第84話 真壁桜2
その晩
「隊長少しいいですか?」
八城は食堂でいつも通りの簡素な食事を終え、全員が部屋に戻ろうと歩き出した時。
一番後ろを歩いていた桜に珍しく声を掛けられた。
「どうしたんだ?」
立ち止まった桜に三人が振り返る。
特に紬は昨日負けたカードゲームの続きをやりたいと八城の裾を引く。
「立ち話をしている暇はない、八城君も桜も早く戻る、今日は、昨日の様にはいかない」
「ちびっ子は私と勝負だ。桜は大将と話があるんだ、野暮は無しだぜ」
時雨は何かこの桜の行動について多少の事情を知っている様子だ。
「別にわざわざ何処かに行かないで、ここで話をすれば良い。それから私はちみっこじゃない」
「頼むぜちちみっこ!桜にだって大声で言えねえ事の一つや二つ、あるってもんだぜ。紬にだってあるんじゃねえのか?」
紬は少し考えに耽り時雨へ視線を上げる。
「……一理ある。分かった部屋で待ってる」
納得はしていないが、理解はしたようで、紬は時雨と連れ立ってその場を後にした。
残された八城は改まった桜を持て余す。
「場所、移すか?」
「その方がありがたいです」
いつもでは考えられない桜の大人しさ、緊張しているのか、いつもなら強気な視線と打つかる時間も今日は殆ど八城の目を見ていない。
当然だ、妹である桃が裏切り者と疑われ、姉である桜が心配するのは当然だろう。
だから場所を移し、海岸線に来た時の一言の目に、八城は面食らった。
「八城さんは好きな人居ますか?」
八城が想定していた斜め上の話題に天を仰いだ。
「お前……とうとう紬に精神を壊されたか、俺がもっと早く、気付いてやれてれば……」
「別に頭がおかしくなって聞いてる訳じゃないですから!ただちょっと、昨日今日と、その話題になる事が多くて」
八城は内心以外だと思っていた。
まさか桜に恋愛話をして恥ずかしがる感性があった事に。
「お前今日時雨の訓練を手伝ってたんだよな?お前らは、仕事中に何の話をしてるんだよ」
「ちっ、違うんですよ!篝火さんは、八城さんの事が好きで!紬さんも八城さんの事が好き。だから時雨さんに聞いたんです。人を好きになるってどんな気分なのかって!そしたら……」
尻窄みになる桜の声から結論が分かる。それも碌でもない結論だろう。
「お前それは聞く人間を間違えたな」
何の話題を出されたのか、顔を真っ赤に染めて頬の熱を逃がそうと両手を当てる。
「私もそう思いますぅ……」
仮に時雨がまともな答えを持っていたとしても、それを桜に対して、素直に言う事は無いだろう。
「それで消去法の結果、今居る人間で最後に残った相手が俺だと?」
「はいぃ……」
海向こうから強い風が吹き抜け二人の前髪を揺らす。
星明かりの下に佇む二人は、どちらも見る事をせず只真っ直ぐに水平線の向こうを眺めている。
茶化せる雰囲気ではない、本当に困っているからこの場所に八城と立って居るのだろう。
だから八城は慎重に言葉を選ぶ。
「何で今更そんな事が気になったんだ?」
「正直分からないです。でも、時雨さんは誤魔化しましたけど、時雨さんも知ってるんだと思います。」
桜のこれはきっと余裕から来る疑問なのだろう。
戦い、傷つき、逃げ、失い、這いずり回ってようやく平穏に近い場所に居る。
それでようやくもたらされた、精神の余裕が、桜の心に僅かな疑問を落とした。
僅かな衝撃は、次第に大きなずれとなり、それはたちまち桜の好奇心を揺れ動かす。
「私これまで人を好きとか、恋とか分からなくて……まぁ、今も分からないですけど……」
こんなにも戸惑う桜を初めて見た。
分からない事が不安で、その不安を共有出来る人間が居ない事も桜にとって不安なのだ。
だが八城には根本的に分からない事がある。
「それを知らないと、桜にとって何か問題があるのか?」
八城の問いに桜は気まずげに目を伏せる。
落ち込んでいるのか、はたまた恥ずかしがっているのか八城には分からない。
「多分ですけど。もしも……こんな世界じゃなかったら、私も普通に恋をしてたのかもしれないですし、でも逆に言えば今それを知らないって、私普通じゃないのかなって思ってしまって」
「桜は普通になりたいのか?」
「どうなんですかね……昔は特別になりたかった気がします。多分今もその気持ちは変わらないと思うんですけど。駄目ですね、私上手に言葉が出て来なくて」
「仕方ないだろ、誰だってそうやって言葉に詰まりながら生きてんだ。ペラペラ喋る奴なんて、碌な奴が居ないからな」
桜が言ったようにこの状態は普通ではない。
心の成熟が何かを経験する事であるのなら、この世界で心の成熟は見込めないだろう。
「多分私は知りたいんだと思います。恋が何なのか」
桜の事を知らない十人が聞けば、その十人は笑うかもしれない。
だが桜という人物を知る八城は笑えなかった。
四年間で大きく乖離した現実が、その言葉を本当の意味で笑えない物にした。
八城に答えないという選択肢は無いだろう。なら自分の言葉と経験を言葉として連ねるしかない。
「俺も正直知り尽くしてるかって聞かれたら、素人も素人なんだろうけどな。昔、良さんに、どうして奥さんと結婚したのか聞いた事があったんだ」
八城はその時の言葉を思いだしその言葉をそのまま言葉に吐き出した。
「俺のかみさんは、とにかくおっかねえんだよ。でもよ?俺はどんな別嬪よりも冴子がいい。八城、何故か分かるか?」
八城はその時に理解できない顔をして、その顔をみて良は心底楽し気に笑っていた。
「分かんねえか?仕方ねえさ。でもな、俺は昔、全部守りたかった。この世界じゃ零す物の方が多すぎてその感覚がおかしくなっちまう。でもよ、それでも。俺自身が、この世界から零れたとしても、冴子と俺の娘だけは、零してやらねえって思っちまった。他の優先順位が下がったわけじゃねえ。ただ二人の優先順位が高すぎるだけだ……話が逸れたか?まぁ結婚した理由は単純だ。俺の命より冴子と子供の優先順位が高いからだ」
今一度、その言葉を思い返し、八城の胸は過ぎていった命の残滓に締め付けられた。
「優先順位ですか……」
「良さんは言い方に癖があるからな、多分大切って事だろ。ただ、お前は直ぐに自分の命を投げ出すからな」
「別に私、死にたがりじゃないですよ!」
「違う。死にたがりじゃなく、お前は計算が足りないんだよ。この敵と戦ったら死ぬかもしれない。この人を助けたら自分が危ないかもしれない。そんな計算だ」
八城は微かだが、桜には知識としての恋が必要だと思ってしまった。
恋とは言い換えれば、他者への愛。
そして自己愛を持ち、それらを計算の天秤に掛ける。
その点、良はその事をよく理解していた。
自分の命の重さ、そして他人の命の重さを明確にしていた。
言い換えるなら、天秤が相手に傾けば良の様な結論に至り。
自己に傾けば八城がよく知る光景になる。
自己愛の無い恋は、只の依存でしかないだろう。
つまるところ恋を知る為には、自身の価値を自身で見つけだし、それを育まなければ恋愛は成立し得ない。
「計算って!他の人の方が大切に決まってるじゃないですか!私達は遠征隊なんですよ!だから八城さんだって多山大39作戦の時子供を助けに行ったんじゃないんですか?!」
痛い所を突かれた。
だが八城にとって、八城の命は無価値に等しい。
「それがおかしいんだよ、そもそも俺達は、自分の命を大切にしなけりゃいけない筈なんだ。遠征隊って肩書きだけで、命を揺らされてんじゃ、お前は所詮死にたがりのままだろ」
八城にとってこのタイミングで桜が恋について知りたいと言い出したのは、むしろ好都合だったと言える
「そんなのって……」
「いいか桜。お前は人に助けられてる。きっとお前は、お前自身が命を救われたって思う事が無いから戦いの中で、自分の命に無鉄砲でいられるんだ。それは確かに強いかもしれないが、そうなれば最後お前は息を切らす暇も無く死ぬぞ」
「それは隊長だって同じじゃないですか!隊長だって死にたがってるようにしか見えませんよ!」
「それでもお前は計算が足りないんだよ。お前は計算をせずに突っ込んで行くだろ」
「それでも結局は隊長と一緒ですよ!」
桜の言いたい事は分かる。
計算をして死を選ぶ事と。
計算せず死を迎える事。
結論として、命を落とすのならそれは何が違うのかという事だ。
「そんなの自分可愛さに臆病風に吹かれて、動かないだけじゃないですか!」
「それは違う桜。お前は生かされた分はどう足掻いても生きなきゃいけない。それはお前以外の人間から、お前の為に繋がれた命だ。お前が仮に無駄に死んだ時に無駄にするのはお前の命だけじゃない!今までお前に繋いで来たその全ての命を無駄にするんだ!だからお前には計算が居る。お前がお前の為に繋がれた命を、引き換えにしてまで助けるに足る物なのか!相対して、考えて、前に動く事を、お前自身が出した結論なら文句は無い!だがな!俺達はもうとっくの昔に一人じゃ生きて行けないんだよ!お前は今も誰かにその命を繋がれて生きてるって事を忘れるな!」
それは八城も同じ、だが決定的に違う事。
死にたがりの八城
死に無自覚に近づく桜
二人を大きく分けるものは何か?
その答えを八城は昔に紬の前で口に出した事がある。
「だけどな、俺は違う。俺は計算をして、それでも誰かが死ぬ所を見るぐらいなら、自分が死んだ方がマシなんだよ……」
「でもそんなの仕方がない……」
「ああ!仕方ない、俺はそう言って目の前でどれだけ……」
それは四年間で見て来た光景の数々。
地獄という言葉が、生温い光景が今でも八城の脳裏に焼き付いて離れない。
その悔恨が八城の天秤を傾かせたままにしていた。
「隊長?」
桜の怯えた声を聞いて、ようやく八城は感情を抑える事が出来た。
「桜、お前は経験を知って、知識として知って、その時に、俺と同じ結論にならない事を祈っている。俺は知って……それでも向き合えなかった。お前は違う。いずれお前の好奇心は答えに辿り着くだろ。その時お前には俺と違う物を選んで欲しい」
雲間から月が顔を出し、波打つ水面に揺蕩って、八城の影を作りだす。
直感だったのか確信があったのか、桜は脳裏にを掠めた言葉を口にする
「隊長は死ぬ気なんですか?」
その声が静かにそれでいて鮮烈に八城の鼓膜を打った。
八城は此処に来てようやく桜に振り返る。
久しく見る桜の表情は怒っているようにも、悲しんでいる様にも見える。
「今の所死ぬ予定はない」
「私これでも、真面目に聞いてますよ」
「怒ってるのか?」
「隊長が私に怒ってくれるからです」
八城にとって桜は大切な存在だ。
それは隊員という括りを超えた物でもある。
今は手元に無い一振りの刀
桜が八番隊に配属になったのは、八城の持つその一本が大きな要因を占める。
「桜、お前は俺より多くの人間を救えよ」
「何ですか急に……」
雪光その武器はこの世界で、唯一と言える性能を持つ。
雪光を持つ事は、即ち八番という存在その物に他ならない。
「だってそうだろ?お前は今ようやく、他人の価値を知ろうとしてる。そうなれば遠くない内に、自分の価値を知る事になる。そうしてお前が仮に恋なんて物を知って、改めて自分の価値も知った時」
楽しみだ、八城は楽しみで仕方ない。だが同時に残念でもある。
だってそうだろう、きっと桜ならやり遂げる。
多くに囲まれ桜はきっと今の八城より先に進んでいく。
「桜、お前なら任せられる」
「何……言ってるんですか?」
八城は大遠征時桜に会ったのはそれで二回目だ。
もうそこまで来ている鬼の気配に気付いて八城は後継を探した。
剣術に長け、尚かつ雪光を正しく使う事の出来る人材を
「今日はお前の事を知れて本当に良かったよ」
八城は水平線を見て大きく伸びをする。
その姿がもどかしくて桜は声を出さずに居られなかった。
「隊長は居なくなるんですか?」
「おまえが一人前になるまでは居るさ」
その言葉は八城から違和感なく返ってきたが、それが逆に桜にとっての違和感だった。
「ならずっと居るって事で大丈夫そうですね」
八城は苦笑いを浮べながら桜を見返した。
「だって私八城さんが居る間は、私ずっと半人前ですから」
「お前……やっぱり、馬鹿だろ?」
「馬鹿って何ですか!馬鹿って!あれ?そう言えば上手くはぐらかされましたけど、結局八城さんって好きな人が居るんですか?」
「教える訳が無いだろ」
「え〜あ!でも!紬さんなら何か知ってそうですね!急いで部屋に戻りましょう!」
天真爛漫に笑う桜につられて八城も笑みをこぼした。
ああ……本当に残念でならない。
桜がきっとやり遂げる姿を、八城がその目で見る事は無いのだから。
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