◇ 03

 手を、誰かに触られている。


 それを意識した瞬間、覚醒した。いつの間に眠ってしまったのだろうか。アオバが触られている感触がする手を持ち上げると、声変わりが始まったばかりなのだろうか、少し掠れた少年の声がすぐ近くであがった。


「起きた?」


 銀灰色の長い前髪の少年が、ベッドの脇に座っていた。髪は自分で切っているのだろうか、僅かに見える後ろ髪はざんばらだ。まだ可愛らしい、という表現が似合う小柄な少年だが、隠すような前髪の奥の朱色の目は、不自然なほど大人びて見える。


 数回瞬きをし、空いている方の手で瞼をこする。


「ここは……?」

「ゲーシ・ビルだ。君、保護区で倒れていたんだ。覚えているか?」


 ゲーシ・ビル、というのは町の名前なのか、それとも何か建造物を指しているのか分からなかったが、窓から差し込む日差しから、あの雪景色の中ではない事は分かった。


「……保護区?」


 倒れていた、という場所が気になって聞き返すと、少年はまじまじとアオバを観察しながら口を開く。


「雪原、と言ったら分かるかな。今日は随分と吹雪いていたが……」

「あ、あー……あれ、保護区なんだ」

「一般の人はそう入らない区域だからね。ピンと来なかったならすまない。それより、体は平気か? どこか痛いところはないか?」


 少年に言われるがまま、少し身をよじり、空いている片手で自身の体に触れてみる。特に変わった様子は無い。しいて言えば、小屋にたどり着いてからの気分の悪さは随分和らいでいる。


「大丈夫、みたい」

「よかった。君、精霊に呪い殺されかけてたぞ」

「えっ」


 ぞっとして、勢いよく体を起こした。貧血を起こしたのか、視界が明滅して気持ち悪くなり、額を押さえる。先ほどから少年が触っている左手は、動きが鈍い。小さな手が押す度に、じりじりとした痛みが広がる。


「この辺りの精霊じゃないな……どこかの町で、精霊の気に障る事をしたんだろう。応急手当は済ませたが、きちんと治療を受けた方がいい。この手も……軽い麻痺を起こしているから、ついでに診てもらうといい。今の俺は聖騎士の卵エイ・サクレだし、精霊に呪いの軽減をするよう交渉する程度のことしかできないからね」

「えいさ……?」


 聞き慣れない単語を思わず繰り返すと、不思議そうに少年が首を傾げた。


聖騎士の卵エイ・サクレは、聖騎士の卵エイ・サクレだろう? 君が住んでいた町にはいなかったのか? 聖騎士になる前の、精霊の加護を受けて誕生した者の事だ」

「え、と……聖騎士って、普通の騎士が教会に認められて……みたいなのじゃないんだ?」

「何言ってるんだ? 聖騎士は、聖騎士の卵エイ・サクレしかなれないぞ」


 どうやら、この話はこの世界での常識らしい。てっきり、教会に仕えるなりして、教会に認められた騎士の事を聖騎士と呼ぶのかと思っていたが、違うようだ。


(そういえば、カインも『この国の聖騎士はほとんど王家に仕えている』って言ってたか。宿屋で会った聖騎士の女の人も、“見たら分かる”って言ってたし……)


 外見も普通の人とは違うのだろうか? じろじろと少年を見てみるが、これと言って他と違う特色らしきものは見当たらなかった。とりあえず、この少年が聖騎士の卵らしい。ユラなら何か知っているかも、と思い、アオバは周囲を見渡し──彼女たちがいないことに気づき、「あれっ」と声を上げた。


「あ、そっか、僕一人だけ落ちたんだっけ……」


 不意にその事を思い出し、不安に駆られた。ペルルたちは大丈夫だろうか。ユラが一緒なのだから、危険な目に遭う心配はないけれど……。このまま離れ離れでは、約束が守れない。ペルルの中にいる無数の人々を、元に戻すという約束は、こんなことで放棄してよいものではない。


「助けてくれてありがとう。僕、戻らないと」

「待て」


 ぐい、と。少年がアオバの肩を掴んだ。細身で小柄な少年からは想像がつかないほどの力で抑えられ、驚いて少年の顔を見る。表情を変えずにアオバを見る少年の朱色の目と目が合った。


「その状態で森に入っても、精霊に妨害されるだけだ」

「あ……そ、そっか。ええと……」

「落ち着け。一緒にいた真っ白な女の子は、君の連れか?」

「え、ペルル、いるの?」

「ペルル、か。ちょっと待っていてくれ」


 そう淡々と言って、少年は席を立ち、近くの扉を開けた。途端に賑やかな声が聞こえてくる。少年がペルルの名を呼ぶと、パタパタという小さな足音が近づいてきて、真っ白な頭がひょっこりと顔を出した。


「ペルルっ」

「あおば」

「よ、よかったぁ……置いて行っちゃってごめんね」


 無表情のまま、ペルルは目の前まで歩み寄り、両手で持っていた鞄を差し出した。置いて来てしまったと思っていた鞄も、彼女が回収してくれていたらしい。


「ありがとう、ペルル」

「ぎゅう」

「あ、はい。ペルルは偉いね。良い子、良い子」


 要求されるがまま、ペルルを抱きしめて褒めていると、もう一人、扉から顔を覗かせた。ユラだ。すぐ隣まで歩み寄る彼女に思わず声をかけようとするが、ユラが『静かに』というジェスチャーをしたのを見て口を噤む。そのまま彼女が少年に視線をやったので、意図を汲んで頷いた。少年にユラが見えていないのだから、このままユラと会話を始めたら、急に独りで空中と会話する妙な人になってしまう。


 少年に向き直り(ペルルの両肩を掴んで、彼女も少年に向かせて)、礼を言う。


「あの、本当にありがとう。ええと……」

「……アティ、でいい。君はアオバ、でいいのかな」


 少年の目が一度、ペルルに向けられる。先ほどペルルが呼んだもので合っているか、と言いたげだ。肯定的に頷けば、アティと名乗った少年は満足そうに少しだけ微笑んだ。


「それでアオバ、どうして保護区にいたんだ?」

「実は、ちょっと落ちちゃって」


 言った瞬間、ユラが訝し気な表情になった。『ちょっと』と言う部分が引っかかったらしく、小声で「ちょっと……?」と繰り返した。彼女の姿も声も認識できないアティは、別の部分を切り抜いた。


「落ちた?」

「ベディベに向かう途中で休んでいて……疲れてたのかな、肩に触られただけでそのまま崖から落ちちゃって」


 かいつまんで説明すると(隣からため息が聞こえた)、アティはまじまじとアオバを見つめ、申し訳なさそうに肩を落とした。


「君、金銭の類を一つも持ってなかったぞ」

「うん? ああ、それはお金が入った袋を、あの場に置いて来たから……」


 雪景色に落ちる前の出来事を徐々に思い出す。そういえば荷物を下ろしていた。その時にロゼが肩に触れたのだ。まさかそれだけで落ちるとは自分でも思っていなかったが、それはともかくとして、ロゼが罪悪感を抱いていないと良いのだが。


「ロゼさん、気に病んでないといいんだけど」

「いや、そうじゃなくて。君、突き落とされたんじゃないのか? 金目当てで」

「そうだ、そうだ。アオバはあの女に突き落とされたんだ」

「あはは、まさか」


 便乗するユラに、「何の根拠もなく疑えないよ」と、付け足すと、少年と共にユラは何か言いたげに、短くうなった。「よくその歳まで無事に過ごせたな……」という二人の小声が重なった後、アティは目を伏せた。


「一応、伝えておくが……ここはシャニア王国ではない」

「え?」

「ここは“サネルチェ公国”の保護区西部境界線に隣接した町、“ゲーシ・ビル”だ」


 一瞬、時が止まったかのように感じた。隣に立つユラがまったく動揺しなかったあたり、彼女はとうに知っていたのだろう。しばらく互いに見つめあった後、アオバは口を開く。


「えっと……僕はいつ、国境を越えて……?」

「ベディベに向かっていた……のは嘘だろう。だって君を見つけたのは、この町に隣接している保護区内だ。おそらく君は騙されて、シャニア国内の保護区のすぐ近くまで連れて行かれ……保護区内に落とされた。それを俺が見つけて……事情も知らずにこっちに連れて来た、といったところだろう」


 ロゼがアオバを騙して何の利があるというのか。いや、きっと少し遠回りしただけだろう。それはさておき、気になるのは別の部分だ。


「……あの、僕もしかして、不法入国……」

「え、そこか? うん、まあ……そうだな……とはいえ、連れ込んだのは俺だ。役所に行って、事情説明をして、身分証の提示と、いくつか書類に署名をすれば、すぐに帰れるはずだよ」


 一瞬戸惑いつつも、アティはあっさりと言う。しかし困った事にアオバには身分証明できるものが無い。はっとして胸ポケットを探り、シャルフから渡されていた書類の無事を確認し、安堵の息をついた。これも無くしていたら大変なことになっていた。


「それは?」

「身分証の発行書類……です」

「ということは、今は身分証を持っていないのか」

「はい……」

「……さすがに他国で発行は難しいな」


 困ったように、少年が眉根を寄せた。それでも落ち着き切った朱色の大きな目が、髪越しにちらりとアオバを見た。


「ベディベに、急ぎの用事があったのか?」

「えっと……ベディベというか、王都の方面に行きたかったんだ。急ぎ……まあ、急ぎかな……」

「そうか。王都か……」


 少し考えるように腕を組み、少年は口元を手で隠した。小柄な体を丸め、片足だけあぐらをかいたその膝の上に、肘を乗せた。


「うん……まあ、いいか。数日待ってくれるなら、シャニアに戻る案内をしてやれるんだが、どうだ?」

「え、でも、僕、身分証は……」

「ああ、だから、関所を通らない道だ」

「……それって、密入国って言うんじゃ……?」


 指摘すると、アティはにこりと作ったような笑顔を浮かべた。


「ちょっと国境を跨ぐだけだよ」

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