第9話 薔薇のひととき
◆◆◆ <フローラ視点>
フローラは翌朝いつものように薄く化粧を施しダイニングに向かった。今朝はジークハルトはまだテーブルについていない。
(昨夜お帰りになるのが遅かったのかしら。……きっとわたしのせいだわ。)
昨日自分が襲われた事件のせいで遅くなったに違いない。そう考えるとジークハルトに申し訳なく思う。
しばらく待っていると、少し眠そうな様子で彼がダイニングに入ってきた。
「おはよう、フローラ。」
「おはようございます、ジークハルト様。」
ジークハルトは席に着くと、皿が並べられるのを眺めながら、いつになくぼーっとしているようだ。
(疲れているのかしら。最近毎晩お仕事から帰るのが遅いものね。わたしなんか一日好きなことをしているのに申し訳ないわ……。)
彼が仕事をしているときに、自分はやりたいことをやっていることに罪悪感を感じる。
(そうだわ! 今日は町には行かずにお屋敷のことをお手伝いしよう。いつもお屋敷の皆さんにはお世話になってるものね。たまには働かないと恩知らずだわ。)
そんなことを考えてふと気がつくと、彼がじっとこちらを見ていた。
(な、なんなの……!)
「フローラ。」
「はい、なんでしょう。」
「君の瞳の色は綺麗だな。」
「あ、ありがとうございます。」
ジークハルトはそう言って、また心ここにあらずといった体で朝食を口に運び始める。
(何かしら。口説き文句ってわけじゃないわよね。……変なジークハルト様。)
珍しく彼よりも先に朝食を終え、その様子を不思議に思い尋ねてみる。
「ジークハルト様、今日は食欲がないのですか? お仕事に出かけるお時間大丈夫ですか?」
「ああ、今日は半月ぶりの非番だ。全く王城の人間は人使いが荒くて困る。」
「そうでしたの。ではお体を休めてごゆっくりお過ごしくださいませ。」
そんな労いの言葉をかけ、彼が食べ終わるのを待ちながら窓の外を眺める。やはり心はお芝居のことでいっぱいだった。
(ユリアンさんには事情を話して毎日は来れないかもって言ってあるし、今日は行かなくても大丈夫よね。……でもこの先舞台に立つようになったら絶対にお休みできないわね。)
そんなことを考えているうちに、ジークハルトは長めの朝食を終え席を立った。それを見送ったあとオスカーに尋ねてみる。
「オスカー、今日は一日お屋敷のことをお手伝いしたいのですが、何かわたしにできることはありませんか?」
「お手伝いですか……。そうですね。では庭の薔薇の調子を見ていただきましょうか。庭園に東屋がありますので、そちらに紅茶でもお持ちしましょう。」
「それってお手伝いじゃないわよね……。」
「いいえ、薔薇の様子を見ていただけるとこちらとしては非常に助かります。」
オスカーはにっこり笑って答え、「後でご案内します。」と言ってフローラを部屋に帰した。
(なんだか全然恩返しになってないわ。ただでさえ秘密を抱えて後ろめたいのに!)
フローラは部屋に戻ると演劇雑誌を手に取って、しばらくそれを眺めることにした。
◆◆◆ <ジークハルト視点>
一方ジークハルトは朝食を終えたあと部屋に戻り、ソファで
(イザベラ……。美しい人だった。今日町へ行けばまた会えるかもしれないな。夕方くらいに町に行ってみようか。せめてどの辺に住んでいるかだけでも聞いておけばよかったか。)
長い黒髪と蜂蜜色の潤んだ瞳、美しい顔立ちに程よく豊かな胸と細い腰を縁取る魅惑的な曲線。見た目だけでなくイザベラの全てがジークハルトを惹きつけ、思い出しただけで胸が熱くなる。
同じ女性のことを2日と考え続けたことなどこれまでには一度もなかった。
会いたい。会って今度こそ彼女のことをもっと知りたい。これまでに経験したことのないほろ苦い気持ちを持て余す。
しばらく新聞に目を通した後、気分転換のためにバルコニーへ足を向ける。背伸びをしながらふとバルコニーの手摺りから下を見ると、フローラが薔薇を眺めながら庭園をゆっくりと歩いているのが目に入った。
(ああ、そういえば丁度今の季節は薔薇が見頃だな。たまには婚約者殿の機嫌でも取っておくか。)
そう考えて、屋敷から出たあと庭園で彼女の姿を探す。するとどこからか甘く耳触りの良い澄んだ歌声が聞こえてくる。
「~~♪ 薔薇より美しい~~♪ 君を攫いたい~~♪」
その歌声を辿りようやく彼女の姿を見つける。だが歌声の主は自分のことになど全く気づかず、薔薇を眺めながら気持ちよさそうに歌い続けている。そしてその瞳は庭に咲き誇る薔薇を映し、はっとするほど美しく輝いていた。
その姿を見て思いがけず息を飲む。薔薇の香りを嗅ぎながら散策するフローラを見ていると、ぎゅうっと胸が締め付けられる。……なんだろう、この感覚は。
うっとりとその歌声に聞き入ったまま見つめていると、ふとこちらを向いた彼女が彼の存在に気づいて歌を止めてしまった。彼女は大きく目を見開いて、こちらを見て固まってしまう。
「ジークハルト様……。いつからそこに?」
「あ、ああ、ほんのさっきだ。君はなかなか歌が上手いな。声をかけようと思ったんだがつい聞き惚れてしまったよ。」
「恐れ入ります……。あの、ジークハルト様は歌が好きなのですか?」
「ああ、嫌いじゃないよ。美しいものは何でも好きだ。音楽も絵も芝居も。」
「そうなんですか! わたしも大好きなんです!」
フローラはそれを聞いてぱぁっと笑い、その美しい蜂蜜色の瞳を潤ませ頬を上気させる。不意に見せられた年頃の少女らしい輝くような彼女の笑顔に思わず見惚れてしまう。
いつも彼女は表面的な笑顔しか見せないのに、こうして笑うとまったく地味なんかじゃない。いや、むしろ……。
ジークハルトがじっと見ていることに気づいたからか、彼女は輝くような微笑みをさっと消していつもの笑顔に戻った。それを見てさっきの笑顔をもっと見せてほしかったと、とても残念に思った。
◆◆◆ <フローラ視点>
(不覚だわ……! つい素が出てしまった。お芝居のことになるとつい興奮してしまう。こんな不用心なことを繰り返していたらイザベラであることがいつばれてもおかしくないわ。もっと慎重にならないと。)
改めて自らの行動を省みてぞっとする。
(もし仮に……ジークハルト様にわたしがイザベラであることがばれてしまったら……。女優をすることがばれてしまったら……。きっと侯爵である彼にはお許しいただけないわ。わたしは職業婦人自体はとても尊敬するけれど、侯爵の婚約者が女優だなんて古い貴族の慣習では絶対忌避されるもの。もしそんなことになったらきっと婚約破棄されてここを追い出されてしまうわ。そしてジークハルト様とももう……。)
そこまで考えてやはり秘密は貫き通さないといけないと改めて決意を固くする。
そのあとしばらく二人で薔薇を眺めてから東屋に向かい、オスカーの持ってきてくれた紅茶を口にしながら再び薔薇を眺めて、ジークハルトとともにゆっくりとした午前のひとときを楽しんだ。
「ジークハルト様は午後はどうされるのですか?」
「ああ、私は少し体を休めたあと夕方くらいに街へ出ようかと思う。」
「街……ですか。どうぞごゆっくりなさってくださいね。いつもはお仕事がお忙しいんですから。」
「おや、心配してくれるのか?」
「あ、当たり前です! 大切な婚約者様ですもの。」
そう切り返されて恥ずかしくなってしまい、赤くなっているであろう様子を見られないように顔を背ける。そんなフローラをジークハルトは優しい微笑みを浮かべながらじっと見つめていた。
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