第五章 新しい風と古き伝統
第1話『教皇亡命』
エラは見つけてしまった。扉の先にいた女性を。
そこは大好きなパパの部屋だった場所。ダヴィやルツに行くことを禁止されていたが、彼女の好奇心は彼女の背中を押す。衛士の配置交代の時間を見計らって、誰もいなくなった廊下をこっそりと抜けて、扉を開ける。
そこには銀の髪にベールを被せた、白い服の女性が椅子に腰かけていた。晩春の暖かい陽の光が、窓から彼女を照らしている。
「だあれ?」
とエラが話しかけると、その女性は顔を向ける。
「カリーナではないのか」
いつも傍にいるカリーナも、この時に限って席を立っていた。聖子女は扉を開けたのが、戻ってきたカリーナだと思った。しかしその幼い声に驚く。
エラはずんずんと部屋に入ると、遠慮なく聖子女の前に立つ。彼女は聖子女の膝頭を越すぐらいに、背が伸びていた。そして腰に手を当て、頬を膨らます。
「ダメでしょ! パパの部屋にいたら、いけないんだから。パパがお仕事できなくなっちゃう」
「パパ……? そなたはダヴィの娘か」
「そうだよ! エラって言うの。お姉ちゃんは?」
「…………」
聖子女は迷った。彼女の名前は修道院でもごくわずかな者しか知らない。純粋無垢な子供とはいえ、見ず知らずな者に言ってもいいか、判断がつかなかった。
何も言わない聖子女に、エラは不思議に思った。しかしそれよりも、彼女には気になったことがある。
「お姉ちゃん、なんでずっと目をつむっているの?」
エラはまだ6歳。正円教の教えは学んでいても、聖子女の存在は知らない。当然、彼女が目を
聖子女は微笑んで答えた。
「余は目が見えぬ。そなたの姿も見えない」
「えっ」
エラの表情が曇る。彼女は前に、アキレスが目を潰したことを思い出す。その時に持った感情も覚えている。
「かわいそう」
エラは聖子女に近づき、彼女の膝によじ登った。聖子女が「ちょっと……」と驚きの声を出しても、エラはお構いなしに、彼女の片膝に座った。そして小さな手で聖子女の顔に当てた。目を撫でる。
「痛いの痛いの、とんでいけー」
昨年のゲリラ戦の最中、洞窟の中で農婦から教わったおまじないだ。エラは色んなけが人にそれをして褒められた。目を撫でられたアキレスも喜んでいた。
聖子女は戸惑ったが、やがてエラの優しい手つきを受け入れる。穏やかな表情を浮かべた。
「そなたは優しいな」
「ちゃんとありがとうって言わないと、ダメだよ」
「……ありがとう」
その時、ルツとカリーナが部屋に入ってきた。エラの存在に気づき、ルツは思わず金切り声が出る。
「エラ! 何をしているの!」
「見つかっちゃった……」
ルツは飛ぶように駆けて、エラを抱き上げて膝から離す。そして真っ青な顔で、何度も何度も謝る。
「申し訳ございません、聖子女様! どうか、お許しを」
「ちがうよ。このお姉ちゃんがパパの部屋にいたから、ダメだよって教えてあげたの」
「な、なんてことを! エラも謝って!」
床に下したエラの頭を押さえつけ、自分も腰を90度に曲げて頭を下げる。長い金色と茶色の髪が垂れた。カリーナは聖子女に尋ねる。
「聖下、大丈夫ですか」
「余は平気だ。ルツ、子供のしたことだ。気にしていない」
「ありがとうございます!」
聖子女は目が見えないのに、ルツは何度も何度も茶色い髪を振り回して頭を下げる。エラは不思議そうに、その様子を見ていた。
カリーナは助け舟を兼ねて、話題を変える。
「聖下。ルツ殿とオリアナ殿と打ち合わせ致しました。恐らく近日中にロースに戻れるかと存じます。すでにダヴィ殿は軍を率いて、ロースに向かわれています」
「左様か。教皇はいかがした?」
「アレクサンダー6世は……」
とカリーナは語感に笑みを含める。ルツとエラには分からなかったが、聖子女は気が付く。
彼女はあくまで冷静さを保ち、報告した。
「全てを捨てて、逃げたそうです」
――*――
大敗北。その隠しようもない事実は世界中に伝わり、教皇の権威は地に落ちた。彼が居座るロースでも、日に日に味方が少なくなる。
「退位はいつになる?」
「それよりも現教皇を宗教裁判にかけるかを審議するべきだ。聖下や典女
「教皇位にあった者が裁判にかけられるなど、前代未聞だ」
という議論が修道院を中心に起こる。敗北から数か月経った今、教皇のひざ元の祭司庁でも広がっていた。
冗談ではない。そう考える教皇は、側近たちと顔をつき合わせて打開策を考える。その表情に以前までの余裕は微塵もない。
「軍の再集結はいかがした」
「駄目です。領民は一切の徴兵命令に応じません。納税も拒否しています」
「貴族たちも無視しています。むしろ、我々が派遣した司教や司祭を追い出す動きさえあります」
「司教たちの中にも裏切り者が出ています。修道院に釈明する手紙を送る者もいるとか」
「くそっ!」
教皇の口から宗教の指導者らしからぬ言葉が出た。顔に青筋を立て、目を血走らせる。この数か月は眠れぬ夜を過ごし、頬はげっそりとこけてしまった。
目の前の側近たちはオロオロと顔を見合わせるばかりだ。口を開けば、おべっかしか出ない。彼らがしっかりしていれば、ここまで事態は悪化しなかったはずだ。
(……有能な部下を失った)
と教皇は実感する。アンドレやジョルジュがいれば、建設的な意見を述べるだろう。ベルナールがいれば、教皇を励まして、すぐさま敵を打ち砕こうと行動を起こすに違いない。
しかし彼らはいない。あの戦いの火中に姿を消した。教皇権力の暗部を担う「赤蛇の聖騎士団」も全滅した。教皇に残された駒はもう少ない。
(一体、私が何をしたのか! 父の跡を継いで教皇となり、正円教の“欲望”を満たしてきたのは、この私じゃないか!)
教皇は頭を抱える。彼が助けたのは正円教にとどまらない。彼の権力にすがって、王侯貴族・庶民問わず、
愚痴を言っても仕方ない。このままでは座して死を待つばかりだ。悩み抜いた教皇は、ふと思い出す。
(そういえば、いたな。この状況でも私を助けてくれる者が……)
フフフ、と教皇は笑った。側近たち
「猊下、いかがされましたか……?」
「出立するぞ」
「は?」
教皇は立ち上がり、歩き始めた。そして慌てる彼らに命じる。
「そなたたちも準備せよ。ここを出る」
「逃げるのですか!? しかし、それでは
「馬鹿め。逃げるのではない。これは“遷都”だ。正統な教皇に受け継がれるこのロッドを持っていけば、私が正円教の中心である証明になる。この地位を他の者に渡してなるものか!」
手にそのロッドを持ち、勇んで歩幅が大きくなる教皇に、側近はまた尋ねる。
「しかし、どちらに向かわれるのでしょうか。この国には敵が多すぎます! 猊下が治められていた領土さえ、反発が大きいかと」
「こんなところに留まっていても、聖子女とダヴィは倒せない。この世界で最も強大な国を使うしかあるまい」
「最も強大な国ですか……あっ」
理解した側近を見て、教皇は口角を上げる。この頃は隠さなくなった野望を張り付かせた表情が現れる。彼の意識は西に向いていた。
「ファルム国だ。金獅子王以来の伝統を持つあの国に、横暴な聖子女とダヴィを滅ぼさせるのだ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます