◇ 08

 笑い声が鳴った。


 眼窩にひやりとした空気が流れ込み、骨をなぞるように撫でる。強制的に見開かされ晒された眼球が、表面を引っ張られて僅かに飛び出ると、間髪入れずに体内から押し出された。


 風で舞い上がる埃や宝石の向こうで、ユラが薙刀を振り上げる。その動作が普段なら残像すら追えない、まさしく目にも止まらぬ速さのはずだが、この時はスローモーションの効果をかけられたかのように見えた。


 神経が張り、弛んで、ぶつりと音を立てて千切られると、左目は見えなくなった。


 ユラの薙刀が振るわれて、精霊はほんの一瞬だけ姿を崩し、アオバから一歩離れた立ち位置ですぐさま形を戻した。


「ッあ──あああ……!!」


 風に解放されると同時に激痛が走った。体感よりもずっと短い時間の行為で目元は熱を帯び、反対に末端は冷えて指先が震える。鼓動が鳴る度に重い鈍痛で呻いては、抑えた手から止まらず血は零れ落ち続けるのを残った右目に映しながら、何度も何度も刺されるような衝撃に耐え切れず蹲る。


 血が滴る眼球は、精霊の風に包まれてものの数秒でアオバの目の色と同じ宝石に変わった。宝石の生成方法を目の当りにした痛みでまとまらない頭にも妙に冷静なところはあったらしく、『そりゃあ、宝石でいっぱいの宝箱なんて不気味だよな』と、リコルが言っていた言葉の意味を理解して内心で失笑した。


「う、あ……ひぅ、うう……ッ」

「アオバ!! どうしてあんな事を──」


 戸惑いながらも声をあげて駆け付けたユラが、ハッとして顔を上げた。精霊は明るい茶色の鉱石を光に当てて眺めるような動作をしていたかと思うと、再びこちらに腕を伸ばしてきた。


 ユラは、今度は精霊の行動よりも速く薙刀を振るい、吹き飛ばした。


「強欲な奴め……! 一つで我慢しろ!」


 叱りつけるような怒号と共に再び精霊に武器を振り、風で相手の動きを僅かにだが封じた。その瞬間を見計らってエイーユが動いた。


「あ、はは……あははっ」


 狂ったように笑いながらも彼女は本能的に台座に置かれたあの宝石を手に取り、出口に向かって走り出す。途端に、大地がガタガタと揺れ始め、タイルを張り詰めた床が割れると、隙間から水が噴き出した。脆くなっていた地下室ではそれだけでも致命傷だったようで、床が崩れて大穴が開く。底が見えない空洞に繋がっているようで、痛みで動けず危うく落ちかけたアオバを、空洞から伸びあがった水が包み込んだ。


 自身を覆う水が赤く汚れていく。


(あぁ……また、精霊を怒らせてしまう……)


 空気と体温を奪われ、思考が急速に鈍くなっていく。薄く開いたままの片目で、アオバから滲んだ血が薄れていく様を眺めながら、近づいてくる精霊の風に手を伸ばす。


「……こんな怪物に助けを乞うの?」


 少年とも少女ともつかない、ラピエルの声がする。その声を認識した途端に、目の前でアオバを覗き込むようにしているラピエルの姿が見えた。


「どんなに惨めに泣いて縋っても、助けてくれないよ? 精霊にとっては、人も虫も同じだ。気まぐれに手出しをして、何もかもを壊してしまうのに、いないと周囲の雑草はあっという間に枯れてしまう……そういう厄介な奴なんだよ」


 だから、嫌いだ。別の何かと重ねて、ラピエルは吐き捨てた。刺々しい金の円盤が紅色の頭上から影を落とす。形は太陽みたいだというのに、作り物の太陽は真下にいる人間に影を落とし、金色の目は伏せているせいかいつもより暗い色に見えた。


「精霊の前では、屈強な人間も無力だ。年齢も性別も関わらず、出自も種族も全て平等に無力なんだよ。ねえ、御使い様?」


 僅かに表情を歪めて、ラピエルはせせら笑った。似合わない役名だと言いたげで、アオバも内心で同意する。確かに、自分には似合わない。でも……。


 少ない機会だ、話がしたい。そう願うと胸の辺りが淡く光り、口に吸いつくように手の平程の泡が作られた。


「御使い、なら……君が……やりたくない事を……背負って、あげられる……から……」


 水中だというのに、不思議と声が出た。呆然としたように固まったラピエルに、もう一言二言続けようと息継ぎをしようとしたと同時に、そういう目的のものではないとばかりに泡は破裂して消えた。ごぼりと空気が喉から溢れ、眠気が増す。


 いつの間にかラピエルの姿はもうそこには無く、輪郭を風で繕った精霊が間近まで顔を寄せていた。アオバを包んでいた水はゆっくりと体積を空洞へと落としていき、気づけば風が全身を撫でる感触がする。体が風で浮き朦朧とする意識の中、精霊に向かって手を伸ばした。


 助けを求める為でもなく、ただ心配でたまらなくて、聞きたかったのだ。


「──足りた?」


 頬を撫でる風が、止まった。


 体を纏う風が無くなり、アオバの身体はそのまま穴の奥へと落ちていく。


「アオバ……!」


 落ちていく勢いで腕が持ち上がり、それを掴もうとユラが手を伸ばす。触れる事はないのに、妙に安心して頬が緩む──その瞬間にユラをすり抜けて上から白い塊がアオバの腹部に落ちて来た。治りかけていた蹴られた跡が刺激され、鈍い痛みが腹の上に広がる。


「ぐぅえッ」

「こ、こら、ペルル! アオバは怪我をしているんだぞ!?」

「うーう──うぶぅっ」


 ペルルが何か反論しようと口を開いたその時、アオバたちは着水した。空気を求めて藻掻いてみるが、静かに見えた水面の中は下へと向かう流れが強く、とても逆らえそうにない。


 考える前も無くどんどんと沈んでいき、ペルルが一人だけ流されてしまわないように腕で捕まえる。地上の光りはあっという間に遠のいていき、周囲が暗くなり始めたその時、水流が止まった。しかし動こうにも水圧で体は潰されそうなほど重く、泳ぐどころか足をばたつかせる事すら困難だ。


(ペルルだけでも、空気のある場所に……)


 片目で暗闇を探るが、ただでさえ水の中で見辛いのに、灯りが一つも無くては壁すら視認することが難しい。息を止めているのもそろそろ限界で、圧迫された喉から口へと空気が抜けたその時だった。


「──飲むな」


 少年の声が耳鳴りに混じって聞こえた。


 ぎょっとした拍子に水を飲みそうになっていると、アオバの傍らにユラが寄り添い、薙刀を握る手に力が入ったのかギシリと軋む音が水中に響く。


「あと少しだ、我慢しろ!」


 厳格な軍人のような、ユラの声が水でくぐもる事無く耳に届く。暗闇に一点の光りが灯る。それはユラが持つ薙刀の刃を中心にして、見知らぬ文字が円形に並び淡く光りを放っていた。


「応えよ──……と契りを今一度──汝の配下は此処に在り──告ぐは“     ”に適合せし者、三十三番目の白!」


 聞き取れない程の早口でユラはそう捲し立てた。言葉を紡げば紡ぐ程に円形に並んだ文字は強く光り、広がり、花の形へと変形した。光は不思議な事に粒が零れて浮き上がっていく。


「あああ──ッ!!」


 彼女の咆哮と共に薙刀が振り上げられた。刃は周囲の水を巻き込み、ゴウッ! と音を立てて縦に割れた。急に光が差し込んで、暗闇に少し慣れていた目に染みて思わず顔をしかめる。圧から解放されて体が軽くなり、一気に肺へ空気が押し込まれ、重力に任せてアオバたちは再び降下を始めた。


 支えようとしたユラの──力んだからか、袖口から鱗がびっしりと浮き上がっているのが見えた──腕が、すり抜ける。


「さすがに、こっちは無理か!」


 文字が刃からユラの身体をぐるりと囲むと、彼女は滑るようにアオバより先に降下して、今度は着地地点に向かって薙刀を振るい、突風を発生させた。何度も何度も、おそらくアオバの目では観測できない程の速さで薙刀が振るわれる度に風が生まれ、落ち行くアオバの背をわずかながら押して、着地の衝撃を緩和してくれた。


 とはいえ、さすがに人一人が高所から落ちる衝撃全ては相殺することはできず、かつてない強さで背中を打ち付けてアオバは呻いた。


「っう……!」

「あおばー」

「ペル……無事で、よか……っげほ、うぇ……」

「ペルル、一度そこから降りてあげて」

「あい」


 ユラの言う事を素直に聞いて、ペルルは腹の上から降りた。胸の上が軽くなり、寝転がったままの態勢で喉に引っかかりがあるような気がしながら呼吸を整える。水が割れたままの形で維持されているという不思議な光景を見上げていると、上からあの穏やかな声が降って来る。


「アオバ君ー! 無事か!?」


 声を上げる元気もなく、片腕を上げてヒラヒラと動かす。眩いきらめきを散らしながら、こちらを覗き込む人物が頷くように動いたのが見えた。


「すぐ行く!」

「えっ!? リコル様、わ、ちょ、ちょーっと、リコル様、待ってくださいねぇ!? 私! 私が行きますからぁ!」

「そ、そうか? では、頼む、テルーナ」


 帰り方も考えずに降りようとしたリコルを止めて、テルーナが深呼吸をして飛び込む準備を始めた。そこに別の影がリコルの傍に来たのが見えた。人を背負っているようだったので、おそらくウタラを背負ったウェルヤだろう。


「ユラ、さん……助かり、ま……し……っケホ」

「……そういう約束でしょう」


 ユラはそっと抉り取られたアオバの左目のあたりと撫でた。意識がそちらに向くとじくじくとした痛みが急に出てきて、眉根を寄せる。


「痛いか」

「いえ……」


 その返答は気に食わなかったようで、ユラは不満そうに口を噤んだ。それからふと、目を逸らしてどこかをじっと見つめ始めた。


「どうしましたか……?」

「ん、いや……連絡が来ていて……行けたら行くなんて言ってたクセに今頃何だ──」


 既に一度返事を出していた人物からの連絡だったようで、ユラは怪訝そうな面持ちで宙を睨みつける。しかし、彼女の表情は徐々に苦し気なものに変わっていった。その様子をじっと見つめていたペルルが、こてんと首を傾げた。


「アオバくーんっ! 今から行きますのでー、動かないでくださいねー! うっかり踏んじゃったらぁ、危ないのでー!」


 準備を終えたらしいテルーナの声が響く。返事をしようと口を開け、大きく息を吸った瞬間に咽てしまい、声の代わりに頷き、丸まってじっとしておく。


「っ……げほ、ゲホッ……」

「大丈夫か、さっきから少し……」

「だいじょ……っう」


 目の前が霞んで見辛い。息苦しくて、自然と表情が険しくなる。


「少し眠っていなさい。傍についているから」

「……はい」


 ユラの言葉に従って、目を閉じる。左目ばかりが痛みと熱を持っていて、体温は下がる一方で凍えてしまいそうだった。


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