第100話 鬼影7

地区遠征まで、残り2日

その日いつも通り八城は仕事を終え、食事を取り、いつも通り部屋に戻り、何の感慨もなく床に付くつもりだった。

「やあ八城、今ちょっといいかな?」

食堂を出て直ぐ待ち伏せしていたかのように善に呼び止められた。

別に部屋に戻ってする事などないが、する事が増えるのは遠慮したい八城だ。

「悪いな、すぐ部屋に戻るって言って来たんだ、早く戻らないと」

「誰に言ってきたんだい?」

八城が一瞬目を逸らしたのを善は見逃さなかった。

そして八城もそんな約束をした相手など居ない。

そもそもすぐ戻るなど、あのメンバーの誰に言うというのか。

八城は乾いた笑いを貼付けて、考えを巡らせたが大した答えが出る筈もない。

「分かった、行くから、そんな怖い顔をしないでくれ」

そう言って八城が連れられて来たのは応接間。

湿ったカビの匂いが鼻を突き、それに紛れて消臭剤の匂いが香る。

使われていなかった部屋を、ここ最近で使えるようにした事が伺える。

「まだ少しカビ臭いね」

そう言って善は二つある部屋の窓を開け放った。

夜の潮風と波の音が肌と耳に当たり調和していく。

「良い部屋だな」

厭味でも世辞でもない

それは八城が感じたままの言葉だった。

「飲むかい?」

「酒は飲めない」

善は下部収納から半分程減った琥珀色液体が入った瓶を片手に、八城を誘ったが八城の愛想のなさに複雑な笑みを浮かべ、やがて諦めたように一つのグラスにその液体を注いだ

「八城はもう二十歳を過ぎたと聞いていたけど?」

「四年前から数えるのを辞めたからな、まだ十六だ」

「律儀だね」

「歳は数えた方が律儀じゃないのか?」

「律儀だよなんせ僕はこの世界が、何年前に始まったのか聞かれてもパッと数字が出て来ないからね。その点八城は災害が起こった年数をちゃんと把握しているんだから、僕よりは律義だ」

「そういうもんかね……」

八城は、弱い光りを放つ常夜灯を眺めながら、椅子に深く腰掛けて頬杖を付いた。

この会話が決して退屈な訳ではない。

むしろ心地よいとすら感じているが、何故だか目の前の善が揺らすグラスの液体に少しだけ心奪われていた。

「飲みたいのかい?」

「いや、辞めとく」

酔えば少しは現実から離れる事が出来るか?

もしそう聞かれたならきっと八城はイエスと答えるだろう。

ただその現実から離れたら最後、永遠に戻って来ようと思わない事は想像にかたくない。

「八城は、どうして律儀に四年前を覚えているんだい?」

「そりゃあ目の前に化け物が現れた日を忘れるなんて有り得ないだろ」

「確かにそうだけれど、知っているかい?異常が一ヶ月続けばそれは日常になる。君は日常が何時から始まったか覚えているのかい?」

確かに何月何日何曜日。そんな物を覚えていない。

ただ頭の中で必要な情報。

その一つに、区切りがある只それだけだ。

「はぁ、お前が言いたい事は大体分かった。つまりアレだろ?何か特別な事でもないなら、始まった日も、日常の中に埋もれていくって話だろ?」

「そう言う事だね。始まった日なのか、君が始まりだと思った日なのか……僕には分からないけれど。少なくとも八城も僕も始まった日は確かにあるだろう?」

善が言う始まった日とは何か?

八城は思考を巡らせようとして無粋だと気付く。

何故珍しくも八城をここに呼びつけ、片手にグラスを持ち、記憶消去の儀式よろしく酒を呷るのか。

それに気付かない程、八城と善の関係は浅くない。

だからこそ、善も八城を話し相手に選んだのだろう。

なら八城も、昔の盟友のために気晴らしの役割を担うのも悪くない。

「始まりは、やっぱり一華だろうな。アイツとの出会いは良くも悪くも鮮烈だった。それにお前の言葉を借りて日常が始まった日から数えれば、紬に次いで一華との付き合いが長い」

「彼女……当時の野火止一華はそんなに凄かったのかい?」

「凄いなんてもんじゃない。出鱈目の滅茶苦茶だ。何度アイツのせいで死にかけてアイツに助けられたか……マッチポンプの日々を数えるのも、指の数を超えた辺りから覚えてない」

「八城はその出鱈目のお陰で強くなったのかい?」

「おかげって言い方は引っかかるけど、大体そんな感じだろうな」

八城が釈然としないのはさておき、善は楽しげにまた一つグラスを呷る。

喉を焼く様なアルコールの熱さと、それを冷ます夜風は、これが現実である事を教えて来る。

「俺ばっかり喋ってるのもフェアじゃないだろ?善も何か話せよ」

「一応、僕は年上だよ?」

善は今年で二十七歳。

八城とは七年の歳の差がある。

だがそんな事を気にする八城ではない。

「そんな事を俺に気にして欲しいのか?」

「そうだね、その通りだ」

笑う事が自然だと、二人はその空気を笑う。

仕切り直しと言わんばかりに、善は空になったグラスにまた新たに液体を注ぎ、美しい琥珀の水面に善の顔が映し出され、また揺らしては、その表情をうやむやにしていく。

「そうだね、僕の始まりの日か……僕は何も無い人間だった」

「でたよ!善の何も無い人間世界一グランプリファイナリスト自慢!聞き飽きたんだよ!」

「自慢じゃないよ、自虐だよ」

「グラック企業が黒すぎて、光りも反射する話は聞き飽きた。他の話にしてくれ」

「でも僕は何も無いからね、何も無かった話しかできないよ」

「馬鹿言え、お前にはちゃんとあっただろ?」

善の最愛の人間。

今は亡き最愛は善の中に確かにあった筈だ。

「そうだね、あった。あの時は確かにあった」

「リン」そう名乗った女性は、その最後の最後まで本名は明かさなかった。

だが、その名前は確かに善の最愛の女性の名前だ。

「何も無かった僕が何かを持つ人間になって……そしてまた、何も無い人間に戻った話だ」

絞り出す様に出した声音に力は無い。首は項垂れ視線は床に固定されたままだ。

「八城……僕は今、何かを持っているのかな?」

弱々しい灯火はつかの間空気を与えなければ即座に消えてしまうかもしれない。

だから八城は三郷善の友人としてこの場所に座っている。

「少なく見積もっても、俺は居る。この場所に居る。お前を見て、知って、隣に立って、戦って、失って、それでも……お前がお前自身に何も無いと言ってもさ、俺はお前と居るよ」

八城の言葉は愛の告白に近いだろう。

だがこれが八城の嘘偽り無い本心だ。

きっと善はこの閉じられた111番街区で昔の事を思いながら、その狭間を揺れていた。

彼が認める事はあるが、彼が認められる事は無い。それが隊長という責務だ。

「ありがとう……ありがとう八城」

「いいさ。まあ、あれだ湿っぽくなったな。グラスもう一つあるか?」

「飲むのかい?」

「烏龍茶をな」

「そんなの、この場所にはないよ」

善は呆れた様に浮いた腰を深くソファーに預けた。

「じゃあ水でいい」

「八城らしいや」

善は立ち上がり冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出しその小さなグラスに注ぎ入れた。

「じゃあ仕切り直しだな」

八城が傾けたグラスに琥珀色のグラスが打ち付けられ「カンッ」と子気味良い音を鳴らした。

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