◇ 08
途端に静かになった部屋の室温が、急激に下がった。音もなくベッドの下から誰かの手が伸びてきて、そうっとその指が縁に乗った。
指の重みで布団の皺が動いた瞬間、
「──っ!」
止まっていた時間が動き出したように、アオバは飛びのいた。勢いでベッドから転げ落ちると、打ち付けた背中に痛みが走り、その場にうずくまる。今の衝撃で体が完全に起きたのか、腹部の内側から鈍い痛みがする。
(ユ、ユラさんは……っ)
縋るようにユラを探す。部屋の中には見当たらない。まだ帰って来ていないのか。
汗が噴き出た額を拭い、深呼吸をしながら震える体を起こしてベッドを見る。そちらにも何もおらず、ペルルが真珠色の目を不思議そうに瞬かせて、こちらを見ていた。
気のせい? 幻覚? 未だに激しい鼓動を、落ち着かせようと深呼吸を繰り返していると、ペルルがベッドから何かを拾い上げ、こちらに差し出した。
角の丸い、金色のクリップタイプの耳飾り。……ああ、そいえば、友人が似た形のものを付けていた。混乱する頭で、現状とはあまり関係の無い事を思い出しながらも、ペルルに感謝の言葉を述べてそれを受け取り、耳につける。
意外にも至近距離にユラがいて、思わず仰け反った。
耳飾りを外していたことで、ユラの姿が見えなくなっていただけらしい。
「あ……お、おかえりなさい」
「え? あ、ああ、ただいま」
ユラはキョトンとしながらも律儀にそう返し、触れられないながらも、汗を拭うようにアオバの頬に手を添えた。
「大丈夫か? 急に飛びのいたように見えたけど」
「あ、いえ……寝ぼけてた、かも」
笑って誤魔化そうにも、空笑いにしかならず、ユラの懐疑的な視線を避けるように顔を逸らすと、横から目の前に歩み出たペルルが、顔こそ無表情のままだったが不満そうに声を溢した。
「ぎゅう……」
「あ、あのね、ペルル。前から言おうと思ってたけど、抱きしめるのは、褒めるって事とは別だからね……」
「うー」
いいから、しろ。と不満そうに唸るペルルをしょうがなく抱きしめ、背を叩く。そろそろ、その辺りも理解できるぐらいには会話が成り立っていると考えているのだが、少々甘やかしすぎただろうか。真っ白なつむじに視線を落とし、寝起きに聞こえたペルルの言葉を思い返す。
(さっきの『飛べ』って……)
ラリャンザに滞在中も、ペルルは窓の外を見ながらつぶやいていたように思う。
アオバの記憶に残る、あの姦しい声とは別だろうか? 青空の下に響く、あの声とは、別なのか? 外を見ていただけ? 鳥か何かにそう言っていただけ? それとも──繁華街のビルの屋上で、誰かに『飛べ』と囃し立てていた、本人?
その人物が、ペルルの中にいる?
「……」
恐ろしく醜い何かがペルルの中にいるような気がして、腕の中の体温の無い少女の姿をした何かが、不気味に思えてくる。
「……ペルル」
「ん」
「さっきの、は……何」
首を傾げ、ペルルが不思議そうに目を瞬かせた。
「なにー?」
「あ……そ、そっか、分かんないか……」
おそらく、はっきりと思い出せていないのだろう。ペルルの中には数えきれない人数が押し込まれていて、それぞれの記憶は今の『ペルル』になる為に、消したり、潰してしまっているのだ。断片的な誰かの記憶を追及されても、ペルルには分からないはずだ。
ため息をつき、打ち付けてしまった背中をさする。
「本当に大丈夫か?」
不安気な声でユラが問う。ほとんど自動的に「大丈夫です。御心配おかけしました」と言ってから、呼吸が随分と落ち着いてきている事に気づいた。
「今って、何時ぐらいですか?」
「夜の……一時、二十八分」
「夜中ですね……」
なら、大人しく朝まで寝ていた方がいいか。そう思い、噴き出た汗で冷えて来た体をねじり、ベッドの方を見る。……何もいやしない。なのに、近づくのを本能的に拒否していた。体が動かず、その場に座り込んだまま、じっとベッドを見つめる。
「……アオバ。少し、外の空気を吸わないか」
その提案に驚いてユラを見やると、こちらを安心させるようにほほ笑む。
「目を覚ましてからずっと、部屋の中というのも窮屈だろう。歩く練習がてら、少し気分転換にでもどうかと思って」
「い、いいんですか?」
「ああ。見て来た感じ、治安はそこそこ良いようだ。商人の多い区域は、多少なりともならず者がいるが……そこに近づかなければ、然程問題はないだろう」
それに。と、ユラは続ける。
「調査の結果も、散歩がてら伝えよう」
*
宿を出て、ユラに案内されながら道を歩く。休んでいた部屋からも活気な様子は見えていたが、夜中の人通りの無い道を歩いても、住宅や店の多さや、人の往来の痕跡が感じ取れた。
赤い日差しに照らされながら、こちらのぎこちない歩調に合わせて、ユラが言う。
「まず、最初に。ランピ・エダルという言葉についてだ。私はこれを、一つの単語として認識していたが、どうやらそうではないらしい」
「何か別の意味があるんですか?」
「そのようだ。大前提として、土贄の儀は、現在は保護区となっている場所に住んでいた、『ラン』という子供が『エダ』という人物に捧げられた事が始まりらしい」
『ラン』はラバ族だったらしい、とユラは付け足す。
ユラが言うには、その物語はこうだ。
ある年、森の恵みも少なく、畑も不作で良い事がまるでなかった。そこに『エダ』と名乗る者が現れて、「毎年一人、私が言う人間を差し出せば、土地を豊かにしよう」と言った。里の者は半信半疑ながらも、このままでは飢えて死んでしまうと考え、『エダ』が指名した子供──『ラン』──を差し出した。するとたちまち、里どころか、世界中の土地が豊かになり、毎年一人、『エダ』が指名する人間を差し出すようになった……。
「しかし八百年以上も前の出来事を口伝し続けたせいか、この説はいくつか分かれていて……『ランは差し出されたのではなく、エダに攫われた』とする説がある。それが、ランピ・エダルの語源になっている。神様……もとい『エダ』が人食いの怪物だったと判明した現在は、かなり強力な支持を受けている説でもある」
「なるほど……それでリコルさん、顔色が変わったんですね」
あまり日常生活では聞きたくない、嫌な言葉。しかもその『ラン』を模したと思われる人物が、その言葉をもじった名前を名乗っている……なんて、リコルでなくとも顔色を変えるだろう。いや、リコルはその声を聞いてしまっているのだから、余計にだ。
あの時アオバは──御使いとして話を聞きながら──、リコルに『貴方たちが八百年間続けて来た儀式の、最初の犠牲者が貴方に“許さない”と言っているのではないか』……なんて、相当不気味な事を言っていたのだ。
「リコルは大勢を見殺しにしてしまった、という何かしらの出来事に、思うところあったようだし、ぎょっとしただろうな」
「うわぁ……後で謝っておかなきゃ……」
この世界や相手の背景を考えずに、こちらの事情だけで物を言うものじゃないな、と反省しながら、ユラの後を追いかける。
どこも悪いところが無いペルルの方が歩調も早く、半ば手を引かれるようにして歩いていると、不意にペルルが振り返り、こちらの更に後ろを見るような動きをした。
「どうしたの?」
「んー……んん? んーん」
首を傾げ、真珠色の目がこちらを見上げたかと思うと、何でもないよ、と言いたげに首を振った。
「そう?」
「うん」
「じゃあ、いいけど」
言っている間にも、目的地が見えて来たのか、ユラが前方を指さした。
「あそこに、それについて書かれた石碑が……──うん?」
言い終える前に、ユラが眉をひそめた原因が目に入った。石碑があるであろう茂みのその手前に、見覚えのある人物がいた。
その人物は木々に身を隠すようにして、石碑の方を見ているが、赤い日差しを浴びた金髪が輝き、品のある立ち姿は、後ろ姿だけでも妙に目立っていた。
「リコルさん」
「!」
姿がはっきりと見える距離まで近づき、声をかけると、リコルは驚いた表情で振り返った。
「ア、アオバ……か」
「すみません、驚かせてしまって……」
「いや、君が接近してきたことに気づかなかった、私の鍛錬不足だ。気にしないで。ところで……こんな時間に、どうしたんだい?」
「少し気分転換に、散歩でもと」
「そうか」
言いながら、リコルは石碑の方に顔を向きなおした。それからすぐに、「あれっ」と声を上げる。
「いなくなった……?」
「どなたか、いらっしゃったんですか?」
隠れるのを止め、石碑に近づくリコルを追う。周囲を隈なく観察して、リコルは言う。
「宿から女の子が一人、外に出るのが見えてね。なんだか足取りがフラフラとしていて危なかったから、声をかけたんだけど……聞こえてなかったのか、そのまま行ってしまったから追いかけて来たところだ」
従者の姿が見当たらないところを見ると、一人でここまで来てしまったのだろう。この事を知ったら、ウェルヤは胃を痛めてしまいそうだが、暗くならないとはいえ夜中に女の子が出歩いていた、という事の方が気がかりになり、アオバは質問を投げた。
「どんな子ですか?」
「ええと……人攫いの被害者の一人だったかな。黒っぽい髪で……こういう」
言いながら、リコルは片手で側頭部に拳をつけてみせた。片側だけ結い上げた髪型なのだろうか。
「それなら、もしかして──」
その髪型で思い出したのは、ゲーシ・ビルの宿娘だ。彼女ではないか、と名前を知っているかも定かではないリコルに伝えようとした、その時だった。
「──下がれ!」
ユラの鋭い声が耳に届いたかと思うと、彼女の薙刀で、リコルから離れるように押された。慌ててペルルを抱きかかえて尻餅をつくその前に、金属同士がぶつかり合うような音が響いた。
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