◇ 07

「な、何だったんだ、今のは。まるで……」


 リコルが何か言いかけたその時、テルーナがハッとした様子で足を止め、剣に手を伸ばした。視線の先にある壊れた扉を凝視して固まった彼女の顔を覗き込み、リコルは少し不安そうになった。


「テルーナ?」

「……この先は、行かない方がいいかも……です」


 彼女に代わって、ウェルヤが答える。半歩後退した彼を見て、リコルは説明を求めて従者をじっと見つめ返す。


「どうしたんだ? この先に何がある?」

「……精霊がいます」

「それなら、別に──」

「周囲にいる精霊とは違います……! これは──」


 主人の言葉を遮って、ウェルヤがそう否定し、続けようとした瞬間だった。


「      」


 片言のようにぎこちない、言語化できない異常な音がすぐ傍で聞こえた。ぎょっとしてペルルを背中に隠して周囲を見渡すが、音の根源は姿を見せず、ただくすくすと鈴を転がしたように笑っている音だけが耳元で聞こえる。それは生き物だと直感的に理解できるにも関わらず、知り得る限りの生物が発する鳴き声のどれとも一致しない、聞き続けていると刻一刻と精神が削り取られていくような“声”だった。


 認識した瞬間に、動けなくなった。何かがアオバの四肢に絡まり、動きを抑制したかのように、指先一つ動かせなくなる。それは行動を封じる為のものというより、瞬き一つすらも許されない忌避感から来る、恐怖に対する本能的な回避行動だった。


「──あ……」


 何歩かウェルヤは後ずさりをして、扉の向こうから目を逸らした。それにより過呼吸一歩手前だった彼は、硬直状態になったものの多少落ち着きを取り戻した。


 リコルは扉の向こうに視線を釘付けにして固まり、テルーナはぎくしゃくとしつつもリコルを庇うように前に立った。


「……精霊だな。それも、“神様”と呼ばれるに相応しい程の加護を持った精霊だ」


 ユラの静かな解説だけが、いつも通りの調子で聞こえてくる。


「丁度、祈祷堂の真下か……戦争時に王族を庇護していた精霊か、はたまた人類を滅ぼそうとした精霊か……。同業の先駆者は、これをどうやって味方に付けたんだかな」


 仕事柄耐性があるのか、ユラはゆっくりと壊れた扉に近づき始め──その後ろを、真っ白な長い髪が白いスカートの裾と共にふわりと揺れてついて行った。視界の端で突然動いたペルルにぎょっとしている間にも、ペルルは興味深そうにユラを追いかけていく。


 危険な場所にペルルが立ち入ってしまう、止まっている場合ではない。自身の身の危険なんて、今はどうでもいい。


 ──  が  なら、     ……。


 遠い過去のぼやけた誰かの声が、過り、聞き取れないまま通り過ぎていった。


「っあ、ま、待って、ペルル!」


 思わず声をあげてペルルを捕まえると、驚いた様子でユラが振り返った。


「な──何故、貴方たちは動けているんだ? 今“   ”の負担度数は、普通の人間なら防衛本能から動けなくなるはずだぞ!」

「え、あれ、なんでだろ……?」


 単語が一つ音飛びをしたが、今動けるのは数多の世界を知るユラからして異常らしいということだけは分かり、困惑しながら首を傾げる。不思議に思う頭の中とは裏腹に冷たい汗が背を流れるアオバと、興味津々で奥に向かいたがるペルルを訝し気に見つめていたユラは、思い当たる節があったのか目を見開き、すぐに渋い顔になった。


「……通りで、刃物を握る事に躊躇いが無いわけだ」


 どういう意味かとポカンとしていると、笑う音が一段と大きくなった。びくりと肩を揺らすが、それだけで動けないという程ではない。


 おそるおそる扉に近づいたその時だった。


「──きゃああぁあッ!!」


 エイーユの声で悲鳴が上がった。喉で声をつっかえながらも止めようとしたリコルの制止も聞かず、反射的に部屋に飛び込む。


 地下道とは思えない程、天井の高い開けた空間がそこにはあった。ユラの言う通り祈祷堂の真下にこれがあるというのならば、床一枚の隔たりの下にこれほどの大きな空間があるとは信じがたかった。


 壁に掛けられた巨大な織物は、何百年も人の手が入っていないとは思えない程に繊細で美しく、太陽と思しき模様の下で祈る少女が薄くほほ笑んでいる絵が織り込まれており──上から青い絵具か何かでべったりと、汚されていた。


 その下に広がる石造りの階段の上に作られた祭壇の前には、多くの宝石が風でゆらゆらと宙に浮き、そこに何かが在るという事だけが分かる。青白く光る苔を光源に煌めく宝石の足元に、エイーユが拘束されていた。


「エイーユさん!」


 助けないと。走り出したアオバに、ユラは小さく舌打ちをして薙刀を振るった。宙を舞う宝石たちは突風で吹き飛ばされ、散らばり、動力から外れたのかそのまま地面に転がり落ちた。


「──……?」


 ユラが眉をひそめたのを他所に、今の内だと駆け付け、エイーユを助け起こす。


「大丈夫ですか? 動けますか?」

「う、うん……あ、待って」


雨で冷えた肩に触れ、持ってきていた彼女の外套を羽織らせてこの部屋から出ようとしたアオバを、エイーユは慌てた様子で止めた。


「荷物が風で飛んで行っちゃって……大事な物なの! あの教会の……ったった一人だけの、弟みたいな子から貰ったものが……!」


 周囲を見渡し、祭壇の近くに引っかかった布を見つける。ハンカチだろか。エイーユをその場に置いて取りに向かったその時だった。


 後ろから投げ込まれた小さな硝子瓶が、アオバの耳のすぐ横を通って祭壇に当たり、砕けた。青い煌めきが周囲に散った、驚いて思わず振り返り切る前に、あの言語化不能な“声”がはっきりと耳に届いた。


「      」


 楽しそうに、笑っている。


 無意識に、口から何かが垂れ落ちた。それは顎を伝ってボタボタと地面に落ちた。動けなくなった体でも五感だけは正常に機能していて、乾き出した舌は錆びた鉄の味を感知し──猛烈な嘔吐感と眩暈で立っていられず、膝から崩れ落ちるようにしてその場で蹲った。


「っう、え……!?」


 文字通り血反吐が零れ出る。口を押えた手の平の傷にそれらが滲みて痛い。


「          」


 おそらくアオバの名を呼んでいるであろうユラの声すら、奇妙な笑い声でかき消えてしまいそうだった。すぐ傍に駆け付けてきたユラが大きく薙刀を振るうと、気分の悪さは一気に引き剥がされたように遠のき、呼吸が出来るようになった事でより咳き込んだ。斜め後ろからペルルが顔を覗き込んでくる。


「あおば、だいじょぶ……?」

「だい、っじょ……おぇッ……!」


 咽込んでいるのに無理に話そうとしたせいで、余計に咳が長引いてしまった。呼吸が落ち着くまでの間、周囲を警戒していたユラが忌々しそうに眉根を寄せた。


「さっきのは精霊じゃない、玩具か!」


 苛立たし気にそう言って、ユラは薙刀の石突で力任せに先ほどまでエイーユが倒れていた付近に転がっていた石を叩き壊した、その石から出ていた竜巻が止まる。


(ラリャンザで子供たちと遊んでた時の石、か……)


 ようやっと呼吸が落ち着き出したが、やや過呼吸になってしまっていたのか、横隔膜の辺りがズキズキと痛み動けない。だが、そう悠長な事はしていられない様子だ。


「     」


 笑い声が一層大きくなるとほぼ同時に、カラン、と軽い物が硬い物に当たったような音が響いた。


 その音に反応して顔を上げると、前に立つユラ越しに風を纏った見えない何かがそこに在るのが分かった。その風は穏やかながらも、周囲の埃や砕けた宝石の欠片も巻き込んでいるおかげで、何となくの輪郭が分かる。異様に首と腕が長いソレは、この天井の高い空間においても背を屈めなければ収まらない巨大さで、足を体育座りのように折りたたんだ姿勢でアオバに顔を近づけていた。


「……これが、精霊か」


 祭壇近くまで入っていたリコルが、息を震わせて言う。模造剣を抜いてはいるが、身体の硬直は抜けきっていないようで動きが全体的にぎこちない。いつもなら彼の前に立つテルーナは浅い呼吸を繰り返していて、前に行こうとするリコルの服の裾を掴んではいるものの、今にも倒れそうな足取りになっている。精霊の気配が分からないアオバがこれだけ威圧されるのだから、気配を少なからず認識できている彼女たちは本来なら動けないはずだ。それでも愛しい彼を守りたいという意思は砕けず、テルーナは力の入っていない手を剣の柄にかけていた。


 精霊に愛される者がそこにいるからか、その巨大な姿を晒している精霊は首をリコルの方に向けてピタリと動きを止めた。それでも尚も響く“声”は、一音一音認識する度に動悸が変になってしまいそうだ。


「ア、アオバ君……動けるか……? 今の内に、こっちに来るんだ」


 自分が精霊の目を引いているからと、やや怯んだ様子ながらもリコルは変わらない穏やかな声を装いつつそう言った。風圧で落ちて来たハンカチを拾ってポケットに仕舞い、両腕を地面について体を支え、半ば這うようにしてよたよたと精霊から離れる。


 とにかく階段を降りてリコルたちの傍まで行こうと、自然と視線は祭壇の向かい側を見た。そこにはアオバが今いる祭壇とは違って階段を設けず、地面に直接小さな祭壇が置かれていた。大きな祭壇とは対になっているようで、それの前にエイーユがいた。彼女は小さな祭壇の足元に、何かを振りまいた。


 精霊のものとは違う風が流れた。


 精霊が顔をリコルから、エイーユに向けた。


 周囲を照らす青白い苔の光りで、小さな祭壇の台座の上に、片手で支えられるかどうかといった大きさの歪な形をした宝石が現れたのが見えた。それはオパールのような複数の色を持っていて、しかしとても自然に形成されたとは思えない色をしていた。例えるなら、複数の宝石を砕き混ぜて再度構築したような色で、美しいよりも不気味さが勝つ。


 触れてはならないと、確証も無く思った。


「駄目だ、エイーユさん!」


 エイーユが宝石に手を伸ばすのを待たず、精霊の腕が素早く彼女に向かって伸ばされた。風は先ほどエイーユが作った玩具とは比較にならない程強く、彼女を捕えて締め上げると顔面を押さえつけ、細い触手のような風で無理やり目をこじ開けた。何かに引っ張られるように、彼女の眼球が少しずつ浮き出てくる。


 精霊の姿こそはっきりと見えずとも、彼女の首に出来ていく首輪のような赤い痕から、首を絞めているのだと分かった。次第に彼女の顔は赤黒くなっていき、抗っていた腕がだらりと落ちると、風は彼女の顔を上に向かせて、今にも零れ落ちそうな眼球を引き上げ始めた。


(目を取ろうとしてる!?)


 無理をして立ち上がり、階段を転げ落ちた。その物音でリコルが視線をこちらにやったが、リコルに限らずこの場にいる全員が精霊の威圧的に存在感に圧されて大々的に動けずにいる。正常な思考はとっくに奪われていて、神経がまるで想定していないところに繋ぎ合わされたかのように、頭で考えている事と手足はバラバラに動き出してしまいそうな不安感が、指一つ動かす度に襲ってくる。


 だが、アオバは起き上がり、足をもつれさせつつもエイーユの下に移動し始めた。


 恐怖も不安感も確かにある。そんなことよりも、目の前で起こり得る最悪の事態を避けなければという感情だけで、動いていた。


「っ!」


 邪魔をするなとばかりに強風が吹くとアオバを追いかけていたペルルが浮き、後方に飛ばされた。遅れて振り返った時には、既にテルーナが抱えてくれていた。そうこうしている間にアオバも押し返されそうになったその時、後ろから吹き荒んだ追い風がそれを弾き飛ばす。


「ユラ、さ……」

「急いでエイーユを回収しろ! すぐ撤退するぞ!」

「は、はい……っ」


 ユラの支援を受けて、その場に落ちて咽くエイーユの傍につく。だが、人一人抱える程の体力が今は無い。もたついている間にも精霊は風を纏い、近づいてくる。


(能力が……ああ、どうして反応しないんだ! それだけ、この精霊の力が強すぎるのか!)


 時間稼ぎに壁を作れればと、先ほどから何度も力を使おうとしているのに、ちっとも能力が使役される気配が無い。ここが地下という自然そのものに近しい事と、神様と呼ばれるに相応しい程の力を持つ精霊の領域である事が合わさったせいか、この空間の物という物に想像で形を与えて操る事が出来なくなっていた。


「ま、待って……ください!」


 出来る事がもう無くて、エイーユを背に隠してただ懇願する。


「領域を踏み荒らして、ごめんなさい……怒るのは御尤もです。だけど……か、彼女から……目を奪うのは、やめてあげてください……!」


 これがあるから今日まで生きてこれた。そう自負する程の、彼女の“自信”を支える重要な要素なのだ。暴力に支配された悲惨な教会で育ち、逃げ延び、今日まで一人で生きて来た、それら全てはきっとこの目があったからに違いない。そんな大事な目を、奪わせてはならない。だがおそらく、何一つ犠牲にせずここから帰してはもらえない。それなら──


「代わりに、僕の目をあげます」


 彼女の目が残る方が、価値がある。その思いから、そんなことを口走った。

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