第58話 優しい時間


 アグネスはあれから城を出てユリアン邸へ居を移した。世話になったレオや騎士団の騎士たちにお礼を言うために走り回って大変だったという。彼女に陰口を言っていた侍女を除いて一部の侍女は頑張ってと応援して送り出してくれたようだ。皆が彼女に対して悪意を持っていたわけではなかったらしい。


 ジークハルトはなかなか仕事の休みが取れず、マインツ国への出発まであと5日というところでようやく丸1日の休暇が取れた。

 休日の前夜、彼は仕事から戻るなりフローラの部屋へやってきて話す。


「フローラ、もしよかったら明日一緒に出かけないか? ようやく休暇が取れたんだ。」


「えっ!? いいんですか? ……その、お体を休めなくて大丈夫なんですか?」


 フローラはここのところ働きづめのジークハルトの体調が心配だった。マインツへ行く前に倒れてしまうのではないかと思うくらいに、彼の勤務が休みなく連日に渡って続いていたのだ。とはいえ誘われたのはとても嬉しい。


「大丈夫だ。それに私はフローラと一緒に過ごしたほうが癒されるし安心する。駄目か?」


 それを聞いて思わず笑み零れてしまう。彼の言葉が嬉しい。


「いえ、ジーク様さえよければ喜んでご一緒させていただきます!」


「はは。じゃあ、行きたいところがあるなら明日の朝聞かせてくれ。それじゃあ、今日は寝るよ。おやすみ、フローラ。」


 フローラがそう言うとジークハルトは嬉しそうににっこり笑って彼の私室へと戻っていった。

 ジークハルトと外出。どこがいいかな。あまり彼が疲れないような所がいいだろうな。街へはいつも行っているし1日歩き回るのは彼には負担かもしれない。

 そういえば王都の北に湖があったはずだ。フローラは王都へ来て以来、町の外へ出ることはあまりなかった。湖の傍でゆっくりと過ごすのであれば彼の負担も少ないのではないだろうか。


 そう考えて、もしかしたら却下されるかもしれないとは思いつつ、翌日夜明け前から屋敷の料理人であるアルノーに以前教えてもらったサンドイッチをせっせと作る。ついでに特製パンプディングも作ることにする。

 バスケットに自分で作ったサンドイッチとパンプディング、それと瓶に詰めた果実水を詰め込んで準備をした。


 朝ジークハルトが起きてきたので早速提案してみる。


「ジーク様、おはようございます。」


「おはよう、フローラ。随分早いね。ちゃんと眠れた?」


「はい、しっかり休ませてもらいました。ジーク様は今日の体調はどうですか? お疲れになっているなら無理せずごゆっくりなさってもいいのですよ?」


 一晩休んだら疲れがどっと出るなどよくあることだ。出かけられなくなるのは悲しいがジークハルトが倒れるのはもっと悲しい。彼には元気でいてもらいたい。


「ああ、大丈夫だよ。今日フローラと一緒にいれると思ったら楽しみで疲れなど吹っ飛んだよ。どこへ行きたいか決まった?」


 体調を懸念するフローラに彼は優しく笑って答える。そんな彼に恐る恐る昨夜思いついた行先を提案してみる。


「あ、あの、ジーク様さえよければ王都の北にある湖へ一緒に行ってみたいです。手前にある林の道もこの季節は紅葉こうようが綺麗だと劇団の仲間に教えてもらいました。どうでしょうか……?」


「へえ、いいね。ただ外はもう肌寒くなってきたから暖かくしておいで。」


「はい! では準備してまいります!」


 嬉しい! この王都へ来て以来、ジークハルトと二人で一日中どこかへ出かけたことなど一度もなかったからだ。ピクニックにはちょっと寒い季節になってしまったけれど、今日は天気もいいし大丈夫だろう。




 準備が終わりジークハルトとともに馬車へ乗り込む。オスカーに見送られ、馬車はゆっくりと走り出す。


 王都の見慣れた街並みを抜け北へ向かう。湖へ向かう道の向こうに林が見えた。あれが劇団の先輩が言っていた林か。遠くから見ても黄色と赤のコントラストが鮮やかでとても美しい。


「紅葉が綺麗だな。こんなにゆったりとした気分は久しぶりだよ。本当に来てよかった。」


 ジークハルトが嬉しそうに笑みを浮かべながら話す。


「ええ、綺麗ですね。わたくしもそんな風に言っていただけて嬉しいです。ジーク様と一緒にお出かけなんてとてもわくわくします。」


 彼の言葉が嬉しかった。そして彼と一緒に過ごせることでとても幸せな気持ちになった。


 他愛もない会話を楽しんでいるうちに馬車は林へと入る。林の木々はまばらで太陽の光が十分に道の上に降り注いでいた。

 窓の外を見ると赤と黄色の葉の隙間から日の光が零れて、まるでステンドグラスのように綺麗だった。ゆっくりと走っていた馬車が少しだけがたがたと揺れたが周囲の景色に見惚れていたため気にはならなかった。


 馬車は林を抜けようやく湖畔へと辿り着いた。2人は馬車を降り、柔らかな湖畔の砂利を踏みしめる。ところどころに枯れ葉が落ちていてそれもまた趣がある。

 頬に触れる少し冷たい空気は凛と澄み渡り、もうそう遠くはない冬の到来を告げている。

 目の前に広がる湖は静謐な水面を湛え、ときに上から舞い落ちてくる葉に波紋を広げる。その静と動の対比がとても趣深い。それはまるで別世界から切り取ってきたような幻想的な光景だった。湖の向こう岸にも赤と黄色の紅葉が広がり、その姿が湖面に鏡のごとく映し出されている。


「なんて美しいのかしら……。」


 フローラは感動のあまり思わず呟いてしまう。このような風景は領地でも見たことがない。人間観察の好きなフローラは人の多い町などにはよく出かけていたが、こういった自然に囲まれた場所へはあまり足を運んだことがなかった。


 フローラの言葉を聞いてジークハルトが優しく微笑み答える。


「そうだね、綺麗だね。マインツへ行く前に君とこんな美しい風景を見ることができてよかった。」


 ふと耳に入ってきた彼の言葉に胸が痛む。もうすぐ彼は居なくなってしまうのだ。でも暗い顔などしてしまってはせっかくの彼の心配りが台無しになってしまう。最後まで笑顔でいたい。


「ジーク様、少し歩きましょう。」


 そう言って彼とともに湖畔を歩き始めた。残りの時間を惜しむようにゆっくりと1歩1歩を大切に踏みしめる。すると肌寒い空気に触れ冷えてしまった手をとても温かいものが包む。

 はっと振り返るとジークハルトが優しい笑みを浮かべながらフローラを見つめ、そしてその手が自分の手を包みこんでいた。彼の掌から徐々に温かさが伝わってくる。


 そのまま二人で手を繋いでゆっくりと湖畔を歩く。渇いた地面を見つけ、そこに敷物を広げて座ることにした。バスケットを置きジークハルトに身を寄せるようにして座る。そしてまた手を繋ぐ。

 彼の肩に凭れ湖面を眺めながらフローラは話す。


「わたくし、最初はジーク様とこうして一緒に湖を見ることがあるなんて思いませんでした。他の何を犠牲にしても夢を叶えたいと思っていました。そのためには愛のない結婚も仕方がないと覚悟していました。でもジーク様に出会ってこうしてともに歩いているとそれがとても自然で、今は貴方のいない暮らしが想像できなくなってしまいました。」


 フローラの言葉を聞いてジークハルトがとても優しい声で答える。


「私もだよ、フローラ。君に契約を持ちかけたときにどんな気持ちだったのかも思い出せないくらいだ。なぜ君なしで平気で居られるなどと思えたのだろうと今となっては不思議に思うよ。」


「ふふ。わたくしたちお相子ですね。」


「ああ、そうだな。君を見つけたことだけは過去の自分を褒めたいと思うよ。」


 そう言って彼はフローラの髪にそっと口づける。




 太陽が真上に上ったころにフローラはバスケットの中身を彼に披露する。どこから見ても歪なサンドイッチとパンプディングであることは自覚していたが、味には自信がある。

 そう言うと彼は優しく微笑んで頷いてくれた。


「このパンプディングを食べると病院で君と過ごしたことを思い出すよ。すれ違っていたときも君はこれを毎日差し入れしてくれた。美味しかったよ、とても。優しい味がする。」


「そうでしたね。どうしてもアルノーのように上手にできないのです。自分がこんなに不器用だなんて……自覚していましたけど悔しいですわ。」


「君が作るものなら何でも食べるよ。これは本当に美味しかったしね。」


 そう言ってジークハルトがパンプディングを口へ運ぶ。


「あ、そうだ。またあーんしてあげましょうか。」


「ごめん、フローラ。それだけは遠慮するよ。あれをされると顔から火が出そうになる。」


 どうやら彼にとってはとてつもなく羞恥プレイらしい。羞恥に悶える彼を見るのが嬉しいのだが。


「残念ですわ。でもいつかきっとこの夢も叶えます。」


「君には夢がいっぱいあるんだね。」


 フローラが決意表明するとジークハルトが呆れたように笑う。


「ええ、あります。わたくしは欲張りだから全ての夢を叶えたいのですわ。女優になるという夢は叶えたので、あとはこの国で一番の役者になること、お芝居を観てくれた大勢のお客様の心を動かすこと、そして貴方を幸せにすること……です。」


 フローラは言いながら最後のほうで照れてしまった。本心なのだが口に出しているうちに恥ずかしいことを言っていることに気づいてしまった。


「フローラ……。」


 ジークハルトがフローラの肩に腕を回し抱き寄せる。その手はとても温かくて幸せが押し寄せてくるようだ。


「私も自分の夢を叶えるために最善を尽くすよ。君が暮らすこの国を守ること、これからずっと君とともに生きていくこと、そして君を幸せにすることだ。」


 ぱっとジークハルトの顔を見ると顔も耳も赤く染まっている。彼もどうやら恥ずかしかったようだ。


 それから二人で歪ではあるが美味しいサンドイッチを食べ、他愛もない会話をしながら午後を過ごした。


 今日という一日はとても優しい時間だった。帰りの馬車で彼に寄り添いながらほんの少し微睡む。そしてフローラにとってその日は一生忘れられない思い出となった。




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