第162話 荒城10

立つこの場所が、彼女『天王寺催花』にとって何よりも耐え難い場所であった。

時雨に連れられて礼拝堂に入れば、多くの人間が八城の言葉に耳を傾けている。

生きる為の作戦。

礼拝堂に集まった誰もが彼の言葉に耳を傾ける。

生きる事に得意な彼の言葉は、誰の耳にも心地よい言葉だろう。

ただ一人、天王寺催花を除いては

力無く壁に寄りかから無ければ立っていられない程の重圧は、何よりも重く彼女の身体を地べたへと引き摺り下ろす。

天王寺催花の気怠さは、一日前より始まった。

全ての事柄を諦めて、白百合紬という少女の引き金に身を委ねてしまおうとしたあの時だ。

だから、彼はそんな時に現れた。

違うのかもしれない。彼は天王寺催花が諦めたからその姿を現した。

親友で、最愛で、生きる意味だった彼女が、愛おしそうに何時も持っていた写真の中にいた一人。

その中でも最も特別だった一人。

看取草紫苑は、彼の事を最低だと言いながらその実彼を語る彼女の声音は、何時も楽しげに跳ねていたのを覚えている。

見も知らない彼の事を楽しく話すものだから、天王寺催花はあまり面白いと感じなかった。

だってそうだろう。天王寺催花にとって看取草紫苑は唯一身近に居てくれる存在で、そんな彼女を喜ばせたいと思うのは天王寺催花にとって自然な事だった。

喜ばせたい彼女を、たった写真に映る一枚で笑顔にしてしまう彼の存在に嫉妬するのも自然な事だった。

時折思い出した様に写真を見つめる彼女の横顔は笑っているのに、何処か悲しそうで、天王寺催花は、そんな彼女に一度だけ尋ねた事がある。

「会いに行かないの?」と、そしたら彼女は子供に笑いかける様に優しく微笑み、こう言った。

「彼が悲しむから、もう会わない」のだと

意味が分からなかった。

何故?彼に会えなくて、悲しそうなのは彼女自身の筈なのに……

大切と言葉に出さなくとも、看取草紫苑の微笑みは彼の事が大切だと物語っているのに……

「今は催花が居るから、私は大丈夫」

彼女は優しい。いつだって欲しい言葉をくれるから。

だから天王寺催花も、看取草紫苑が求める物を与えたい。

天王寺催花には看取草紫苑が必要だから、看取草紫苑も天王寺催花を必要として欲しい。貰ってばかりは心苦しいから、天王寺催花も看取草紫苑へ何かを返したかった。

あの日の夜明け前、看取草紫苑を暴漢から助けたのが始まりだった。

天王寺催花は声が出せない。立つ向かう力も無い。

天王寺催花に出来るのは勇気を振り絞る事ぐらいだ。

手近にあったスコップで男の頭部を思いきり殴りつけた。

だが男は倒れる事なく、そのスコップごと天王寺催花を引き寄せると脇に差していた量産刃を引き抜いた。

月明かりに、頭から血を流した男の血走った目が光りその場から一歩も動けなくなったのを今でも鮮明に覚えている。

だが男の後ろに横たわる看取草紫苑の顔は半分程赤黒く腫れ上がり、呻き声を上げているのを聞き、今握っているスコップをもう一度強く握り込む。

戦えるのは今この場に自分しかない。

握ったスコップを振り上げて、男にもう一度当てようとしたところで、天王寺催花はその暴漢に押し倒された。

体格も体重も何もかも上。

天王寺催花が非力な腕力でスコップを振り上げるまでに男の方が距離を詰めるのは容易だった。

男は無言のまま、天王寺催花の顔を殴りつける。男が拳を振り下ろす度に口の中を満たす血の味に痛みから涙が出た。

幾度かの痛みの後、やがて男は傍らに持っていた刀を床に無造作に放り投げ、天王寺催花に馬乗りになる。

男が向ける欲望を丸出しにした歪んだ笑みへせめて睨みを返す事が、せめてもの抵抗だ。

これで良かった。

此処で天王寺催花が終わってしまったとしても、引き換えに看取草紫苑を守る事が出来たのなら、こんなに胸を張れる事があるだろうか。

だから天王寺催花は最良の道筋を選んだのだと思っていた。

だが次の瞬間、男の上半身がグラリと揺れ天王寺催花の腹の上に男のヌルリとした夥しい量の赤い液体が降り注ぐ。

暗闇に光る鈍色の刀身は男の背中から突き抜け胸から顔を覗かせ、間違いなく男の致命傷となっている。

「駄目だよ催花……こんな所に来たら……」彼女が言葉と同時に突き立てた量産刃を引き抜けば、男は一本真を失った人形の様に床に倒れ込み次第に動かなくなった。

「ごめんね催花。洋服汚しちゃったね」

彼女は気遣う様に傍らに座り込み、天王寺催花の傷を取り出したハンカチで拭って行く。

だが天王寺催花は、傷口に当てられたハンカチを奪い看取草紫苑の顔を拭う。

看取草紫苑の傷は見るのも痛々しい程に腫れ上がっている。殴られたとはいえ看取草の傷の度合いは天王寺催花とは比べるまでもなく酷い状態だったからだ。

天王寺催花には分からない事が多い。前線に立たず傷の手当の仕方も分からない。

だけど、彼女が酷い傷を負っている事だけは分かった。

ハンカチを取り、看取草の頬をグシグシと拭うが、力加減が分からず看取草は痛みから顔を顰める。

「イッツツ……私は大丈夫だから、催花の傷を見せて」

何時だってそうだ、看取草紫苑は自分の事を後回しに、天王寺催花を優先する。

だがコレだけは、天王寺催花も譲れなかった。

言葉を喋れず気持ちを伝える為の書く道具もない。なら行動で伝えるしかない。

天王寺催花は頑にハンカチを手放さず、グシグシと傷ついた看取草の頬を拭い続ける。

「ありがとう、私はもう大丈夫だから、次は催花の番」

天王寺催花の硬く握られた手のひらを解きほぐしそのハンカチを綺麗に四つ折りにして傷口に当てる。

「ほら、こんなに……此処も切れてる。私のせいでごめんね、怖かったね」

傷口が切れているのは、彼女も同じだ。

彼女の方が一人で怖かったに決まっている。

その筈なのに、看取草は何事も無かったかの様な表情で、声で、仕草で、傷の手当を済まして行く。

「もう大丈夫だから、アイツは私が殺したから。催花は絶対に私が守るから」

当たり前の様に与えてくれる優しさが、天王寺催花の無力を引き立たせる。

「大丈夫、大丈夫だから。催花を傷つける人はもう居ないから」

感情の端々から波立つ涙がまた一つ流れれば、看取草は見逃す事なく救い上げる。

そんな彼女の言葉に安心してしまう己自身が何より情けない。

恐ろしさから、涙が出て。安堵から、涙が出て。何も出来ない情けなさから涙が出た。

その夜はお互いを抱き合いながら、血に濡れた服のまま眠りに着いた。

そして明くる日、彼女は捕まった。

昨日の夜、刺し殺した男は常駐隊員だったらしい。

弁明は聞き届けられる事はなかった。

発言権は常駐隊にあったからだ。

彼らが率いる隊員の不祥事を隠蔽する為に、看取草紫苑は格好の標的となった。

何度となく、紙にペンを走らせあの夜の事を糾弾したが、番街区含め誰も取り合ってくれなかった。

番街区内の住人も常駐隊に居なくなられてしまう訳にはいかなかったからだ。

一人の顔が頭を過った。

彼なら、看取草紫苑を私と引き合わせてくれた彼。

中央遠征隊を率いる八番を持つ彼なら今の状況をひっくり返す事が出来る筈だと。

司令室に駆けた。あの場所なら、直接東京中央へ直接連絡を取る事が出来るから。

だが、それでは遅かったのだ。一室を通り過ぎる瞬間天王寺催花は聞いてしまった。漏れ聞こえる声は何よりも如実に彼女の現状を物語っていた。

幾度となく励ましてくれた声は、声を押し殺し泣いていた。

幾度となく抱きしめてくれた手は傷だらけになり痛みに堪えていた。

何故彼女がこんな扱いを受けなければいけない?

彼女が一体何をした?

もしあの時、出て行かなければ……

現状を作ったのは誰のせいだろう……

彼女は何時も私を助けてくれた。

寄り添って、何時も隣に居てくれた。

なら次は、私が看取草紫苑に返さなければならないだろう。

私が彼女の隣立つ番だ。

彼女が私を支えた分、今度は私が彼女を支えるのだ。

だからあの時の私は、あの場所で、もう一度歌う事を決意したんだ。

彼女がもう一度、私に声を返してくれた。

生きる意味を教えてくれたから……

だから私は、看取草紫苑へこの声を届けよう。

それがたとえ、この番街区を壊してしまう事になったとしても……

意思を伴った声は、直に通った。

廊下を抜け番街区全体へ、彼女の声に誰もが聞き入った。

その声は縛り付けられていた看取草紫苑にも届いていたが、彼女だけは他の誰とも違う表情を浮かべていた。

「なんで……駄目だよ、催花……」

頼りない看取草紫苑の声は、厚い壁に阻まれ美しい歌声だけが番街区を包んでいた。

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