◇ 11
突如聞こえたセイラの声が届き、エディベルの剣は中途半端に振り切れず、目の前の人物に刺さったまま止まった。赤い血が地面を濡らす。
「あち」
ぽろりとペルルが舌足らずな声で呟き、羽結晶をその場に落とした。
「っ……う」
途端に気分が悪くなり、回り始めた視界に耐えれず、アオバはその場にうずくまった。
精霊が怒っている。アオバに呪いをかけている精霊だけでなく、周辺の全ての精霊の怒りが、気配など追えなくとも分かった。それだけ激しい怒りだった。当然だ。斬られたのは、リコルなのだ。彼は咄嗟に(彼女が強靭な聖騎士であることを置いて)テルーナを庇ってしまった。愛する者を傷つけられて、精霊たちは激しく怒りを表明していた。
「リ、コル、様……」
呆然として固まったままのテルーナの口から、彼の名が泣きそうな小さな声で零れた。それをかき消さんばかりに、ビッカーピスが声を張り上げた。
「な……何をしているエディベル! そこまでだと、言ったのが聞こえなかったか!」
「まだ……俺は負けていませんでした! 力も満足に使えない白け色風情に、聖騎士を名乗らせては……!」
「──っま、まに、あわな……か……った……!」
息を切らして、後ろからセイラの声がした。脇腹を押さえて立ち尽くす彼を、遅れてコーディアが追いかけてきて、ぎょっとしたように「何をしているんですか!?」と抗議の声をビッカーピスに向けた。
「聖女様……お祈りの時間の、はずでは」
「光が……ばちばちしてるの、見えて……っはぁ、ケルダが、見に行った方が良いって、言うから……中断して、来た……っ」
「そんなことより、早く手当てを!」
コーディアに言われて、テルーナがようやく我に返ってリコルの名を呼びかける。未だ剣が突き刺さったままのリコルは、意識を失ってはいなかったようで、浅い息を吐きながらテルーナの肩を掴んだ。力を入れないと腕を持ち上げるのも大変らしく、力を入れ過ぎて震えて見える。
「だ、いじょ……ッぶ」
「リ、リコル様……!」
リコルの生存が確認されたからか、精霊たちの気の昂りが少しだけ抑制された。それを感じ取って、ウェルヤが横から青白い顔でこちらを覗き込んできた。
「動けますか、御使い様……」
「は、い」
「なおす?」
「うん、そう……治さないと」
気分の悪さが喉の奥に残っているものの、それを無理やり飲み込んで、一言断ってからウェルヤをその場に降ろし、ペルルの肩を支えにして立ち上がる。リコルを抱き上げようとしていたテルーナの下に行き、その腕を掴んで止める。
「治します。この剣、抜けますか」
「い、今抜いたら、血がぁ……」
「大丈夫です。抜いてすぐに治します。せーの、で抜いてください」
リコルの負傷で判断力がやや落ちているのか、テルーナはほとんど疑う事をせずに剣に手をかけた。
「せ、せーのッ!」
赤く塗れた反った刀身が抜かれ、血が噴き出す。傷口に手をかざし、想像をする。能力が行使されている証拠でもある胸の辺りが淡く光る現象に少し安堵する。
肉が繋ぎ合わさる音を聞きながら、何度となくユラに言われた事を脳内で反芻する。傷口を塞いで治す。余計な事は考えない……。
「……精霊が近いな。妨害されていないか?」
ユラに言われて、傷の治りが遅い事に気づく。精霊たちから見れば、正体不明の怪物が愛しい子に手をかけているように見えてしまい、必死に抵抗しているのかもしれない。
塞ぎきれない傷口から、とめどなく血が流れていく。能力を無理に使おうとするが、何かがつっかえたようにリコルの傷はそれ以上の回復を見せない。これはまずいかもしれない。
(精霊に信じてもらうにはどうすればいい? 時間はそんなにない。リコルさんは精霊に愛されてはいるけどコントロールできるわけじゃないし……)
焦りからか、頭の中を無造作に手で引っ掻きまわしたかのように、思考が絡んで上手く働かない。少しでも集中しようと、閉眼して眉根を寄せた──その時、すぐ隣に誰かが座った気配がした。顔を上げると、少し前まで後ろで息を切らしていたセイラが隣に移動し、胸の前で手を組んで祈っていた。
これはただのポーズだ。彼が大好きなキャラクターの、貫音セイラならきっとそうするという、なりきり行為の延長でしかない行い。なのに、その横顔は切羽詰まったものだった。
ふ、と。精霊の抵抗が消えた。
「え……」
思わず半開きになっていた口から声が漏れ出た。途端に、気を緩めるなと言わんばかりに、ペルルが背中にもたれかかってきた。降ろしかけていた手を再びかざし、もう一度能力を使う。胸の辺りが淡く光りを放ち、今度はすんなりと傷口が塞がった。
「や、やった……っ」
念には念を入れて、しばらく能力を使っていると、リコルが熱っぽい息をゆっくりと吐いて、横目でこちらに視線を向けた。
「もう……大丈夫、だ」
「いえ、何かあったら困りますから、もう少しだけ」
言葉を遮るように、リコルが力任せにかざしていたアオバの手首を握った。
「これ以上は君が危険だ……っ」
「へ?」
言われた言葉を理解しようと、能力の使用に割いていた思考が途切れる。胸の辺りの光が収まると同時に、血の気が引き、視界が真っ暗になった。不測の事態に動悸が激しくなるのにも関わらず、体温は冷え込むばかりだ。
「あ、あれ……?」
周囲の景色が見えなくなると、途端に平衡感覚が覚束なくなり、地面に手をついて何とか体を支えるが、それも長くは持たなかった。そのまま突っ伏すようにして倒れ込んだ。
「他人の為に身を削って……それって何か意味あるの?」
慌てる聖騎士たちや、焦った声色でアオバを呼ぶユラの声の中に、嘲笑交じりの少年とも少女ともつかない中性的な声の主が語り掛けてくる。
「もっと自分の為だけに生きなくちゃ。だって──」
音という音が遠ざかっていく。ぽつりと、ラピエルの声が言った。
「──こんな世界、だぁれも助けてくれないよ」
「……そんなことないよ」
絞り出した声は届いたのだろうか。ラピエルの返答は無かった。
***
「──【そんなの絶対許さないっ! 貴方のその腐った根性、私が叩き直してあげる!】」
甲高い少女の声が、キン、と耳に響いた。
立ったままマグカップをダイニングテーブルの上に置いたアオバは、ぼんやりとした表情でテレビの方に顔を向けた。
休日の朝だ、と直感的に思った。空気中に舞う埃が、窓から差し込む日差しでキラキラと光っている。いつもより少し遅めに起床したアオバは、何気なくテレビのリモコンの電源ボタンを押し、インスタントコーヒーを用意していた……ところだった。
テレビ画面の左上に表示される時刻は八時過ぎ。カラフルな髪色の少女らが、何やら悪っぽいデザインの人物と向き合い、一体全体どういった経緯なのか不明だが、戦っていた。土曜の朝に放送されている、女児向けの変身アニメシリーズだ。
(今ってこんな感じなんだなー……)
幼少期にチラリと見た(尤も、アオバが見たかったのはその後に放送される男児向けの作品だったが)記憶と並べながら、椅子に座り、テーブルの中央に置かれた市販のパンの山から、適当に一つ引っ張った。ロールパンだった。本来なら六個入りだが、既に開封済みで、三個になっていた。
「【抗って何になる? 無駄な事を! 全て諦めて逃げ出すがいい! 誰が責めようものか! どうせ誰も彼も汚い思いを抱えているのだ!】」
「【いいえ! 人間は確かに汚い事も考える! だけど、それが全てじゃない! 優しい人を私は知ってる! 努力して、夢を叶えた人を私は知っている!】」
一つだけ取り出したロールパンを咥えながら、袋を閉じる。
画面の中の戦いは、敵側の優勢だ。主人公らしき少女は攻撃を受けて悲鳴を上げたが、どれだけ傷ついても立ち上がり、考えを変えようとはしない。
そして一人の少女が、一歩敵側へと歩み寄った。真っ黒な長い髪と、巫女服のような色合いの衣装を風でなびかせて、少女はまっすぐに敵を見据えた。
「【頑張って頑張って……それが報われなくってもいい! 私の努力の価値を決めるのは私だ! 他の誰かじゃない!】」
ああ、なんて危ない言葉だろう。
(美しさはひけらかしたら、危ないのに)
誰が言ったか、そんな言葉をなぞるように思う。悪意は形になって、目の前に現れるのだから。否。少女らは今まさに、悪意の塊と対峙していて、逃げずに戦う事を選択している。汚い思いを認め、報われない努力を肯定する。どれだけ自分の思いが踏みにじられても、何度も立ち上がれる強さがある人の言葉。
「……逃げたいよ、俺は」
死角から、くぐもったセイラの声がする。泣いているのだろうか。時折鼻をすする音がする。
「俺にはもう無理だ。疲れた」
「……」
かじったパンを持ったまま、背もたれに深くもたれかかる。フローリングの上を擦った感触がスリッパ越しに足の裏に伝わる。
「代わってよ、御使い様」
「……僕には代われないよ」
「俺が殺されてもいいの?」
声が耳元に寄った。恨みも妬みもない、何の感情も感じ取れないソプラノが、テレビ音声に交じって囁いた。
「お前も殺されるよ。聖女も御使いも、辞めようぜ。他人の為に身を削って、それって何か意味あるの? もっと自分の為だけに生きなくちゃ。そんなんじゃ──」
対面の椅子に、真っ白な少女がいつの間にか座っていた。少女は真珠色の目を瞬かせて、こてん、と首を傾げた。
「──だぁれもたすけてくれないよ、あおば」
***
ぼやけた視界が、次第に輪郭を得ていく。窓の向こうの空は赤い色なのに、その赤い日差しは不自然に部屋に差し込まず、室内はかつてないほど暗い色をしていた。
「あおば……あおば……」
「うん?」
か細い舌足らずな声が聞こえる気がして、反射的に聞き返した。耳を澄ませてみると、か細い声がずっと続いており、時々鼻をすする音が混じる。夢にペルルや泣いているような音がしていたのは、この環境音のせいだったらしい。
体を起こし、ぐらつく頭を押さえて周囲を見渡す。
(あれ、いつ部屋に戻ったんだっけ?)
星詠みの屋敷に滞在中借りている部屋だと気づき、朝の出来事を思い返す。聖騎士の鍛錬途中にテルーナとエディベルという聖騎士の試合になり、テルーナの勝利に終わったはずが、エディベルが切りかかり、テルーナの近くにいたリコルが彼女を庇って大怪我をして──。
(そうだ。リコルさんの怪我、治してる途中で倒れたんだった! 様子見に行かないと)
ベッドから足を出し、なおも聞こえるアオバの名を呼ぶ舌足らずな声と、ぐずる声が気になって、再び周囲を見渡す。声自体は近いような気がするのだが、姿が見えない。
「えっと……ペルル、だよね? どこ?」
「あおば……あおば……」
「うーん、と……うわっ」
背面の方向から聞こえるように思えたので、四つん這いになってベッドの上を移動すると、ベッドと備え付けのクローゼットとの間に、ペルルを抱きかかえたテルーナが座り込んでいた。
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