第195話 享楽1

7777番街区ゴルフ場の落葉樹が、その葉を金色に染め上げた秋の頃

八城は丘の涼しい風を浴びながら、食後の時間を漫然と過ごしていた。

「あ〜あっ、っと……やることが……ないなぁ……」

そんな事を一つ呟いてみるが周辺に人影はおらず、ただ声が虚しく風に攫われて行く。

あれだけ騒がしかったクイーン討伐から、かれこれ一週間が経過した。

討伐の翌日は目まぐるしいまでに忙しかったのを覚えている。

『野火止一華』を始めとした作戦参加部隊の居住区収容に、衣食住の配給や武装の配備まで、八城は数多くの仕事をこなした。

中でも面倒だったのは、何故か舞い戻って来た『歌姫』の処遇だろう。

結局歌姫に関して八城が外部と接触を計った事は、何処からか情報が漏れており、各方面への報告書作成にてんやわんやしながらも、7777番街区住民の協力の元様々な雑務をこなしていった。

だが、最も八城が頭を悩ませていたのは『無食の妹』内部から出て来た、人の形をしたクイーンの処遇である。

人の言葉を喋り人の言葉を理解し尚かつ桜の生命線を握っている少女をどうするべきなのか、前例がない事態に説明を受けた各隊長も困惑を隠せていなかった。

だが、なにより場を混乱させたのは少女の一言だった。

曰く、彼女こそ『大食の姉』のクイーンであり『大食の姉』の上位個体ということらしい。

つまり少女を殺す事は『大食の姉』を殺す事に他ならないという事だ。

それは少女に感染させられている桜も同じ事が言える。

少女を殺せば『大食の姉』を殺す事も出来るが同時に、桜も死ぬということらしい。

『真壁桜』は今作戦最大の功労者であり、桜が居たからこそ作戦参加者の多くの命が救われた事には変わりない。

ただ、それでも桜が化け物に変質しないのかという疑問は多くの者が抱えていた。

7777番街区は決して人口密集している番街区ではないが、それでも人が寄り集まり暮らしている居住区である。

老人と子供が過半数を占めるこの居住区でひとたび感染が広がれば、それは瞬く間に取り返しのつかない事態にまで発展するだろう。

この番街区住人も大遠征時の桜には恩があり、今作戦で助かった隊員も桜には恩がある。

そんな、数多くの疑念が残る中、少女は自身の立場を理解していない様に一つ楽しげに言ってのけた。

『私はあなた達の言うところのクイーンであるだけで、人を食べる事は出来ないなの』

つまり、少女の言葉をより簡潔に纏めるのであれば、少女はクイーンではあるものの、クイーンとして持っている筈の自身一人で人を食い、増やす事の出来る因子を『大食の姉』に奪われているらしい。

だからこそ、大食の姉は凄まじいスピードで体再生を繰り返し、強い感染源を保有しているが、人体複製因子を持っているのはあくまで、クイーンであるこの少女で『大食の姉』は人を食い感染させる事は出来るものの、食った人間をDNAから再生させる事はできないとの事だ。

クイーンが持つ筈だった、押さえきれない増殖力と再生力。そして協力な感染力は『大食の姉』に……

しかし、肝心のクイーン因子は『無食の妹』に……

巣分けの際にそれぞれに分けて与えられてしまった結果、クイーンとしては歪な『人の形を保った』少女が出来上がったという事だ。

そして、再生力の大半を喪失しているからこそ『無食の妹』の内部に居た少女は、人の形を保っていられるらしい……

正直八城は半分も話を理解できていなかったが、少女を生かせば桜も生かせると分かれば十分過ぎる。

他隊員も現状で打てる手がある訳でもなく、全てを八城に一任するという、半ば責任を八城に押し付ける形で会議は終了した。

そう、終了した。

ただ、終了したからと言って、何故ここで八城が今も暇を弄んでいる事を繋がるかと言えば、その次に行われた、負傷者リストに『東雲八城』の名前が上がった為だ。

誰が密告したのか……

というか、まぁ大体の見当は付いている。

新しく入って来た割に、振る舞いは大御所のブロンドシスターが余計なお節介を回したのだろう。

八城は見事なまでに包帯で簀巻きにされ、あれよあれよの内に全ての身の回りの世話を年下の少年少女にさせてしまっていた。

世話係の少年少女は八城が何処へ行くにも付いて来る。

風呂は勿論、他隊員とのちょっとした雑談や、果てはトイレまで……

彼ら彼女らが勿論嫌いな訳ではないが、流石に二日も経てば、鬱陶しい事この上ない。

大きいストレスは勿論嫌いだが小さなストレスの積み重ねも同じぐらい嫌いな八城は、監視の目を盗み人目の付かないゴルフ場隅で一人時間を潰していたという訳だ。

だが、そんな平穏は長くは続かなかった。

「隊長〜隊長〜今日の世話係の楓ちゃんが泣いて隊長の事探してますよ〜可哀想ですから〜出て来て下さいよ〜」

桜の間延びした声が聞こえたかと思えば、八城の居る芝の上に影を作る少女が一人……

「見つけたなの〜桜お姉ちゃん」

これまた、間延びする声は『無食の妹』の内部から出て来た長髪赤髪の少女である。

「またお前かよ……よくも的確に見つけるもんだな」

八城のプチ家出も数える事今日で四度目だが、四度が四度とも三十分と経たずに八城はこの少女に容易く発見されてしまっている。

「八城さんは良い匂いがするから、簡単に見つけられるの」

「また、それかよ……何だよ良い匂いって……今の俺どんな激臭を醸し出してるわけ?」

少女は麻薬探知犬よろしく八城の匂いですぐ分かるとの事らしいが、そんな事を言われた八城は気が気ではない。

「もう最悪だよ……ベース基地と此処までどれだけ離れてると思ってるんだよ……風に乗って俺の体臭が分かっちゃうとかさ……俺どう考えても隊員と同室で暮らせないんだけど……っていうか、そんなに俺臭うの?」

クンクンと自分の匂いを確かめてみるものの、自分の匂いが自分の鼻で分かる筈もない。

丁度、少女の声に呼び寄せられた桜に八城は不安気に自分の匂いについて尋ねるが、桜は気まずげに笑うばかりで肝心の答えを喋らない。

「ねえ、俺聞いてるんだけど?俺臭うかな?もう体臭とか気にしないと駄目な歳かな?」

「あっ、いえ……。隊長は良い匂いですよ。……というか、すみません……正直、菫さんに感染させられてから、私も隊長が良い匂いで仕方ないんです」

「なんだよ。お前もかよ……良い匂い良い匂いってさ、お前ら散々言ってるけど実際俺はどんな匂いなんだよ……って言うか菫って誰だよ」

シレッと桜が言った菫という名前に八城は心当たりがなかった。

「あっ!私が名前をつけたんです。この子名前を覚えていないらしいので……なにか名前とか付けるの不味かったですか?」

「いや、名前がないのも不便だからな、丁度いい機会だろ。それより、俺の体臭の話だが、実際のところどんな匂いなんだ?」

「う〜ん、なんて言うんでしょうか……隊長の匂いを例えるなら、近くに珈琲ショップがあって出来立ての豆を引いている感じというか……かと言って香ばしいわけじゃなくて、フルーティーな清涼感もある……とにかく!隊長の匂いはいい感じですよ!ねえ菫さん」

「はいなの、八城さんは思わず食べたくなる匂いなの!」

「……お前今のそれ、番街区内の住人の居るところで絶対に言うなよ」

ある意味一番言ってはいけない言葉を、言ってはいけない人間が言ってるのだから、八城としても笑えない。

「まぁ、いいや。なんだっけ?ベース基地に戻るんだっけ?俺正直嫌なんだけど。大体さ、身の回りの世話って言って風呂の介護までされてると、色々と気まずいしさ。それにあの場所に帰ると紬も居るし……」

八城が働きたくないのは今でも変わらない普遍の理であるのだが、働かない事を強要され、あまつさえ自身のことまで介入されては、休まるものも休まらない。

だが、なにより同室の紬の行動が目に余るのだ。

「お前、ちょっと考えてみろよ。俺が部屋で紬と無駄な時間過ごしている間にさ!来たばっかりの菫だって、自分で仕事を探して頑張ろうとしている訳だ。7777番街区の子供もさ、ちょっと肌寒い外とか廊下とかで紬より年下の子供が立番してるんだぞ!俺もう耐えられねえよ……それに比べて、俺と紬はなにしてるんだよ……仕事もせず、昼過ぎに起きて飯を食うだけの日々!紬に至っては擦り傷で病床使ってるからな!アイツに関して俺は谷川にどうやって申し開けばいいんだよ……というか、もうどうやっても申し開くこともできやしないんだよ……あぁ、俺達は感染者以下のゴミ虫以下だ……」

「そんな……そんな事はないかと……」

桜は気まずげに瞳を逸らすが、それが何より答えを表していた。

「ない訳ないだろ!お前だって思っただろ!紬のやつ!怪我人の俺に付き添ってくれてる子供に、事あるごとに自分の欲しい物取りに行かせたり、自分の布団だけ干させたりしてるんだぞ!この間なんか。『ちょっと小腹が空いたから気の効いた物を所望する』とか、なんとか言い出しやがって!なんでアイツの態度あんなにデカいの?何様なの?地球規模なの?」

紬の態度に頭を悩ませていた八城は、あらゆる記憶を思い返しただけでこの番街区に住む、働く方々への申し訳なさで、真っ直ぐ番街区内を歩く事も間々ならない。

「アイツさ、誰に似たんだろうな……」

「それは隊長じゃないですか?東京中央の隊長もあんな感じですし……」

「お前、それは言い過ぎだろ。俺は自分の隊員以外にはあそこまでしないから。そもそも、俺が隊員に頼む時は桜にしか頼まないからな」

「え?それってどういう意味ですか?」

期待を込めた眼差しを送るが、八城は全てがどうでも良さそうに手の平の上に乗せた石で、コロコロと遊び始める。

「だって、八番隊で頼めるのお前ぐらいしかいなんだもん。紬は遅咲きの反抗期だし、時雨に頼むとなんでもやり過ぎるからな。お前は半々ぐらいの確立で失敗するけど、九割失敗するあいつらに任せるよりは、お前の方が余っ程ましだから」

「……私、もう隊長のお願い聞きませんから!」

「最低なの、桜から最低の感情が流れ込んで来るなの……気持ち悪いなの……」

桜が怒りを露わにすると同時に、何故か菫がその場で嘔吐き始める。

「あっ!すみません菫さん!大丈夫ですか!」

「大丈夫じゃないなの……気を付けて欲しいなの……」

クイーンである菫は、桜の居場所が目を瞑ってでも分かるらしい。それ程の強い繋がりは桜の感情すら菫へフィードバックするらしい。

詳しい事は分からないが、菫には何もしていないにも関わらず桜が何かされると何故か菫が苦しんでいる姿が時々見られるのはそのせいらしい。

八城は、可哀想な菫を優しく背を撫でながら、ゆっくりと助け起こす。

「お前も大変そうだな……こんなのが自分の最初の仲間なんて、頭の中が騒がしくて仕方ないんじゃないのか?」

「そうでもないなの。桜は確かにうるさいけど、特別うるさいのは八城さんの周りにいる時だけなの。さっきも八城さんを探してるときもムグッ……」

「あっああっ!菫さん!そういうのは!ちょっと!」

顔を真っ赤に染め上げた桜は、無理矢理菫の口を塞ぎにかかると、そのまま菫をひょいと持ち上げた。

「じゃあ!隊長!私と菫さんはもう戻るので!早めにベース基地まで帰って来て下さいね!」

捲し立てる桜の胸で、抱き抱えられた菫がジタバタと抵抗するが桜は落とさぬよう腕に力を込めた。

「えあ!ちょっと桜〜だっこしないで欲しいなの!マリアにして貰った刺繍が取れちゃうなの〜」

「抱っこが嫌なら自分で歩いて下さい!いいから行きますよ!それから隊長に余計な事は喋らないで下さい!」

八城を探しに来た筈の二人組は、何故か八城をその場に残し仲良し姉妹の様に戯れ合いながらベース基地に歩いて行ってしまった。

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