小さな感情

 生きていて楽しいことなんてないと思う。


 正確には、食事とか、ソシャゲとか、細々とした楽しいことはあるかもしれないけど、それよりも苦痛なことのほうがずっと多い。仕事とか、人間関係とか、そういうの。

「死んじゃおうかな」

 そんな風にぼんやり生きていて、でも自殺するようなこともなく、アラサーになってしまった。今日もぼんやりとした暗い感情を持ちながら、駅のホームで電車を待つ。

『こにちわ』

『こにちわー』

 毎日がそんな風だからか、駅のホームにいるときだけ幻覚が見えるようになってきた。

 ベンチの端っこにいる小さい"何か"。一つ目の小さい身体で、ゲゲゲの鬼太郎の目玉の親父に似ている。違うのはローブのような服を着ているという点だ。

「こん……にちは」

 幻覚に挨拶するのも変なのだが、つい律儀に挨拶してしまう。朝と言っても会社が市の端にあるせいで私の出社時間は早く、そして人が多いホームとは反対方面に乗るせいか他に人も少なく、小さく挨拶するくらいでは誰にも変に思われないのだ。

『死にたい、思ってる』

『思ってるー』

 口がないくせに幻覚はひそひそと話す。やっぱり私の頭の中の存在なのだ。だから私のことを理解しているのだ。

『いっぱいいるよね』

『いるよね』

『でもみんな死なないよね』

『死なないよね』

『なんでだろうね』

『ね』

 幻覚は、ひそひそと話し続けている。やはり精神科に行くべきか。……いや、ちょっと、でも、怖い。


*****


「はあああああ………………」

 ある日、会社の帰りに自然と盛大なため息が出た。慌てて周囲を確認したが、幸い駅のホームには他に誰もいない。

「はあ……………………」

 仕事でも私生活でもうんざりすることが続いて、もう疲れ果てた。暗い気持ちでただ灰色のホームの床を眺める。

『死ぬかな?』

『どうかな?』

 ベンチの端に、幻覚がいた。

 死ぬ。そうか、死ぬのか。

(それもいいかな)

 遠くから電車が近づいてくる音がする。この小さな駅にはまだホームドアは設置されていない。今、今なら。

 飛び降りれば、楽に。


 ピロン、と小さな音がした。


 はっ、として一歩踏み出したまま固まり、そうしている間に電車はホームに滑り込んでドアを開ける。何人かの乗客を吐き出したそれに、無意識できちんと乗り込んで、席に座る。

「何の通知……」

 画面にあったのは、やっているソーシャルゲームの通知。

「…………新イベ」

 そして、

「えっ、ガチャ復刻するの」

 推しが活躍しそうなあらすじのイベントの開始のお知らせと、取り逃していた衣装の復刻。

「ふぅん……………」

 とりあえず死ぬのはやめだ。そう、とりあえず、今は、せめてこのイベントを見届けるまでは。

 ……ああそうだ。そうやって私は、小さな楽しみを捨てることができる、小さな楽しみを掴み取って、生きてきた。

 多分私だけじゃなくて、社会人のほぼ全てがきっと、そうだ。


 乗客が控えめな小さな駅。今日も誰も死ぬことがなく、電車は定刻通り出発した。

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