◇ 06
帰り道は、テルーナが背負ってくれた。
視界は相変わらず真っ暗で、図書館に着く頃には全身が怠くなり、喉が絞められているような、ヒュウ、ヒュウ、という音が口から出るばかりだった。
「──風邪ね」
勝手に外出した事を責められるのは私だけでいい、と妙に恰好よく叱られに向かったリコルがウェルヤとテルーナに別室で説教を受けている間に、部屋のベッドに寝転がされたアオバを、まだ名の知らぬ色香溢れる女性は一瞥してそう言った。
「それ、て──ゲホッ、けほ……精霊の……呪いと、はっ……違うんです、か」
「違うわよ。風邪は、精霊と接触した時に、通常はある抵抗力が著しく低下する事で発生する病気よ。よく食べてよく寝れば大抵は治るわ」
へぇ。と相槌を打ちたかったが、丁度がさついた喉に飲み込もうとした唾が引っかかり、咽返ったせいでそれは叶わなかった。近くにはアティもいるらしく、声変わりが始まったばかりの掠れた声が呆れたように呟く。
「聞いたところによると、旧都王城で精霊に池へと引きずり込まれたんだって?」
「うん……」
そもそもの話だけど。と、女性が静かに怒りながら切り出した。
「土砂降りの雨の中外に出てるから、体温は下がってるのよ。その上、池に落ちて濡れた体そのままで、大量出血して、よく寝ようともせず、安静にしないでウロウロ、ウロウロ……治す気あるの? 馬鹿な真似して悪化した患者とか、診る気が失せるわ」
「すみません……」
返す言葉が無い。掛布団を喉元まで引っ張り上げて、どうせ見えもしないのに布団にもぐって顔を隠す。
「ま、まぁ……病人相手だ。説教は治ってからでも……」
「治す前に死にそうだから言っているのよ。この手の性質はね、『自分の身を犠牲にして周囲が幸せになれるならそれで構わない』って本気で信じてるのよ」
尻込みをするアティに対し、女性は止まらずに続けた。苛立ちながら、指先でシーツを小刻みに叩いている振動が、肩の辺りに伝わる。
「それをされた方の良心が、どれだけグチャグチャになるかも知らないで……」
女性がため息をつくと、シーツに伝わっていた振動が止まり、代わりに食器類を接触させるようなガチャガチャとした音が響き始める。何だろうと思っていると、女性は怒りが収まらない様子のまま、変わらず静かな口調で言った。
「アンタの今の状態、簡単に説明するわ。まず、氷の精霊に呪われているわね」
「氷だったんだ……」
なら、やはり池に引きずり込まれた時に周囲が凍ったのは、アオバを呪っている精霊の力だったのだろうか。
「ただし、呪いの進行度合いは、昨日と変わっていない。風邪の要因となっているのは、体を冷やし過ぎた事、食事量が少なすぎる事、それから体力の消耗で抵抗力が落ちて呪いが進行したように見えているだけ。体力付ければ耐えられる状態にまで戻るから、実質風邪よ」
呪い云々の話しを抜きにしても、確かに普通の風邪のように聞こえる。気は進まないが食事量を少し増やしておこうかと、うすぼんやり考えていると、ゴリゴリと石臼ですり潰すような音が部屋の中に響き始めた。
「……何の音ですか?」
「薬の調合。在り合わせで作るから解呪までは無理だけど、押さえ込むぐらいはできるわ」
「そ……っゴホ、ごほ……ッ」
色々疑問を聞き返そうとして、咳き込んだ。今日だけでも三回も水の中に落ちているせいか、喉に影響が出過ぎている。
「あとこれは別の精霊によるものだと思うけど……喉の奥に傷が出来ているわ。詳しく確認できていないけれど、内臓にも傷が入っているかもしれない。……ああ、呪いにまでは至っていないわ。ちょっとじゃれついたって程度ね。普通に怪我の扱いになるから、治るわよ」
祭壇で精霊と顔を合わせた際、吐血した原因だろうか。存在しているという、ただそれだけの事実だけで圧倒されるのに、あれでじゃれただけだというのが恐ろしい。そんな存在と戦争をした人類が、生き残っているという事実もまた恐ろしい話だが。
「それから、体中にある傷は手当てしてある。痛み止めが切れたら薬が滲みて痛いでしょうけど、我慢しなさい」
「は、い……」
「左目は眼球を完全に取り出されているから、諦めてちょうだい。……右目は何したのか知らないけど、きわめて失明に近しい状態よ。もう一度見えるようにする方法は、無くはないけど……アンタのその精霊に怯えられっぷりを見ると、正直言って見込みは無いわね」
精霊を使って見えるようにする方法があるのだろうか。確かにそれなら、アオバには向かないかもしれない。と諦める当人の前で、アティが食い下がった。
「そう言わずに、試みてはくれないか」
「アンタと同じようにしろって? ……何も見えない方が、これ以上問題に関わらなくて済むかもしれないわよ」
「そうかもしれない。だが見えずとも……手から零れ落ちた者の悲鳴は聞こえる」
「幻よ、そんなもの」
返した彼女の声は、独り言のように小さい。それでもアティはきちんと拾い上げて、答えた。
「ああ、幻だ。死者の嘆きも縋りつく影も、俺には見えも聞こえもしない。だが、それを受け取ってしまう人は確実にいる。アオバはそういう性質だ」
間があって、囁くように女性はアオバの名を呼んだ。見えずとも、彼女が調合の手を止めてこちらに向き直っている姿が想像できる。
「治したい?」
「……はい」
「…………分かった。でも、期待しないで」
成功する見込みは低い。そう言いたいのだと察して、構わないと布団から顔を出して笑みを見せる。
「試行して頂けるだけでも十分ありがたいです」
「そう言うのは簡単よ。でも人は、言葉以上の成果を期待してしまうでしょう? 希望なんてハリボテで、その裏側は嘘で汚く塗り固められているものよ」
「それでもいいです」
「……」
「ハリボテでも、立って前を向くために縋るなら……それでもいいです」
嘘でもそれを支えに生きている人がいる。それを否定したくない。そんなアオバの掠れ切った声に、女性はかき消えてしまいそうな小さな声で「そう」と短く反応した。
ゴリゴリと、すり潰される音が再開する。粉が紙の上を滑る音、器具が机の上に置かれる音……一つ一つ音を確認していると、ふと女性が息を吸った。話し始める前の一呼吸だ。
「ソリュ」
「……ん……?」
「ソリュ=ケーミック。私の名前、まだアオバには言ってなかったと思って」
他の人たちにはもう伝えた後なのだろうか? 何はともあれ、これで彼女を指す時に『あの人』という遠まわしな伝え方をしなくて良さそうだ。
「花の名前なんですね」
「そうよ」
この場合は、人の名前と花の名称とは別々に処理されるのだろうか。狭い世界とはいえ同姓同名は有り得るし、それこそ花の名前なんてよく人名に使われるものだ。区分のために証明書だってあるのだから、同じ名前の人物が亡くなったからと言って花の名も呼べなくなるなんてことはおきまい。多分。
「あ。もしかして姉妹がいらっしゃるんですか? 確か、双子花……? の名前ですよね、ソリュとサ──」
続くはずの言葉は、口の中に押し込まれた咽く程の苦味で止められた。思わず吐き出そうとしたが、ソリュに「薬よ、飲みなさい」と淡々と告げられて、喉が拒絶反応を起こしているのを感じ取りつつ飲み込んだ。無理したからか、手汗が酷い。
「うぇ……っ」
「いるわよ。優しくて、大好きな双子の姉がね。でも、名前は呼んじゃダメなのよ」
追加とばかりに、再び同じ苦味が口の中に入ってきた。ちょっと嫌がらせのような気がしなくもないが、薬には違いないし、目が見えないアオバには彼女が薬を差し出すタイミングが掴みにくいのだろうと、やや無理のある納得をして苦いを通り越して酸味すら感じるそれを飲んだ。
「そういう決まりなの。私と先生以外、呼んじゃダメなのよ」
呼んではならない名前。それだけで、多くを察した。ソリュの姉であるサリャは、もう亡くなっている。
「す……すみません、知らずにズケズケと……」
「別に。……はい、もう一口。これで最後よ」
「あの……」
なんとなく目の前に薬を差し出されている事が分かり、そちらから顔を逸らしつつ聞く。
「この薬って、精霊が苦しい思いをしたりしますか……?」
「飲みたくないの?」
「そういう……のもちょっとあります、けど……呪われたのは僕が精霊の気に障るような事をしたからなので、あんまり手酷い事はしたくなくて……」
衣擦れの音がして、甘い香りが近くなった。ソリュが近づいたのだろうと想定していると、唇に硬くて冷たい物が当たった。視界は真っ暗闇で分からないが、鼻を抜ける独特の香りから、先ほどから口に詰め込まれている薬を盛ったスプーンだろう。
「他で処方されるものの中には、精霊の動きを縛る薬もあるわ。だけどそれは、用量をほんの一粒間違えただけで更に精霊の怒りを買う危険がある、取り扱いの難しいものよ」
でも今私が作ったものは違う。と、ソリュは続けた。
「在りもので作ったから、効果は薄いけれど……これは精霊に満足して体から離れてもらう為のものよ。完全に離れる事はなくとも、一時的には機嫌が良くなれば、症状も多少治まる。精霊本体に危害を加えるわけじゃないわ。それでも気になるなら抵抗力が回復するまでの間だけ、服用すればいい。分かったら、腕が疲れるから早く飲んで」
「う……はい……」
大人しく口を開けると、やや食い気味にスプーンの中身が放り込まれた。苦味に耐えようと丸まっているアオバの背を、アティとペルルの手がさすっていた。
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