第17話『つかの間の幸福』
シャルルの領土はウォーター奥の北西に位置する。領土の西側には海が広がり、ささやかな港が設置されている。
それを見て、一番興奮したのは、ジャンヌであった。
「これが海!?」
馬を飛び降りて、白い砂浜に駆け出していく。長い革の靴を脱ぎ捨てて、素足で海水に飛び込んだ。青い景色に、茶色い服と髪の彼女が浮かぶ。
足先が波にさらわれていく感覚がした。ぞくぞくする。
「でっけー!先が見えないじゃん!」
彼女は波を蹴り飛ばした。だが、柔らかい砂にバランスを崩して、転んでしまった。
全身を海水につける。口の中に入ってきた海水を、えづきながら吐き出した。
「なにこれ?!しょっぱい!ゲホゲホ!」
川や湖とは全く違う。彼女は再び海の先を見渡した。髪やバンダナから垂れる水を気にすることなく、海を体いっぱいに感じる。
「……風が違う。匂いも。……広い」
海にしりもちをついて
ダヴィと馬を並べるジョルジュが尋ねる。彼の長い髪は海風で舞い上がっていた。
「彼女がソイル国から来た異教徒の?」
「ああ、そうだよ。海は初めてらしい」
「へえ、変わったやつもいるもんだな」
ウォーター国に住む人にとって、海は近い存在だった。マクシミリアンは海を知らない人のことがもの珍しかった。
ダヴィは彼女をフォローする。
「彼女は草原に生きる民の出身だ。海を見てなくて当然だよ。その代わり、弓の腕前はぴか一だ」
「おっ!俺のライバルだな!あとで勝負するか」
マクシミリアンは楽しそうに笑う。背中に乗せた弓が、馬の動きと合わせて動いた。
指を何本か失った彼は、剣を握ることを半ばあきらめた。でも、彼はめげなかった。
『俺は弓でウォーター国一番の騎士になってみせる。見てろよ!』
父親のモランからもらった新しい弓を見せながら、明るく宣言する。自慢のツーブロックの髪を整え、目いっぱいに笑う。
取り繕った笑顔をしている。それが分かるからこそ、ダヴィとジョルジュは手放しでマクシミリアンを褒めた。
そのジョルジュが馬上から、今度は海とは反対側を眺めた。メガネをかけ直す。
「いい領土ですね」
海のそばというのに、一面の小麦畑が広がっていた。黄金色の絨毯が山際まで敷きつめられている。『麦秋』といわれる初夏の収穫時期はもうすぐだ。
塩害が気にならないのは、山からいくつもの川が流れているからだろう。豊富な真水が洗い流してくれるのかもしれない。
この領土は、現国王がシャルルとその母親を憐れんで与えた、箱庭程度のものだった。それを数々の戦功を立てて、シャルルが拡大していった。
さらに領土の各所では青磁の陶器をつくる工房を設けて、特産品として売りさばいている。心なしか領民の顔つきも明るかった。
ここでの統治は思いのほか楽なのかもしれない。「ただ」とジョルジュは首を傾げた。
「なぜ彼女たちがいるのですか?」
「…………」
三人は黙って振り返る。豪華な馬車が彼らの後ろをついてきていた。
馬車が三人の隣に並んだ。窓から小さな顔が出てくる。
「お兄さま。屋敷はもうすぐなのですか?」
「……ちょっと疲れた」
ルツとオリアナが不平不満をもらす。彼女たちのきれいな茶色の髪が海風に揺れる。ルツはウェーブがかかったロングヘアを、オリアナはストレートのセミロングヘアを、手で撫でつけながら、兄の顔を眺めていた。
そんな彼女たちに、マクシミリアンが尋ねた。
「おい、なんでお前らがいるんだよ」
「お兄さまのいるところに、あたしたちがいるのですよ。そんなの常識でしょう」
「当たり前」
答えにならないことを言う。ダヴィたちが肩をすくめようとしたが、ルツが説明を加えた。
「私たちはフィレスの神学校を首席で卒業したのです。お父さまは首席で合格したらなんでもワガママを聞くというので、1年間、ウォーター国への留学を志願したのですよ」
「1年間?!ルツ、僕とずっといるつもりなのか?」
「そうですわよ。一緒に暮らしましょうね、お兄さま!」
悩みが増えた。ダヴィが頭を抱えそうになる中で、ジョルジュは目を見張った。眼鏡がずり落ちそうになる。
「フィレスの神学校って、あの世界各地から名家の子弟たちが集まるあの有名な学校なのか?!そんなバカな……」
「本当じゃよ、ジョルジュ」
馬車の中から声がした。彼女たちと一緒に乗っていたマザールのものだった。白い髭を撫でながら、彼女たちに感心する。
「彼女たちとおしゃべりしていたが、実に頭がいい。お主らよりもな」
「でもよ、どうせ子供の中での世界だろ」
「違いますわよ。神学校は3年間通うのですけど、中には大人の生徒もいるのですから」
「そう。ちなみに、一番はわたしで、ルツは二番」
「ああ、もう!うっさいわね、オリアナ!」
それを聞いて、馬車の後ろから歩いてきていたライルとスコットが感心する。重たそうなリュックを背負いながら、ちびデブとひょろながノッポが会話をする。
「へえ、ダンナの妹さん方も優秀なんですねえ」
「ホントだなあ。ところでよお、ライル」
「なんだよ」
「シンガッコウって、なんだ?食い物か?」
「……おめえと喋っていると、こっちまで馬鹿になりそうだよ」
そうこうしている間に、彼らはこれから住む屋敷の前に来ていた。馬車の中から妹たちがダヴィに笑顔を向ける。
「これからの生活が楽しみですわ。よろしくお願いしますわ、お兄さま!」
「兄さま、よろしく」
「はあ……よろしく、2人とも」
これから一年近く続く、シャルルの領内の生活を、晩年、ルツは振り返る。
『私の幼少期の思い出の中で、一番楽しい時間でした』
彼女は81歳まで長生きすることになる。その長い人生の中でも、指折りの良い思い出だという。彼女が記した自伝の中で、思い出している。
『兄たちは初めての領土統治や戦士育成で忙しくしていましたが、夜になるといつも私たちの話し相手になってくれました。私とオリアナはまるで子犬のように、昼間はマザール先生の講義の合間をぬって兄を探し、夜は暖炉の前で眠りに落ちるまで兄と語り合いました』
この時にマザールから受けた政治学が、彼女たちの運命を大きく変えることになる。後に彼女たちの父であるイサイ=イスルは、この留学をひどく後悔したという。
この時の描写は、彼女の手記の中で十数ページかけて
『マクシミリアン様やジョルジュ様も良くしてくださいましたし、ライルやスコットは遊びまわる私たちの護衛についてくれました。ヘトヘトになっていましたけど。そしてジャンヌとは、最初は折り合いが悪かったですが、同い年ですから、徐々に打ち解けていきました。彼女からは馬の乗り方を教わり、彼女に文字などを教える。やがて私たちは親友になりました』
彼らの生活にカトリーナたちが加わったのは、秋口になってからだった。
『お産のためにこちらにいらしたカトリーナ様を、私とオリアナがエトーレさんに教わりながらお世話しました。ご出産の際にはシャルル様や、助っ人にクロエさんもいらっしゃって、みんなで手伝いました。そして無事に成功した時には、みんなで手と手を取り合って喜んだのです。まるで家族のように』
生まれた子は女の子で、『エラ』と名付けられた。可愛らしい、玉のような子供だった。
その後も平穏な生活は続いた。年が明けた頃、トリシャも訪れた。その際に「ダヴィの恋人になった」と聞かされた時には、ルツとオリアナは2人して、荒れに荒れたのだという。
『それでも最後は祝福したと思います。幸せそうな兄の顔には勝てませんでしたから』
彼女は最後にこう締めくくっている。
『思えば、あれが兄・ダヴィ王にとって、最後の平穏なひと時でした』
彼女は記憶する。あの時の彼らの笑顔。あれ以上のものは、この先、見たことがなかった。
もしかしたら、と彼女は考える。
『あれは神様が兄に下さった、つかの間の幸福だったのかもしれません。この先の兄の闘いの日々、そして身も震えるような辛苦を思えばこそ、こう考えざるをえないのです』
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