□ 04
宿の一室の扉を叩く。返事は中々返って来ず、もう一度扉を叩こうかと迷いながら構えた時、小さな声が微かに部屋から聞こえてきた。
「はい……」
「アオバです。入ってもいい?」
「……うん」
返事をしっかり聞き取ってから、扉を開ける。泊る為に必要な家具と収納だけの手狭な室内は灯をつけておらず、少し傾き出した外の光だけでは薄暗く感じた。鏡台の前に置かれた背もたれ部分が短い小さな椅子に浅く腰掛けていた少女が、あまり元気とは言えない顔色でこちらを見つめている。
サネルチェ公国の商業の町、ゲーシ・ビルの宿屋の娘、ルファ=ジェスタだ。彼女はまだ、家族の下に帰れずにいた。体内に大量の“黒い霧”をため込んでいた彼女は、二日程意識不明となり、目覚めてからも言動が不安定だった為に、送還予定が先送りになっている。
「久しぶり、ルファ」
「うん……アオバと、ペルルは久々ー……アティは、一昨日会った、よね……?」
「ああ。こっちに戻ったついでに、顔見に来たな」
アオバが能力の反動で眠っていた期間に、アティは何度か宿屋と屋敷とを往復していたらしく、その間にもルファとは顔を合わせていたそうだ。その際に、彼女の身に起こった事は一通り耳にしているようだった。俯いて顔が見えなくなってしまうと小さな表情の変化を見逃してしまうような気がして、アオバは真正面から屈んで視線を合わせる。
「大丈夫?」
「ごめんごめん、ちょっと不安になってただけ……それで、どうしたの?」
「僕たち、もう少ししたらシャニアに向かう事に決まったから……やり残した事が無いか確認してるとこ」
「そっか……」
言いながら、ルファは顔にかかった髪を手の甲で払った。それからちらりと、目線を持ち上げた。
「ごめんね。いっぱい迷惑かけちゃって……」
「気にしてないよ」
「でも、私のせいでしょ。あんな壁が出来ちゃったのは……」
「僕が力を使ったからだよ」
公的にも、あの壁が出来た理由はラピエルとアオバの能力によるもの、という事になっている。ルファはそれに巻き込まれた被害者で一切の非は無いのだと、そこだけは間違えないようにと何度も何度も念を入れてリコルが上層に伝えてくれているし、精霊に愛される彼がルファを気にかけてくれたおかげか精霊も彼女に攻撃的にはならずに済んでいる。
どのようなきっかけで疑念の目を向けられ、処刑まで一直線に繋がるか分からないこの世界では、絶対的な存在である精霊を味方につけられたのは非常に大きい。情報通のフィル・デも、この件に関しては被害者の存在をぼかして語ってくれているようで、一安心だ。
「……怒らないね、アオバは」
少し呆れたような声色のルファに、「怒らなくちゃいけない事を、君がしてないからね」と返せば、彼女は肩の力を抜くように大げさなほどわざとらしくため息を吐いて、眉を下げて笑った。
「ねえ。それじゃあ、そのまま怒らないで聞いてほしいの」
声を潜めて、ルファはその場にいる全員(認識できないユラ以外)の顔を一人一人見つめた。
「ラピエルの話」
「……何か気になる事でもあった?」
「うん……怒らないでね? 私はあの子から──人を守ろうっていう意思を感じたの」
似たような意見を持つ人物がいてくれて、素直に嬉しい反面、どこからそのように感じ取ったのかが疑問に思い、短く相槌を打って続きを促した。彼女は「まだ混乱してるから、順番に喋るね」と前置きして、話し出す。
「あの時……意識が朦朧としてた時にね、子供の声が聞こえたの。私の近くで、二人ぐらいが私も一緒に行こうって言ってた。それよりも遠くで、数えきれないぐらいたくさんの声がしていて、そっちは幼稚過ぎて聞くに堪えない罵詈雑言が飛びかってた。『ずるい』『殺してやる』……みたいな。歩くたびに声が大きくなって、自分の足音も聞こえなくて、足の感触とかもしなくなっていって、声がする方向に歩いているのは分かるけど、勝手に景色が進んでいるみたいだった」
当時の事を振り返る。宿の外に出ていたルファは、ふらふらとした足取りで歩いていたと、リコルは言っていた。ルファが今語っているのは、その時の事だろうと推察して聞く。あの時点から既に意識は朦朧としており、宿の厨房から包丁を持ち出した事すら分からなくなっていたようだ。
「その中に、大人っぽい声が一人いて、その子だけは宥めてるような感じだったのね。『今じゃない』『落ち着いて』『大丈夫だから』って」
幻聴の可能性も否定はできないが、情報の一つとして話半分には聞いている様子でユラが腕を組んだ。前者の暴言は、リコルに対する態度に現れているものだろう。後者は……いつも誰かを気にかけている、優しい部分だろうか?
──今なら成せるから、かな。
(……『今じゃない』、とは反対の意味になるけど)
ラピエルの言葉は少し捻くれているので、言葉そのままの意味とは限らない。
(壁が出来る直前のラピエル、様子がおかしかったよな……この前の、ビッカーピスさんに話しかけていた時と近いような……)
違和感を探るアオバの意識を引き戻すように、ルファは人差し指を立ててこちらの顔の前で軽く振った。
「その声が、たくさんの暴言でどんどんかき消されて行って……私怖くなって、いつもみたいに、お兄ちゃんを呼んだの。──来るわけないって分かってるんだけど、あの時はどうしてか『いる』って確信があって……──そうしたらあの時は、形になって現れた」
土贄の儀で贄に選ばれてしまった、もうこの世には存在しない、ルファにとっては両親から語られる物語の住人。理想を思い描いて形を得たそれは、空想した本人を蝕む程に巨大な存在だった。テルーナの正確な一撃で破壊されたが……。
「砕けて、崩れて……大勢の子が、がっかりした声を出して、『次』を出そうとしてた」
「次……って、まだ“黒い霧”出すつもりだったってこと?」
「わかんないけど、すごくムキになってた」
ルファを宿から石碑の前にまで誘導したのはラピエルだろう、というのは間違いなさそうだが、目的が分からない。リコルに危害を加えたいにしても、それならリコルもルファも泊っているこの宿で“黒い霧”が形を得るようにすればよかったはずだ。何故、そうしなかった?
(……聖騎士が近くにいたから? 巻き込みたくない誰かがいた? うーん……分からない。やっぱり、もう少し落ち着いてラピエルと話す機会が無いと……)
いつも慌ただしい場面でラピエルは顔を出すから、ゆっくりと話し合えない。何かいい方法は無いかと少し話題からは逸れた事を考えるアオバを他所に、ルファは続けた。
「『精霊から人類を守りましょう』」
「……え?」
「『煌めきを瓶いっぱいに集めよう』『たくさん集める』『君の為に』『忘れてください』『紅の蕾は枯れたよ』……」
つらつらと、ルファが台詞を読み上げる。それがあまりにも淡々としていて、本人の意思とは無関係に口が動いているような、生物から機械的な音声が流れているような不気味さがあり、怖くなって彼女の手を握った。
「ルファ?」
「……優しい声が、そう言ってた。その声に、暴言を投げる多くの声が、それを非難していたけれど、私には誰かを傷つけようとしている人のようには聞こえなかった」
一瞬虚ろになっていたルファの目に、生気が戻る。握り返された手は少し汗ばんで、先端から冷え始めていた。
「ラピエルは……ラピエルの、中には……良い人も、いるんだと思う」
「うん」
「だからね……もし、次にラピエルに会う時は……優しい人と宥める人を、大勢の罵詈雑言の声から、引き離してあげてほしいの。あれは、ずっと聞いてたら、おかしくなっちゃう」
「分かった」
即決すると、ルファは少し驚いたように目を丸くして、徐々に納得したように目を細めた。
「アオバなら、そう言ってくれると思った」
「ん? どうして?」
どうしても人々はラピエルを悪く見るので、反対意見は言い辛かったのだろう。ルファは安堵した様子で、こう言った。
「だって、アオバには聞こえてなかったかもしれないけれど──『壊れてる、動かない』って優しい声が泣いた時、貴方はすぐに直してあげてたから」
「え?」
──壊れちゃったんだよ。直してあげないの?
ラピエルの声が脳内で再生される。ルファから生まれた“黒い霧”が倒されたあの時、アオバが無意識に、想像すら浮かばずに使われた能力は、何を直したのだろうか?
思考を途切れさせるように、ルファの指先が眉間をつついた。年下の少女が大人ぶった表情で言う。
「アオバ。あんまり無茶しちゃ駄目だよ。いっつも騒動に首突っ込んでるでしょ? アオバはアティみたいに、強くないんだから」
「ごめん……」
「私より弱かったりしないよね?」
「うーん……ちょっと否定できないかも」
少なくともルファは狩りが出来るようだしなぁ、と考えていると、ルファは堪えるように笑って、「じゃあ、私の心配している場合じゃないよね」と言いながら、アオバの癖毛をぬいぐるみでも撫でるようにわしわしと撫でた。
「アオバの活躍を聞く頃には、きっと家に戻ってるから。だからね、アオバも無茶しないでね」
「うん。ありがとう」
「どういたしまして!」
彼女の元気な笑顔が戻ってきたのを見て、安堵する。
これで、心残りはあと一つだ。
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