◇ 06
***
窓の向こうは絵具で塗りつぶしたような青空だった。
うっすらとした白い日差しが差し込んだ部屋の中は、背の高い本棚と、そこに入りきらない大量の本で埋もれている。一応は動線を確保しているという名目の為か足の踏み場が一筋だけある、その見慣れた場所で、アオバは一人で座っていた。
手元には一冊の文庫本を開いた状態で持っていて、読書の途中でふと窓の外を見た、といった形でぼんやりと青空を眺めている。
物音ひとつしない静寂では、いっそ耳鳴りの方が大きく聞こえる。
視線を手元に戻す。随分後ろの方を開いていた文庫本は、『あとがき』と題したページだった。
『……何も、物語を書く事に至上の喜びを見い出したわけではない。ただ、“小説の真似をして、大怪我をした。もうやるまい”と、そこまではごく自然な発想で、しかし“身の安全を重んじるばかりに、面白おかしい事に挑戦できぬはつまらない”と、狂人の発想に至ってしまったのが始まりである……』
見覚えのある文章。そう確か、とある作家の愚痴っぽい一文だ。同じ著者の書物が、父の書庫にずらりと並んでいたから、父のお気に入りだったのかもしれない。直接聞いた事が無いので分からないが。
本を閉じる。
窓の外で黒い塊が落ちてくる。
思わず顔を上げた。
本棚に隠れて見えない廊下に繋がっているはずの扉が、ギィ、と音を立てた。
***
意識がすうっと浮上するような浮遊感の後、じわじわと周囲の音が聞こえて来た。横を向いて丸まるような体勢になっていたアオバは、薄く目を開ける。
「……すごい。なんだか夢でも見ている気分だ」
友人の声──否、リコルの声がする。目をこすりながら体を起こすと、昨晩ペルルがトランプを並べていたテーブルの前に、声の主がこちらに背を向けて立っていた。普段と違って、髪をまとめていないせいで、声がしなかったら本当に誰だか分からなかった。
体を起こす物音で気づいたのか、リコルが振り返った。窓から差し込む日差しで、柔らかな金髪がきらりと輝く。……朝一で見ると少々目が痛い。思わず眉根を寄せたアオバを気にも留めず、にっこりと爽やかな笑みを浮かべた。
「おはよう、アオバ君」
「おはようございます……」
「これ、すごいね。ペルルは随分手先が器用だ。習い事をさせてみたらどうだろう。何かしらの才能が開花すると思うのだけど」
寝起きで何を言われているのかよく分からず、首をかしげていたが、リコルが少し移動したことで彼らが何に感心しているのか分かった。
テーブルの上に、五段のトランプタワーが出来ていた。
「……わー」
まだ寝ぼけていて反応が上手くできなかったが、説明を求めてユラを目で探すと、テーブルの近くでしゃがみ込んで、下からタワーを見上げているユラと目が合った。少し楽しそうである。
「昨晩の謎の札を並べる遊びの後、急に作り出したんだ。これは凄いな。リコルの言う通り、ラピエルの件が終わったら何か習わせてみてもいいんじゃないか?」
珍しく声を弾ませるユラから少し視線を横にずらすと、もうすっかりトランプに興味を無くした様子のペルルが、椅子に座って絵本を読んでいた。
「あの本は……」
「ああ。暇そうだったから、屋敷の人に借りたんだ。あの歳で文字も読めるんだね」
リコルにそう言われ、こちらも素直に感心していると、声に気づいたのかペルルが顔を上げた。目が合うと本をその場に閉じて置き、目の前まで小走りで寄って来た。
「おはよう、ぺるる」
「あよぉ。あおばみて。ぺるる、りきさく」
「うん、見たよー。凄いねぇ」
「ぺるるすごい。ぎゅうして。しろ」
強めの命令を受けて、苦笑しつつ要望に応える。それからそういえば、とリコルを見る。
「もしかして、僕また寝坊してます……?」
「ん? ああ、いや、少し廊下に出たら、ペルルが扉をちょっと開けて、部屋から顔を出して立っていたから……」
勝手に入ってすまない。と、リコルは片手で謝罪をした。大丈夫ですよと笑顔を返し、ペルルに視線を移す。
「ペルル、暇してた? ごめんね」
「んーん」
そうでもないよと言いたげに、ペルルが腕の中で首を振る。アオバが寝ていたから、トランプタワーを別の人に見せようとしていたのだろうか。だとすると、出会った当初を思えば相当に自意識が生まれている証拠に思えて、嬉しい。
そろそろ良いかとペルルを離し、ベッドから体を出す。今日は、昨日の続きである会談をし終えて宿に帰るのだろうか。予定を聞こうとして、リコルの従者であるウェルヤがいない事に気づく。
「ウェルヤさんは?」
「少し体調が悪いみたいだから、部屋で休んでもらっているよ。精霊の動きが随分と激しいらしくて……人酔いに近い感じ、だそうだ」
へぇ。と相槌を打ってから、「リコルさんが目の届かないところにいる方が、気苦労しそうですけど……」と切り出すと、リコルは困ったような笑みを浮かべて頬をかいた。
「本人もそう言っていたけれど……私の近辺は精霊の数が多くなりがちだから、体調不良の時に近くにいると物凄い圧迫感がある……らしいから、少し距離を取った方がいいかな、と思って」
霊感のある人を心霊スポットに連れて行ったような状況なのだろうか。精霊の気配というものが今一ピンと来ないアオバと、同じく精霊の気配を感じ取る能力が低いというリコルは、互いに曖昧に納得したような表情を浮かべた。
「ところで、リコルさん。今日は髪、まとめてないんですね」
自身の後頭部辺りに触れながら言うと、リコルは「ああ」と思い出したように毛先に触れた。
「水浴びをしたから、乾くのを待っていたんだ。もう大丈夫そうだね」
「自然乾燥で、そんなに艶々なんですか……?」
「うん? 精霊に触れてもらう以外に、乾かす方法があるのかい?」
ドライヤーとか無いのだろうか。などと一瞬思ったが、電気が無い事を今更思い出し、苦笑を浮かべて誤魔化した。
そんなアオバに小首を傾げながらも、リコルは胸ポケットからいつも髪を束ねている紺色のリボンを取り出した。それを口で咥え、薄手の白い手袋をはめたままの手で金糸のような髪を手櫛でまとめ始めた。
「……手袋、したままで大丈夫ですか?」
「うん」
短い返事の通り、手袋に髪が絡みつくことはなく、綺麗にまとめられていく。こういうのも精霊の効果なのだろうかとぼんやり考えつつ、膝に置かれていたリボンで丁寧に結ばれていく様を眺める。
「リコルさんって、いつも手袋されていますよね。剣、持ちにくくないですか?」
「ああ、そのあたりは大丈夫だよ。一度すっぽ抜かして以降、柄の方の滑り止めを強化している」
「ええと、手袋取ったほうが早いのでは」
「いやぁ……その、あまり、綺麗じゃないんだ。マメが潰れた跡もあるし、筋っぽいというか」
少し意外な返答に、「はぁ」と相槌を打つ。リコルは美形だが、それはもっぱら天性のもので、自らそれを維持しようとか更に美しくしようだとか、美意識を持っていると(失礼ながら)思っていなかったのだ。
「それ専用のものに変えてみてはどうでしょうか。剣士用のものとか、あり……ありますよね?」
聖騎士というとんでもなく頑丈な人間がいるこの世界に、防具の類があるのか不安になって聞くと、リコルは「あることはあるけど」と返答した。よかった、あった。
「うーん……印象にそぐわない、というか。違うというか」
小声で付け足された言葉の意味が分からず、キョトンとしていると、髪を束ね終えたリコルが、「いやいや」と思考を振り払うように首を振った。
「こういうのは私の主観では意味がないな。アオバ君」
「え、はい?」
「君から見て、私はどう見える?」
急に話題が変わった。「どう、とは」と口にしつつ、リコルを改めて見やる。金髪碧眼の、非常に目を惹く美形。立ち振る舞いに品があって、剣を振るう様も絵になっていた。一言で言うなら……。
「王子様、っぽいですね。物語に出てくるような感じの」
旧タイプではあるが、女性の憧れを詰め込んだ、現実味の薄いオーソドックスな王子様、といった印象だろうか。王族という地位や権力、未婚で、正義感が強くて真っすぐで、薔薇を背負って登場しても然程違和感は無さそうな(実際にされると怖いが)、白馬が似合いそうな美形。
リコルとは付き合いがそれほど無い(この一週間もほとんど話していない)ので、見た目の印象でしかないが、それを聞いたリコルは少し前のめりになって顔を近づけて来た。相変わらず、距離感が変な人だ。
「そ、そうか? 本当に?」
「はい。あ、でも、騎士っぽくもある、かも。剣のせいかな」
「う……そうか……でも、剣は必要で……いや別に騎士が駄目というわけではないんだが……」
付け足した言葉に、リコルは少し落胆した様子を見せたかと思うと、「いやいや、騎士だって目指すべき道の一つだ」と前向きになり、少し間があって、「だが本来の目標から逸れてはいないか……?」と、再び落ち込んだような顔をした。
「ええと……その、王子成分の方が強いですよ、今のところ」
「本当か?」
「はい。戦っている時が騎士っぽいってだけですから」
「そ……そうか! 誰かにそう言ってもらえると、安心するよ。ありがとう!」
言いながら、リコルはアオバの手を取り、両手で包み込んだ。何とか正解らしい答えを出せたようでホッとする反面、額同士が触れそうな程の至近距離はどういった意図によるものかと、普段以上にきらきらと輝く青い瞳を見つめ返していた時だった。
ノックも無しに扉が開き、黒髪の少女……もとい少年、セイラが顔を覗かせた。
「アオバ、起きて……る……」
目が合うと、笑顔だったセイラの表情が徐々に固まり、一歩退いた。
「……あの、ごめんね……?」
「え? いや──」
気まずそうに顔ごとそらす彼を見て、ようやく状況を飲み込めた。リコルの顔が近すぎるのだ。傍から見れば、迫られているように見えなくもない。
「あー……変な事は何も起きてないよ?」
「いや近すぎるでしょ……」
「? 何がだい? 二人とも、どうしたんだ?」
唯一状況が飲み込めていないリコルが、不思議そうな顔をしながら手を離した。
「リコル様のことですから、ぐいぐい顔を近づけていたのでしょう? 他意は無いんですよ、あれで」
セイラの後ろから、どこかぐったりとした生真面目そうな声がした。セイラが道を譲るように体を少し逸らすと、顔色の悪いウェルヤが、壁につかまりながら立っていた。その姿を視認すると、リコルは小走りで自らの従者の元へと駆け寄った。
「ウェルヤ! 起き上がって平気か? 辛いならこの屋敷を出るまで安静にしていてくれ。旅に出るわけでもなし、一人でも平気だ。寧ろ一人の方が、小言が飛んでこない分、楽だ!」
「近い近い近い近い! それ! 貴方、距離感が近すぎるんですよ! そんなだから、あっちこっちの社交界で子息令嬢に変な誤解を与えているんですよ!? というか楽ってなんですか! 貴方が奇天烈な事しなければ、私だって小言を溢す事ないんですよ!!」
言いながら、ぐいぐい顔を近づけるリコルから、ウェルヤは背を逸らして距離を取った。やや乱暴に肩を押して強制的に距離を離すという、主従関係にあるまじき雑な行動を取りつつ、ウェルヤは顔をしかめたままこちらを見た。
「御使い様も、嫌な事は嫌だと言っていいんですからね。言わないと聞かないんですから、この人」
「あ、いえ。近いなぁとしか思ってなかったので……」
「それはそれで、どうかと思いますが……」
やや呆れた様子でウェルヤは、「本人が嫌がってないんだからいいじゃないか」と呟いたリコルを睨んだ。
それを少し遠巻きに見ていたセイラが、「なるほどねぇ」と頷く。何が、とは口にせずとも視線で分かったのか、セイラは部屋に上がり、一瞬トランプタワーに気を取られながらも、すぐ隣まで歩み寄ってきた。
「いや、さ。仮に私がアオバの事を好きだったとしても、告白できたなーって」
「どういうこと?」
「断らないでしょ、アオバは」
言われてみれば、確かにそうかもしれないな、と考える。既に付き合っている相手がいない限りは、誰であろうともおそらく断らない。
「良くないよ、それ」
ぽつりと、セイラはそう付け足した。
どうして、と聞き返すはずだった言葉は、
「そういえば聖女様、朝早くから何か御用でしたか?」
リコルの穏やかな声で、断ち切られてしまった。
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