第33話 風化
一日に人が歩ける距離はおよそ三十キロ。
それ以上を歩くと次の日に支障が出る。片道二十数キロ歩いた面々の足は限界が近かった。
というか無理だった。
八城たち八番隊は、もっとも近場にあった8番街に立ち寄り、厚遇を受けていた。
「まさか!八番隊が来て下さるなんて!どうぞ今日はゆっくりして行って下さい!」
受付のおっさんは八城を見るや否や、抱きつかんばかりに近づいて歓迎の言葉を掛けてくる。
89作戦はこの8番街と9番街の間を住民の移動の護衛が作戦内容の九割を占めた。
その中で英雄視されていればもちろん歓迎されるのも納得だ。
「八城君……私は先に寝る」
時刻は十七時
紬はすぐさまベッドに潜り込み、数秒後にはうんともすんとも言わなくなる。
ここに来る途中、あの孤児院を見かけた。
紬は89作戦時、八番隊の仲間の隊員を七人射殺する羽目になった。
あのブレードに貫かれた者。
腕を切り飛ばされた者。
僅かに浅く皮膚を切られた者。
それら全ての者が奴らへと変貌した。
そしてその隊員たちが他の隊員を襲う前に、紬はその引き金を引いた。
紬は最後の一体が立ち上がらなくその時まで引きがねを引き続けた。
スコープ越しに見える世界は悪夢の様な現実であると、銃弾の一線の煌めきが、身体に伝わる振動が、何より倒れ臥して行く仲間たちの姿が紬に伝えていた。
これが現実に起こっているのだと。
八城は紬が発したあの時の言葉を忘れる事ができない。
「ごめんなさい仲間を……私が撃った……」
泣きながら縋り付く紬に俺は何も言葉を掛ける事が出来なかった。
今も紬は、撃ち抜いた元八番隊の亡霊に、後ろ髪を引かれている。
夕暮れ時、八城は紬が寝息を立てたのを確認して89作戦最終防衛ラインになった孤児院に向かった。
道路には停車されたまま動かない車。
その上から砂埃が溜まり、苔が生えている。
どれも見慣れた光景だ。
その隙間を抜けながら最終防衛ラインのバリケードがそのままにされた場所を潜り抜ける。
そして目的地に到着した。
孤児院にしては豪奢な作りだ。
元々が違う建物からの借受で、急造された場所だったらしい。
この場所に来れば何か分かるかもしれないという淡い期待を持っていたが、やはりと言うべきがそんな物は微塵も分からなかった。
だが、思いだす事は出来た。
八城の脳裏には今も鮮明に焼き付いている。
木の影。
瓦礫の上。
放置された車の脇。
うめき声と血の匂い。
住人の救助という名目の元が。数多くの隊員がその命を散らせていった場所だ。
「大将、何してんだ?」
その場所に立ち尽くしていると、後ろから声が掛かる。
「なんだ?付いて来たのか?時雨?」
八番隊で八城の事を大将と呼ぶのは時雨ただ一人だけだ。
「一応な。うちの大将はどうも隊員を信用していないみたいだからな。置いていかれたらかなわねぇよ」
何処か刺のある言葉、だがここはしっかり否定すべきだろう。
「お前たちを、信用してない訳じゃ無い」
「はは!面白い事言うじゃねえか!ついこの前私たちを置いて行ったのはどこのどいつだよ!」
それは、多山大39作戦の事を言っているのだと八城にも分かる。
テルにも雪光の染みの事で聞かれた作戦名。
これは先日大学内に取り残された子供たちを救助した時の作戦名となっている。
多山大は大学名。
39は、この作戦に参加した人の数だ。
「俺は別にお前たちを信用してない訳じゃない」
「じゃあどういう理屈だ!信用してる人間を置いて作戦に出たのか?それは筋が通らねえなぁ?」
時雨の言う通りだ。信用しているなら置いて行く事などしないだろう。
「私はなあ!置いて行かれるのが大嫌いなんだよ!てめえもよく知ってんだろ!」
時雨は八城の胸ぐらを掴み上げる。
あの時、時雨は自分の隊長に一人居住区に置いて行かれ、住民を守るため一人無謀な篭城戦を強いられていた。
ならこの詰問は当然だ。八城は言葉だけを並べ立て、行動では真逆の事をしているのだから。
「すまない」
八城はその言葉を絞り出す事が精一杯だ。
申し訳ないとは思う。だがそれでも八城は目の前で死なれるよりはと思うのだ。
八城は確かめる様に右に差してある雪光を撫でる。
それは雪光を得た代わりに失ったものだ。
目の前で散る鮮血を誰も止める術が無かった。
目の前で力なく垂れ下がる腕が、
上手く言葉を紡ぐ事が出来ない唇が、
何より身体の下に広がる血溜まりが、
その命が長くない事を教えていた。
それを成した薄く笑うあの女を、八城は切る事も出来ずただ喚き散らした。
それ以上喋ろうとしない八城に苛立つ時雨は乱暴に八城を突き飛ばす。
「てめえ!すまねえで済むかよ!確かに大将!あんたはまだ立派さ!だがあの隊長と同じぐらい気に食わねえ!」
「じゃあどうする、抜けるか?八番隊を」
八城は八番隊を抜けるならそれでも良いと思っていた。
ただ雪光の秘密さえ守ってくれるのならという条件付きではあるが。
「は!抜ける?冗談だろ?大将まさかあんたからそんな言葉が出るなんてな!へへ、……上等だよ!」
時雨が腰の刀に手を掛けた時後ろから時雨に覆い被さる影がある。
八城は一瞬奴らかと思ったが違うと分かると、構えるのを辞めた。
「ストッ〜〜プです!時雨さん!駄目ですって!私が行くとか言って、出て行っておいて結局こうなるんじゃないですか!」
「離せ!こいつあな!結局のところ!ぶん殴ってやらなきゃわからねぇえんだよ!」
現れたのは桜だ。
多分ずっと教会の影から様子を伺っていたのだろう。
刀に手を伸ばそうとする時雨を羽交い締めにしている。
「お前ら……何やってんの?」
今まで張りつめていた空気が急に萎んでいく。
「八城てめえ!私たちを何だと思ってやがるんだ!」
八城はその答えをすぐに吐き出す事が出来た。
「大切な隊員だ」
八城は思ったままを口にした。これは正真正銘八城が心の底から思っている事だ。
「てめえは!白々しいにも程があんだろ!」
桜は時雨にそれ以上言わせないと、八城と時雨の間に身体を滑り込ませる。
「でも隊長は私たちの事本当に仲間だと思ってくれていますか?」
桜の不安気に揺らぐ声。
「思ってるさ」
その一言で桜の瞳は大きく見開かれた。
「じゃあ!じゃあなぜですか!なぜ、私たちに貴方の背中を守らせてくれなかったんですか!」
そういうことか、桜の悲痛な声を聞いてようやく理解する事ができた。
二人は多分こう言っているのだ。
何故私たちの事を何故信用しないのかと。
桜は配属先として、時雨は成り行きで八番隊に所属している。
二人を八番隊に繋ぎ止める物など、希薄なものだ。
「すまない。二人とも、この隊を辞めたいなら俺から柏木に……」
「違います!私たちはそんな事を頼んでいません!」
桜は一歩八城に踏み込む。
「私は別に隊長に不満がある訳ではありません!」
桜は瞳を潤ませながら、もう一歩八城へ近づいていく。
「隊長は強いです!私たちを守ってくれもします!」
更に近づく桜。
「それに隊長は私たちを大切にしてくれて……でも!」
八城は近づいてくる桜か一歩下がろうとしてしまう。
だがギリギリの所で踏みとどまった。
ここで下がってはいけない。そう感じたからだ。
「隊長は本当に私たちの事を仲間だと思ってくれていますか?隣に立つに足る仲間だと、本当に認めてくれていますか!」
二人の瞳はそれが聞きたいと、八城を見つめている。
仲間。
その単語が耳を打つ度に一人の人物が頭をよぎる。
不適な笑い。
長い黒髪。
高い身長に、低い声。
出鱈目な刀さばきに見合わぬ暴力的なまでの強さ。
女とは思えない粗暴な振る舞い。
野火止一華
八城が一華と背中を合わせ戦った日々は、まさに怒濤の一言に尽きる。
だが背中を合わせるのに、あそこまで心地の良い相手も居なかった事も確かな事実だ。
そう思える程、野火止一華という女は強かった。
だからだろうか、ここに居る二人がどうしても霞む。
それは紬に対しても同じ事だ。
あの女は殺しても死なない。
決して散らない華。
一年中咲き誇り、その強さを持ってして、他の華を散らしてゆく。
恐ろしく、
美しく、
そしてどんな華より醜悪な華だ。
だからこの二人について、八城がどう考えているか。
答えは一つだ。
「分からない」
その一言に桜は唇を噛み、時雨は再度柄に手を掛けた。
「じゃあこれだけは答えて下さい。隊長はここに何をしにきたんですか?」
桜は再度質問する。
「俺はここに……何をしに来たんだろうなぁ」
八城は全てが、どうでもいいと言いたげに教会を見上げた。
本当に分からないと言いたげな八城の様子に桜も時雨も眉根を寄せる。
「大将。ここは何の場所なんだ?」
もう敵意を向ける事を辞めた時雨は八城の様子を伺いながら質問した。
「ここは89の時の最終防衛ラインだった場所だ」
八城がそうポツリと呟いた瞬間、桜と時雨は痛ましい表情を浮かべる。
だが時雨はそれでも八城に踏み込んだ。
「なあ大将?良かったらその話を聞かせちゃくれないか?」
「ちょっと!時雨さん!」
桜はすかさず止めに入る。
だが時雨はそんな事を気にする様子は無い。
「分かってる。ここに近づいた時の紬のあの様子だ。その、89が普通じゃねえのは重々承知の上だ。だがもし大将が話す気があるなら、私たちは聞かないといけねえんじゃねえか?昔の先輩の事ぐらいはよ」
「そっそれは……」
桜はちらりと八城の様子を確認してくる。
大した話ではない。隠している訳でもない。
だがそうか、確かに今の八番隊はこいつらだ話しても悪い理由はないだろう。
「そうかだな、お前たちには話しておこう。……89作戦あれは9番街の住人を8番街に逃す作戦だったんだが……」
そう八城は二人に語り始めた。
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