歩いて行こう

 野良犬のぼくにも、ごはんをくれる人がいた。


 普通の人間とは違って、なんだか服はボロボロで、ヒゲがぼうぼうで、いつも大きな荷物を持っていて、家ではなく、外か、段ボールやブルーシートで作ったお家で眠る人だった。

「おお、野良犬か。俺と同じだな」

 そう言うと、お肉を分けてくれた。それ以来、よくいっしょにいる。おじさんはご飯をくれて、ぼくは遊び相手になるし、冬は暖房にもなれる。

「お前といるようになってから川で水浴びしたり、酒を減らしてその分銭湯で使ったりよお、へへ、健康になっちまった。犬は臭いに敏感だからな……」

 よくそう言って、撫でてくれた。人間の言葉は難しくてよくわからないけど、褒めてくれるのはなんとなくわかった。

「そろそろ夏か」

 おじさんと出会ったのは冬。春が過ぎて、夏になりかけたときに、おじさんはクシとハサミを持ってきた。

「こんだけ毛があったら暑いだろ。切ってやるよ。大人しくしろよ」

 チョキチョキという軽い音のあとに、毛が落ちていく。どんどん涼しくて、気持ちよくなっていった。

「ん? 毛で見えてなかったが、首輪? お前、元飼い犬だったのか……。札があるな。住所は……仙台!? ここ大阪だぞ!」

 ぼくが昔いたお家に帰る方法が分からなくなったのは、ずいぶん前の冬の頃だ。突然お家の周りが辺り一面川みたいになったのだ。

 家族みんなで逃げていたときにまた水が急に流れてきて、そしてぼくだけ流されてしまった。いっしょに逃げていた家族のみんなが、大声で叫んでいたのを覚えている。

 気付いたらどこかの土の上に寝転がっていた。なんとか助かったけど、水のせいでいろんな臭いが混じっていて、家がどこか分からなくなった。けどお家がある場所とは全然違う場所なのはなんとなくわかったから移動し続けて、今に至る。

「住所だけで、電話番号は……滲んでやがるな。読めねえ。名前も滲んで……ん、にくまん?」

 ぼくの名前だ! 久しぶりに名前で呼ばれて、しっぽをふりふりさせるとおじさんは大声で笑い出した。

「にくまん! にくまんか! ずいぶん美味そうな名前じゃねえか!!! あっはっは!!! 愛されてたんだな!」

 ひとしきり笑ったあと、そうだなぁ、と呟いた。

「行くか。仙台」

 行く金はねえけどな! と、また笑う。

「俺は働くのは大嫌いで、そのせいでこんな様だが……誰からも見捨てられた俺なんぞといっしょにいてくれるお前のためなら、センターでちょっくら仕事探してきてもいい。

 仙台か、ははっ! ちょっくら牛タン食べにいってくるか!」

 それから、おじさんは「たきだし」でご飯をもらったあとに、昼間にやって空き缶拾いやゴミ漁りをやめて代わりに「ろーどーふくしせんたー」というところに通うようになった。その間ぼくはお留守番だ。とても寂しかったけど、帰ってくるとおじさんはお金を持っていて、「せんたー」に行く前では食べられなかったような美味しいものを買って帰るようになった。

 それどころか、ぼくを大きなかばんに入れて布で隠して、夜は建物の中で寝泊まりするようになった。「一泊五百円だけどな! 働いてりゃ余裕余裕!」とおじさんは笑っていた。雨風の心配がなくなってとっても快適だ。銭湯にも毎日行けるようになった。

 そんな生活が続いたころだ。おじさんは「金も貯まってきたな」と仙台に行く方法を探すようになった。

「駅員に聞いたら、ペットカートってやつに入れりゃあ犬も電車だの新幹線だのバスだのに乗れるらしい。でかさに制限はあるが、お前は中型犬の割にはちっこいから大丈夫だと思う……多分。

 一気に行っちまうのもつまんねえしな。東京とかでちょっと降りて観光するのも楽しいかもな。

 そうなると俺も服を買わねえとな。旅行にこんなボロじゃなあ」

 おじさんはとても楽しそうだ。ぼくも嬉しくなってきた。

 そんなときだった。おじさんが「ろーどーふくしせんたー」に行ってから、帰ってこなくなったのは。夜になっても朝になっても昼になっても帰ってこない。さみしい。こわい。

 またひとりになってしまう。

『おい』

 一週間経ったころ、おじさんの声がした。急いで声のするほうを向くと、いつも通りのおじさんがいた。 

 いや違う。このおじさんは、いつもの生々しい、生きているお肉のにおいがしない。

『ははっ、ヘマしちまった。これだから建設業ってやつはよぉ……』

 ふぅ、と一息ついて空を仰ぐ。そしておじさんは、またぼくを見た。

『何日かかるか分からんが……歩いて行くか。仙台。冬になる前に、行かねえとな』

 長い長い旅が始まった。家がなくって、そのへんの物を食べて、野良だった頃に戻ったみたいだ。それでも、おじさんがいつもそばにいてくれて話しかけてくれるだけで、とっても楽しい旅になった。

 何ヶ月もかけて、仙台へと辿りついた。

『さて住所はわかるがこれからどうするか……。今更だが、住所変わってたらお手上げだぞ』

 なんとなく。

 なんとなく、どこに行けばいいのか分かる気がした。

『おい、どうした』

 その方向は、行ったことがない場所。住んだことがない場所。でも、妙な確信があった。

『……野生の勘か?』

 おじさんもついてきてくれた。勘に導かれた先は住宅街。目に映る町並みも、においも、まったく覚えがない。

 いや、違う。この微かなにおいは、覚えがあるような。

「でさー……」

 派手な服を着た男の子とかわいい女の子が近くを通った。ぼくを避けようとしてちらっと見たあと、男の子のほうがぎょっとした顔をして、ぼくの首輪を確認したあと、変な声を上げつつぼくを抱えて近くの家に入っていった。

 あっ、この声とにおいは。

「ちょ、父さん母さん!!! 兄貴も姉貴も!!! にくまん!!! にくまん帰ってきた!!!!! 首輪してるってマジで!!!!!!!」


*******


 犬は無事元の飼い主の元へと戻った。漏れ聞こえた会話から察するに、東日本大震災のときに離ればなれになったようだ。よく大阪まで生きて流れてきたものだ。

『……幸せになれよ』

 犬が連れて行かれた大きい家を見る。きれいで、大きくて、立派な車もある、いかにも余裕がありそうな金持ちの家。きっと、自分といっしょにいるより良い物が食べれるのだろう。

『さて……』

 死者の自分は身を引こう。それはわかる。問題は身の引き方だ。

 死んでからなんとなくわかる。死者が行ける場所。そしてそれらの暗い方と、明るい方。明るい方に行けば、天国に行けそうな、そんな気がする。けど、足は自然と暗いほうに、良くない予感がするほうに向かった。

 昔からそうだ。幸せを掴み取るのに、妙な忌避感があるのだ。まるで結婚式にボロ布を纏って参加するような恥ずかしさ、場違い感。ホームレスまで堕ちたのもそのせいだ。

(あいつをそれに巻き込むわけにはいかねえ)

 だから、仙台まで連れてきた。きっといつか不幸にしてしまうから。

「そっちは駄目ですよ。犬連れの幽霊さん」

 えっ、と振り返ると、オシャレをした少女がいた。さっき、犬の飼い主の派手な小僧といっしょにいた女だ。

「私には霊感があるんです。

 で、そっちはあんまり良くないですよ」

『あー……嬢ちゃんには理解できないだろうが』

「そういう性分なんでしょうしそれは自由ですけど、あのにくまんくんは悲しむかなって」

『……………』

「お盆とか、会いにきてくれたらいいんじゃないですか。にくまんくんの、第二の飼い主さん」

『……そうかね』

「そうですよ」

『……そうかあ』

 頭をかく。じっと見られて目をそらす。こんな少女と話すのは何十年ぶりだろうか。

『俺があっちにいったら、犬は幸せになれるんかね』

「そうですよ、きっと」

『そうかあ……』

 なら、しょうがないな、とほのかに暖かい、光の道への突き進んだ。

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