第四章 黒円の大乱
第1話『悲しみの再会』
『聖女はどこから覗いているか、分からない。
草の影からか、屋根の上からか、それとも帽子の裏からか。
聖女はいつでも人を見て、微笑み、楽しんでいる』(創世王伝承集より抜粋)
ダヴィは自室で靴を磨いていた。左手に持った革靴を、右手に持った布で丁寧にこすっていく。この靴は婚礼用に履くもの。新品であったが、自分で磨きたかった。
(久しぶりだな)
靴を磨くこと自体、最近は出来なかった。久々にしてみると、雑事を忘れることが出来て面白い。丁寧に仕上がっていく工程を確認すると、満足さを覚える。
思えば、シャルルと出会ったのも、彼の靴を磨いていた時のことだった。
(あの時、シャルル様に見出されなかったら、どうなっていたか)
おそらく、そのままうだつが上がらないサーカス芸人を続けていただろう。人気の出ない役者を続け、
そうなったら、人気者のトリシャと結婚できただろうか。
(ここまで来れて、良かった)
辛いことも多かった。シャルルなど、大切な人も失った。それでも耐え抜き、自分の国を築くことが出来た。トリシャを迎える場所が出来た。
靴が磨き終わる。ダヴィはそれを箱にしまうと、優しくふたを閉める。これを次に履く時、トリシャはあのドレスを着ているのだろう。
彼は幸せの中にいた。淡い冬の日光が、彼の穏やかな横顔を照らす。耳の金の輪が光る。
(おや?)
ふと見上げると、棚の上に、ワイン瓶ぐらいの大きさの白い聖女像が、こちらを見ていた。あんなとこにあっただろうか?
ダヴィは、ここの元の領主・カルロ=ナポラのものだろうと推察し、次はあれを磨こうと、椅子から立ち上がった。
その時、ドアがノックされる。
「失礼します!」
ダヴィの返事を待たず、アキレスが部屋に飛び込んできた。珍しく息を切らし、この寒い日に汗をかいている。ダヴィは驚きつつ、尋ねる。
「どうしたんだい、アキレス? そんな、血相を欠いて」
「その……」
アキレスは言葉を出せない。よく見ると、体を小刻みに震わせている。ダヴィは再度聞く。
「アキレス、ゆっくりでいいから、話してくれ」
「…………」
アキレスは何度も
彼は叫ぶ。
「トリシャ様が……!」
――*――
簡素な木の
アキレスの案内を受けて、急いでナポラ城内の大広間に来た時、それが目に飛び込んでくる。それから、ダヴィは部屋の入り口から一歩も動けなくなった。
次々と、ダヴィの部下たちが部屋に走り入る。
「おい、冗談だろ!」
「トリシャ!」
「お姉様!」
全員、その棺を見た瞬間、呆然と立ち尽くす。ジャンヌが
「ねえ、趣味の悪い冗談言わないでよ……うそなんでしょ?」
「…………」
アキレスは頭を左右に振る。彼はまだ泣いていた。それを確認して、ジャンヌは床にへたりこむ。周りの者も俯く。
ダヴィはゆっくりと棺に歩き始めた。
「顔を……見せてくれないか」
「ダヴィ様! おやめください!」
「なぜだ!?」
「とても……」
見せられる状態ではない。しかしダヴィはアキレスを押しのけて、その棺のふたをはぎ取った。
トリシャの顔が見える。蓋を取った勢いで、彼女を巻いていた布も少し剥がれ、彼女の身体の一部が見える。
白かったはずの肌は、灰色と血の色に染められていた。
「うそ、だろ……」
「こりゃ、ひどいねえ……」
ライルとスコットと同様、ダヴィたちは絶句する。アキレスは目をそらした。
無数の切り傷と青い
「トリシャ!!」
「トリシャ、なんで!」
ダヴィが悲痛に叫ぶ。仲が良かったジャンヌと一緒に、
その隣で、ルツが体のバランスを崩した。
「ルツ!」
滅多に声を張らないオリアナが叫び、気絶したルツを支える。スールが一緒に体を持つ。
泣き続けるダヴィに対して、アキレスが土下座した。
「申し訳ありません! 俺が近くにいながら、こんな……」
「それにしても、なんでこんなことになった。アキレス、どういうことだ!」
ミュールがアキレスにつめ寄る。胸ぐらをつかむが、アキレスは涙を流しながら、弱々しく首を振る。
「分からない……俺が待機していたら『誰かが襲われている』と報告があっただけだ」
「……熊や狼の仕業じゃないよ。これは人の仕業だよ」
ジャンヌは体を震わしながら、トリシャの遺体を確認して判断する。噛み跡はなく、食べられた形跡もない。人に殺されている。
「じゃあ、誰が……?」
とミュールが疑問を呈した時、ルフェーブはあることに気が付いた。それはトリシャの腹部に刻まれた焼き印だ。
彼はゆっくりと布を取って確認する。そして布を元のようにかぶせて、祈りを捧げた後、蒼白な顔で答える。
「……腹部に『真円』の焼き印がありました」
「どういうことだ?」
「これは教皇直轄の『赤蛇の聖騎士団』の仕業です」
ルフェーブが言ったことを、一同は飲み込めなかった。スールはおそるおそる聞き返す。
「つまり……どういうことなの?」
「これは、教皇の命令です。彼女は教皇に殺されたということです!」
雷を受けたような衝撃が走る。ライルとスコットが叫ぶ。
「そんなバカな! だって」
「教皇さまは味方のはずじゃないかあ!」
「……どのような意図があったかは分かりません。しかし、この刻印は『正円教の敵』に対して行う罰の1つ。教皇が神聖視されている以上、他の者が偽ってやったとは思えません」
「つまり、教皇が俺たちの敵になった……?」
ミュールの呟きを、誰も飲み込めない。青天の
しばらくの静寂。その後、ダヴィが幽霊のように、ゆらりと立ち上がる。
「ダヴィ様……」
「ルツを寝室まで運んで……それと」
消えそうな声で、振り向きもせず、背中越しに語る。
「……しばらく、ひとりにさせてほしい」
引きずるような足取りで、ダヴィは広間から去った。残された者たちは、呆然とその姿を見送る。
急に、ルツの足に再び力がこもった。
「ルツ……大丈夫」
「ええ……ごめんなさい。大丈夫よ……」
フラフラしながらも、ルツは状況を理解する。ともかく、各自が考える時間が必要だった。
「誰か、ジョムニを呼んでくださいな。たぶん、領内を回っているはずだから。教皇と同盟しようとした彼に、まずは聞くしかないですわ」
「わ、わかった」
「トリシャお姉様は地下室に運んでください……エラには絶対に見せられませんから」
各自が言われるがままに行動していく。ダヴィがいない以上、判断がつけられない。
地下室に移されたトリシャの棺に、ルフェーブは改めて祈りを捧げる。そして彼は天井を見上げ、信奉する聖女を睨みつける。
「ああ、聖女様よ! なぜ、こんな酷い仕打ちを!」
ルフェーブは常に信仰のことを考え、聖女の教えを民衆に広めてきただが、この時ばかりは、運命を司る聖女の考えが、まったく分からなかった。
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