るかうなぎのほうがいいなと正座で待つ。


 しばらくすると何かを拭いたような音がして、何か布が擦れた音がした。そして急に頬を叩くようなパンパン、という音がすると、小さい咳払いが聞こえた。


『私はエーオース。暁の女神と呼ばれる、しがない女神の一柱です。世界に愛されし勇士よ。貴方は命を終え、ここ天へと登りました。その御霊はさんざめく星空よりも輝く、高潔なものへと昇華したようです。正直好みタイプです』


「お褒めに預かり光栄だ。その女神様がこのデブに何のようだ?」


『リクルー……いえ、貴方に一つ、世界を救って欲しいと……』





 急に割り込んできたのは、これまた透き通った女性の声だった。しかも複数である。


『おうきさん、誰に断って英霊迎えようとしとんじゃコラァァ! その英雄カモウチヴァルハラに迎えると相場が決まっとるんやぞあーん?』


『誰に断ってシノギしてんだおお? またおどれンとこのおやっさんがしたみてーに、泉にされたいんかコラアア!』


『ちぃ! 戦乙女ワルキューレのサンピン共か! クソオヤジめ!』


「ちょっと待って美しいお方。キャラ変わってる。というかワルキューレと言ったらオーディ……」


『いたぞ! あの寂れた神話の連中だ!』


 今度はやけにイケボの男達の声が聞こえてくる。


『おどれらココを如来の兄貴のシマだってわかってやってんのか、あぁ!?』


『おーおー枯れ木の賑わいだな、ああ? よく聞け斜陽企業ども! ここをどこだと思っていやがる! てめえら曼荼羅の丸のぶんだけドつかれたいんか、おぉ!?』


『うるせえシャカ公のチンピラ共が! てめえらは仙滝の端っこで行水でもしてな!』


『あんだとゴルァァアア! おい金剛杵ナパームだ! 金剛杵ナパームもってこい! 今日という今日は焼鳥にしてやるぞこのクソアマ共!』


『やれるモンならやってみやがれ! おい招集だ! ペガサスバイクもってこい! 今日という今日はこのビーンズヘッズの連中を轢き殺してやる!』


『やんのかコルァアアア!』


『やってやんぞコルァアアア!』



『今よ! 乗って!』



 何に? と聞く前にデイビット鷹倉はその太い腕をむんずと捕まれ、どこかに座らされる。やがてすぐ身体の左側から、V8エンジンかくやといった爆音が聞こえてきた。

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