第96話 鬼影3
「ありゃりゃ?貴方みたいな餓鬼に、何で私が呼び捨てにされているのかしら〜」
雛の声で振り向いた一華に驚いた様子は無い。
「なんで?あなたが……ここに……いるんですか?」
その質問をすると同時に、雛は刀を抜いた。
「はぁ〜いやだわ〜此処は本当に物騒なんだから〜そんな物突き付けられたら怖くて喋れないじゃないの〜」
「いいから……答え……て」
いつもより研ぎすまされた感覚にも関わらず、何故だろう、この女の前だと早く逃げなければいけない気がしている。
「もう、それを降ろしなさいな」
その声は最終警告だと分かる低い声、だが雛も引くわけにはいかない。
「無理です……答えて下さい……何でこの場所に居るのか……」
野火止一華は、一向に降ろさない刀の切っ先を見つめ、その表情を暗転させた。
「人様に獲物向けて、偉そうに聞いてんじゃねえよ」
凍り付く声が響いた直後、腕から手首に掛けて凄まじい衝撃が襲った。
胴、脇、背中そして顔に熱を伴う痛みが駆け巡る。
殴られたのだと気付いた時、雛はすでに地面を転がっていた。
「はぁあい!一丁上がり!本日の料理は!!少女の姿揚げぇ!」
「くっがっぁぁ……」
背中から地面へたたき落とされた雛が霞む視界に捉えたのは心底楽しげに笑う一華の姿。
「痛い?ねぇ?痛い?痛そうだね?痛いよねぇ?」
一華は自身が拳を打ち込んだ箇所を、次は執拗なまでに柄で押し込んでくる。
無邪気に純粋に、暴力を楽しむ姿は誰の目から見ても狂気を纏っている。
「はぁい〜痛かったら、私に分かる様に!右手を上げてくださいね〜」
「あっグウゥううっあああああっぁぁあ!」
雛は一華の手を振り払い、痛む身体を無理矢理に立ち上がらせた。
「おっっと!こりゃびっくらこいた!おやおやおや!おんや〜?もしかして、あれ!もしかして!怒ってる?」
荒い息づかいで睨みつける雛の形相は一華にとって友好的には見えない。
「でもさ!貴方が悪いんじゃないの?急に抜いたら、そりゃ誰だって怒るんじゃないかしら?私、間違った事言ってないわよねぇ?」
雛には一華の言葉など届いていない。
雛を今支配しているのは、純然たる痛みと恐怖。どうにかしてこの場から脱出しなければ……
だが雛の視線が一瞬後ろの扉に映るのを一華は見逃さない。
「逃さないわよ?」
耳元で囁かれたのだと気付いた。
雛の視界はまたも、反転し、次の瞬間には、強かに背中を地面に打つけた。
「おはようから!おやすみまで!こんばんわ!野火止一華です!なんちゃって!」
馬乗りになった一華は桃の顔に自身の顔を近ける。
息がかかる距離、雛は空気を求めて口を動かすが、上に乗った一華の重みで、吸える空気が乏しい。
意識が薄ぼやけ始めた雛の唇に、柔らかな感触が添えられた。
「やあやあ!人が話をしている時に寝るなんて!お姉さんのお話はそんなに退屈だったかな?ちょっとお姉さん、ショックだぞ〜」
一華が口移しで入れた空気で、雛の意識が無理矢理に引っ張り上げられた。
雛はその所行に半泣きになりながら唇を擦る。
「なっ、何なんですかぁ……あなたぁ……」
「最初からそうやって聞けば面倒な事はしなくてすんだのに!大損だ!損害賠償だ!民事訴訟だぁあ!」
一華はピョンと雛の上から退くと屋上から山並みに向かって叫び出した。
この光景を誰が見ても混乱を禁じ得ないのは雛の目から見ても明らかだった。
子供の様な行動と、言葉に真意の分からない瞳は、その出会って来た人間に不安しか与えないだろう。
「そういえば、あなた名前は何て言うの?」
興味を示した瞳は、子供の様に澄んでいる様にも見えるのが不思議だ。
ただ何より野火止一華の機嫌を損ねてまたいたい思いをするのも雛には堪え難い。
「篝火雛……です……」
「雛?おやおやぁ〜貴方の親鳥はどこにいるのかしら〜?」
何処までも人を小馬鹿にしたような言動は強者故の特権なのだろう。現に雛はその言葉を甘んじて受け入れるしか無い。
「今は八城さんの元で……訓練をして!やめてぇ……もう……キスしないでぇ……」
雛はまたもや近づいて来た一華にキスをされると思い口を背ける。
だが一華が興味をくすぐられたのはそれでは無い。
八城
その言葉を聞いた瞬間、野火止一華の瞳が揺れ、雛の胸ぐらを掴み上げると吐息がかかる距離に顔を近づけた。
「ねえ、もう一回言ってくれるかしら?私今、聞き覚えがある名前を聞いた気がしたのよね」
「やっ八城さんが私達の……訓練教官をして……あぐっぅ」
名前を聞いて満足とばかりに、雛をポイッと投げ飛ばす。
「やしろね!やっぱりやしろが居る!やっぱり八城よねぇ!あの子は私の最高傑作なんだから!今にして思えばそうよ!やっぱり中央を出て行く時、一緒に連れて行くべきだったのよ!」
独り言、雛の事など眼中にない。刀を向けた事が気に食わないという事はあっても、それが脅威ではないと証明する様に一華は無防備な背中を雛に向けてみせた。
「八城さんは連れては、行かせないです……」
「へ〜八城は貴方のものなのかしら?」
その問いかけに応えられる者は居ない。
その問いに答えが出せるのは八城を置いて他には居ないだろう。
「そもそもね、東京中央に八城が居る事がおかしいじゃないかしら?」
「何を……言っているん……ですか?」
「中央を作った人間が中央に使われてるのが、おかしいって言ってるのよ。だってそうでしょ?私と八城で、東京中央を使う為に作ったのに、中央に使われるなんて、何処までも私達を小馬鹿にしていると思わない?」
不穏な問いかけは
雛は知る事になる。
「八城には重要な秘密がある」
それはあの怪しげな紙に書いてあった通りだ。
だがこれは知らなくとも良かった事なのかもしれない。
知らなければ雛は元の訓練生として遠征隊として、中央に所属していたに違いない。
だが、知った雛はもう戻れない。
告げられた真実は理解するよりずっと悪辣で、だから雛は一華の方へ手を伸ばす。
「貴方は何故裏切るの?」
かどわかす野火止一華の言葉は、雛の耳には歌う様に響いた。
「八城さんに助けられたから、八城さんを助けたい」
それは嘘偽りの無い言葉。
「どんな犠牲を払っても?」
「どんな犠牲を払っても」
言葉にすれば、最初から雛の思いはこの一点に集約された。
野火止一華は篝火雛と契りを交わす。
一粒の赤い丸薬を手渡される。
雛の脳天を突き抜ける酸っぱさが舌を侵し次第に視界がぼやけ始めた。
「これからよろしくね、篝火雛ちゃん。」
その声を残して美しい鬼の影は屋上の奥の扉へ消えて行った。
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