第226話 後顧8

建物から出た八城と桂花は街灯もなく常夜灯もないただ、時折覗く月明かりだけを頼りに薄暗闇の中を黙々と一番街区へ向け歩いていた。

「八城さん……」

そう尋ねた桂花の問いかけたに返事はない。

だから、今度は聞こえるようにもう一度少し大きな声でその名を呼んでみたが、前を歩く八城は決して返事を寄越さなかった。

桂花はそれから二度、三度と呼び掛けて痺れを切らしたように先んじて八城の進行方向へ歩み出た。

「八城さん……無視しないで下さい!」

苛立ちか、焦りか、自身の心の在り方も訳も分からぬままに桂花は呼び止めた。

八城を何故呼び止めたか、桂花自身理解出来ていないがそれでも呼び止めてて問いたださなければいけないと思ったのだ。

「さっきの丹桂に言った言葉、あれはどういう意味ですか?」

桂花は絶対に聞き逃してはいけない言葉を聞いた。

家族に関わる『浮舟桂花』にとって決して譲ってはいけない言葉だ。

「丹桂は死ぬつもり……なんですか?」

思い詰めた桂花の言葉に返事はない。

ただ、八城の黒曜石のような瞳が、桂花を黙って見つめているだけだ。

「何故黙っているんですか!答えて下さい!八城さん!」

再度言葉を重ねた桂花に対して、八城は言葉を発することなく、心底つまらなさそうに桂花を避けて歩き始めたが、桂花はまたしても八城の前へ両手を広げ立ち止まる。

「答えて下さい!さっきの言葉は!どういう意味ですか!」

「そこを退け」

言葉に温度なんてものが有るのなら周囲のものが凍り付くほどの冷たい響きを伴った八城の声音だが、桂花は絶対に引く事なく頭を振った。

「退きません!答えてくれるまで!絶対に!」

話しにならないと、無理にでも前へ行こうとした八城に、桂花は後ろから強引に掴みかかると、そんな桂花の必死な様子を八城はせせら笑った。

「おい、これから死ぬ奴が、そんな事知ってどうするつもりなんだ?」

八城を掴む力が一瞬弱まり、それでも桂花はもう一度力一杯に八城の服を握り込む。

「駄目です!駄目なんです!!お願いします!私が唯一した!姉さんとの約束なんです!だから!」

「それこそ今更だ!お前はその姉との約束を破ろうとしてるんだろうが!そんなお前が今になって妹のことを気にしても意味がないだろが!」

明確なまでの八城の拒絶に、弾かれたように掴んでいた腕が垂れ下がる。

それでも桂花の縋るような視線に、八城は据えるような感情を呼吸と共にゆっくりと吐き出して冷静さを取り戻す。

「……正直お前が何をしたいのかは俺には分からない。だがな、これだけは覚えておけ。死んじまったらやるべき事もやりたい事も出来ないんだ。お前の中で、まだ何か迷ってるなら、お前はここで下を向いてる場合じゃない筈だ」

「分かってます!私の言ってる事が滅茶苦茶なことぐらい!でも駄目なんです……どうかお願いです。もうこれ以上家族に辛い思いをさせたくないんです……」

心の支えとは恐ろしいものだ。

支えを失った瞬間に宙へ放り出される。

上も下も右も左も分からない空中では、どんな場所でも良いから着地したいと考えるのは当然だろう。

そして彼女もその一人だったというだけだ。

何処とも分からず行き着いた先がこの地獄なら、成る程。

最後を望むのも頷ける。

「……俺も昔、大切な人間を失った事がある」

あぁ、何故そんな言葉が口火を切ったのか、溜め息の先にそんな言葉が出たのか今でも分からない。

ただ、浮舟桂花は似ていたのだろう。

あの頃の東雲八城と、まるで瓜二つだった。だから放っておけなかったのだろう。

「俺は昔自分の力を過信して最後の最後で最愛の女に守られた。それから今までもずっと仲間に守られ続けてる」

勇気づけたい訳でも、ましてや何か行動を促したい訳でもない。

同種の傷であろうと、絶望の致命は人それぞれだ。

今日の運勢が悪くて死にたくなる人間も居れば、家族が死してなお前を向き続けられる人間もいる。

だから彼女が抱えるモノに『分かる』などと八城は口が裂けても言えはしないし言ってはいけない。

それでも同じ穴の狢同士、同じ穴の隙間で隣り合って眠る程度の事は出来る。

「偶然だな、その女もお前の姉と同じクイーンになった」

八城の言葉は夫婦の体裁を保っている桂花に対して最低な告白には違いない。

だが誰にも言った事のない胸の内を明かすには、丁度いい頃合いだった。

「柏木光って言ってな、今の柏木議長……つまり今の東京中央のトップ柏木議長の娘だった女だ。こんな世界になってから、半年ぐらいで出会った、まぁ俺の知る中で五本の指に入る馬鹿みたいに強い女だった」

一華に勝るとも劣らない、達人であり、唯一八城が心を許した筈の女性だった。

「大切な方だったんですか?」

「さぁな、今となっては大切だったのか、俺がアイツに頼ってただけだったのか分からないが、居なくなって初めて気付いた事がある」

そう、今でも八城は時々夢に見る。

可憐な少女が閃く鈍色を携えて、道路のアスファルトを赤一色に染め上げる光景と、背にして笑う優美な笑顔。

そして時々思い出しては、八城は憶うのだ

「あぁ、なんでアイツが死んで俺が生き残ったんだってな……」

その横顔を見た瞬間自身の鼓動が聞こえていないか心配で、桂花は僅かに一歩八城から距離を取る。

「どうした?虫でも居たか?」

「あっ……いえ、その……」

暗くて桂花の顔色までは見えないが、熱を吐き出すように一つ大きな息を吐き出した。

蟠った気持ちすら胸の内に置き去りにしても、胸の内から昇り唇から零れそうになる淡く濡れた鼓動を誤魔化すように、桂花は家族の名前を口に出す。

「あっ……あの!八城さん!教えて下さいませんか?丹桂が今何をしようとしてるのか」

「……そんな事、知ってどうするんだ?」

「そんなの知ってから考えます!だから教えて下さい!」

微かの沈黙の間、先に視線を外したのは八城の方だった。

諦めたように『そうか』と呟き、溜め息の隙間の言葉を吐き出す

「お前の妹な、多分お前と同じく死ぬつもりだろうな。お前の姉と同じく家族に殉じて」

「姉さんに殉じる?」

「お前の姉はお前を庇って死んだんだろ?だから、お前の妹はお前の姉さんが守ったお前達兄姉を守るんだろ?お前達兄姉がもう二度と住民に意思によって無謀な作戦に従事させないように、そしてここからは俺の予想だが、多分丹桂はお前に任せるつもりなんだろうな」

考えずとも分かるのは『浮舟』という家族が呪いじみた個人の結束を持っていることだ。

家族を思いやっている様で、その実家族の事など微塵も気にもしていない呪い合いだ。

そして、その末に名前を連ねた八城に対して『丹桂』は『桂花』を任せるつもりなのだろう。

「最後も最後、住人の数を減らしたあとにお前が丹桂を住人の前で殺す。それが多分浮舟桂花の筋書きだ」

最も簡単な英雄の作り方。

薬品を調合するかのように、状況を掛け合わせ合理的に人身を掌握する。

そして丹桂の誤算は、桂花自身が生きる事を望んでいないという一点だ。

「浮舟丹桂は確かに天才かもしれないな。兄の人殺しって呪縛も、姉がこれから受ける誹りも、自身の死を持って何もかも覆そうとしてる」

聞けば聞くほど『浮舟丹桂』は問題児だ。

八城が

浮舟兄妹の中で一番の問題児が誰かと聞かれれば間違いない『浮舟丹桂』の名前を上げるだろう。

彼女は問題児故に、なにも見ないし考慮しない。

自身の命も他人の命も向こう見ず。

目的の為なら手段を選ばない。

そんな彼女が唯一瞳に映し、考慮に入れるのは家族だけ――

だからこそ、八城は桂花に再度尋ねなければならない。

「だから、もう一度聞く。お前は何がしたい?」

最愛の存在を失って腐っていた八城へ『雨竜良』が尋ねた言葉を、今度は八城が口にする。

一瞬逡巡した後、桂花の薄紅の唇が言葉を紡ぎ、八城はその返事に確かな頷きで返すのだった。

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