その楔に形はなく(中編1)

 ぽた、ぽた、と赤い水玉が薄暗い階段に色彩を落とす。


「日陰兄……手当てしようよ……」

「んん…………ふふ……」

 ときおり自傷する兄は、いつも自傷後はケロッとしているが、ときおりこのようにずっとニコニコしながら、日本語が通じているのかどうかも怪しくなるときもある。

「痛くないの?」

「そりゃ、いたいよ」

「痛いのに、するの?」

「いたいから、するんだよ」

「……………………」

 昔から兄は変な人だったが、こういうときの兄はもっと変な人だ。普段はやかましいくらいなのに、今は半分寝ているような受け答えをする。

 ぽた、とまた血が落ちる。

「……ねえ、日陰兄」

「ん~?」

「僕のクラスの子がさ、日陰兄みたいに手首を切ってるの」

「へえ」

「かわいくって、なんでもできて、いじめられてるわけでもないよ。なんでかな?」

 なんとなく。なんとなくだった。なんとなく兄に聞いてみたら何か掴めたりするのかなという、何気ない質問。

「さあ~~………………俺はその子じゃないしぃ」

「そっか」

「ほらぁ、いろいろいるからぁ。死にたくてやるやつもいるしぃ、死にたくないからやるやつもいるしぃ………………」

「……死にたくないのにやるの?」

 わからない。手首を切るのは、死ぬためにやるのではないだろうかと思っていた。

「普通のリスカは、血がぜぇんぜん流れないから、死なないの。死にたいときはもっといろいろ工夫してやんなきゃだめなの。どうやるかはお前は良い子だから教えなぁい」

「…………………」

「自殺のニュースとか聞くと思うだろ? なんで周りに相談しなかったのかなとかさあ」

「うん……」

「死にたい気持ちが強いときはさ……ふふ……そういうこと頭から吹っ飛ぶんだよぉ。死ぬことしか考えられなくなんの。親とか恋人とか友達のこととか全部……考えられなくなって、死ぬことしか考えられなくなんの。

 夕立みたいに急にガーっとくるからさあ、そういうときに駅のホームとかにいるとやばいね……ふふ……」

「…………………それで、切るの?」

「逆かなあ、痛みってさあ、死にたい気持ち押し退けるからさあ、刺して、痛くて、うわってなって、冷静になるよなあ。んで、掃除とかめんどくさくてまたうわってなる……」

 まあ、他人はどうか知らんけど、と兄はくっく、と笑う。

「死ぬためじゃなくて、突発的に死ぬのを防ぐために切るの?」

「うん、まあ、一例として…………」

 うにゃうにゃ、と何か言っていたが言葉としては成り立っていなかった。

「……じゃあさ、止めない方がいいの?」

「お前のお友達ぃ?」

「うん」

「止めとけよ~~。だって死にたいんだろ~~。止めておけよ友達としてさあ~~。まあ刃物とか奪ってもどっかから調達してくるからさあ~~。根本原因から解決させようぜ病院行かせろ病院~~」

「じゃあ日陰兄も……」

「今は俺の話してないよな?」

 急に言葉が明瞭になり、笑顔が消える。大きく見開かれた目は、井戸の底のように暗い。

「ご、ごめんね……」

「うん、うん」

 兄は精神科の受診をとにかく嫌がるのだ。




(死なないため、か……)

 夜、考える。やっぱりあの手の人たちの考えていることはよくわからない。

(あの子はなんで……)

 美しくて、能力が高くて、それでも死に魅了されることがある。

 それがなんなのか、少し気になった。

(明日話しかけてみようかな……)

 そんなことを考えながら、床についた。

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