◇ 11
地図をベッドの上に広げ、気分転換もかねて部屋の窓を開ける。少し日が傾き始めた空が見え、冷たく乾いた空気が部屋に入り込む。窓を背に部屋を眺めると、地図を眺めるユラと、それに飽きたのかベッドの端でうつぶせになり、足をパタパタとさせているペルルが視界に入った。二人との約束を守るためにも、やるべきことを一つずつ整理していく。
まずは宿代。
ベッドの脇に置いていた布袋を見る。食事代も込みで一週間滞在となると、元居た世界では何万もかかる。異世界であるここの相場はまだ分からないが、二千では足りない気がする。手持ちの物を売ろうにも、スマホぐらいしか持っていないし、さすがにこんなハイテク機器をこの世界に流すわけにもいかない。能力で何か作ろうにも、この世界で値打ちのあるものが分からないので、これも調べる必要がある。
歴史に関する事や地図は、この規模の町で資料館が一応あったのだから、他の町でも手に入れられるだろう。
あとは……。
再び頭に浮かんだのは、カインたちだった。どうにもできないと割り切ったつもりでも、どうしても気になってしまう。青葉の行動で傷つけてしまった夫妻が気になる。どうする事もできないカインの顔が過る。いつ死ぬかも分からないフロワが可哀そうだと思ってしまった。
「アオバ」
何か感じ取ったのか、ユラが声をかけてきた。
「なんでしょうか……?」
「いや……」
ユラが僅かに躊躇った。それから、彼女は視線を逸らし、赤く染まった窓の外に目を止めた。
「もういい時間だな。晩御飯にしたらどうだ」
「……そうですね。ペルルもおなかすいたかな」
ぎこちないやり取りの中、ペルルだけがいつも通りの無表情のままベッドから降り、青葉の手を握った。
***
食堂を覗くと、少し前までいた常連客らしき男性陣はおらず、宿泊客であろう何人かがぽつぽつと席について食事をとっていた。カウンターから見える厨房にはメアが入っており、青葉を見つけて軽く手を振ってきた。
「今日はごめんね。お詫びに大盛りにしとこうね」
「えっ。いえ、悪いですよ」
「遠慮しないで、子供はたくさん食べなきゃ駄目よ」
そう言って、メアはスープを多めに入れ、昨日は無かったパンをつけた。メアの気遣いに感謝してそれらを受け取ると、青葉の横にぴったりとついていたペルルが、興味深そうにパンを見ていた。意外と食に興味があるらしい。
礼を言って席についたところで、ユラが何かに反応して顔を上げた。窓を見て動かない彼女を不思議に思い、青葉も窓の外にいるであろう何かを探すが、特に見当たらない。
「ユラさん?」
「……すまない。少し外に出てくる。すぐに戻るから、今日はさっさと寝ろ。いいな」
念押しするようにそう言って、彼女は側頭部のピンを抜き、顔に布をかけると、曖昧な姿になりながら壁をすり抜けてどこかへと去っていった。
「どうしたんだろ……」
少しは疑問に思ったものの、すぐに「まあいいか」とそれを脇に置いた。ユラが間違えた事を言った事は今のところないし、彼女は悪い人ではないのは確かなのだから、何も心配しなくていいはずだ。
食事を済ませてしまおうと、手を合わせたその瞬間──ガラン、ガラン……と、遠くの方で鐘が鳴る音が響いた。鐘自体に傷が入ってしまっているのだろうか、知っている鐘の音よりも、響きが悪い。
何の音だろうかと思う青葉を他所に、周囲の人々は胸の前で手を組み、目を閉じた。きょとんとしていると、近くに座っていた客が肘で青葉をつついた。
「何してんだよ。葬儀だぞ」
「葬儀……」
『今日中に行う』と言っていたシャルフの言葉を思い出し、理解した。これは教会の鐘の音だ。ならば、鳴らしているのはカインだろうか。休みだと言っていたのに、悪いことをしてしまった。
しかし、教会内に集まるわけでもなく、こうして皆で祈っているのはどういうことだろうか。未だ分かっていない顔をしている青葉を見かねて、つついてきた客が小声で教えてくれる。
「死者への安寧と、生者への慰みを精霊に願うんだ」
「あ、は、はい」
それが、この世界の葬儀の在り方らしい。周囲に倣って胸の前で手を組んだ。ペルルにも真似するように見せると、彼女は握っていたスプーンを置き、小さな手を組み合わせ、よくわかってなさそうなまま目を閉じた。遅れて、青葉も目を閉じる。
瞼の裏に浮き出たのは、頭だけを残して溶けてしまった少女だった。当然だ。青葉にとってユアラという少女に関する記憶はそれしかない。でも、それではあんまりだ。
生気のない濁った緑の瞳に、明かりを入れた。乱れたブロンドを整えた。幼い背格好に、この町に何度か見かけた女性の服のサイズを合わせてみた。想像の中で形作られた少女は、誕生日に贈られた白磁の人形を持って、好奇心のままにどこかへと走り出す。
……これはただの妄想だ。青葉がこの世界に来る前に亡くなった、救うという選択肢すら与えられなかった少女を思い描いても虚しいだけで、なんの慰めにもなりはしない。
交互に組んだ指に力が入る。ただ、懸命に祈った。
あの夫婦が心穏やかに過ごせますように。
もう名を呼ばれることのない少女が、安らかに眠れますように。
そう願った。そうあってほしいと、信じた。見えもしない精霊に、彼らの安らぎを訴えた。──途端、触れてもいないはずの音叉が、
リン、
と、小さく音を鳴らした。
「!」
思わず目を開け、胸元の音叉を握りしめた。鐘の音が鳴り響く中はっきりと聞こえたその音に、反応したのは青葉だけだった。
ふわりと、ペルルの体から一粒の小さな光が舞い上がる。風に揺られるように漂い、天へと昇っていく途中、青葉の額に一度だけ当たった。
(……僕が願ったから?)
思い当たる節はそれしかなかった。『想像した物を作る』という不可思議な能力が、音叉に付与した力の一部である『フラン・シュラに取り込まれた命を天へと還す』という部分に作用してしまったのではないか。
(なら、今、死んだのは……)
呆然とペルルを見つめていると、彼女の瞼が持ち上がった。長い睫毛に縁取られた真珠色の目が、青葉を見つめ返す。
人形じみた精巧な顔は相変わらずの無表情で、しかし青葉には責められているような気がして、目を逸らせないままでいた。
「おーい、どうした?」
不意に声をかけられて我に返った。周囲の音が戻ってきて、にぎやかな話声が急に耳に入って来る。葬儀の祈りはとうに終わったらしい。こちらの顔を覗き込んでいるのは、先ほど青葉をつついて葬儀について教えてくれた客だった。「なんでもないです」と慌てて愛想笑いを浮かべると、「ならいいや」と客は食事に戻った。
ぎこちない動きのまま、青葉も食事にしようと習慣的に手を合わせた。ペルルもワンテンポ遅れて真似をする。食欲は無いものの、パンを手に取り、一口大に千切る。視界の端でペルルがスプーンを咥え、頬を動かしているのが見え──不意にそれが止まり、ペルルはスプーンをスープに浸しながら小さく口を開いた。
「おにんぎょ」
「……うん……?」
「さぁした。ありあと」
言葉の意味が分からずペルルの顔をまじまじと見つめる。
「まちあえなー……まち、まち……ゆうー?」
「うーん……?」
舌足らずな彼女の言葉は、幼い子と接する機会がそう無い青葉には、上手く聞き取れない。お人形、までは分かったが……。
(さーした……ってなんだろ。さあした……さーし、さあ……探した? お人形、探した……ありがとう、か……?)
洞窟での出来事を言っているのだろうか? でもどうして急にそんなことを言い出したのかが分からない。
(まちあえ……?)
続いた言葉を解読をしながら、千切ったパンを口に入れる。香草の香りがするが、味は淡泊だ。ペルルも食べられそうだ。サイズもそう大きくないし、彼女でも食べきれるだろうと思い、そのまま全部ペルルに差し出した。空いている手が受け取り、青葉の真似をして千切って口に入れた。
「まちあえなーで。ゆーね。やぁそく、よ」
頬を動かしながら、ペルルはまだ何かを言っている。言葉を発する度に、じっと青葉を見つめてくるところを見ると、何かを伝えようとしているらしいと察する。
「まちあえ、なーで……?」
時々復唱しながら、分かるところから埋めてみる。最後の「やぁそく」は「約束」だろうか。じゃあ「ゆーね」は……? ゆう? 言う?
(まちあえ……まちがえ……? 間違えないで……)
──間違えないで言ってね。約束よ。
あてはめた言葉を繋げ、固まった。人形を探した事に感謝し、その言葉を間違えないで伝えてほしいと、ペルルの中の誰かが言っている。否、誰かではない。発狂した転生者たちで構成されているペルルは、まだこの世界の言葉を理解しきれていない。当たり前のようにこの世界の言葉を使い、洞窟の前で青葉に人形を返すよう催促したのも、こうして伝言を頼んだのも、この世界の住人であるユアラしかいないはずだ。
それが、正解なのかは分からない。だけどもう、そうとしか思えなくて、ペルルを見つめる。いつ、ユアラと話したのだろう? それともペルルが適当に言っているだけなのか。それでもよかった。自分の行いは正しかったと、その考えを補強できるなら──。
嘘でもよかった。
その僅かな救いに縋れるなら、嘘でもいい。
「ペルル。ありがとう、ちゃんと伝わったよ」
「……んー」
視線が青葉から外れ、パンに移された。千切って、余ったパンをペルルがこちらに差し出す。先ほど青葉がペルルに与えたのを、真似しているらしかった。
「……ありがと。半分こにしよっか」
ペルルのこの優しさは、理由も分からず模倣しているだけだ。そう知っているのに、救われるのだ。
同時に、己の醜さを痛感する。
人から救いを奪っておいて、自分は優しさを享受する。身勝手だ。
人形を探して、彼女の両親に渡したのは、ユアラにとっては正しい選択だった。同時に、娘は生きているという希望を持ち続けていた彼女の両親にとっては、間違った選択だったのだ。子供がやった事だからと、彼らが大人の対応をしたから丸く収まっただけだ。
ラピエルは言った。「その尊大さは滑稽で嗤える」と。青葉は優しいつもりでいる。誰にも傷つかないでいてほしいと願い、優しくすることで周囲が救われると信じている。
それは誰かに対する奉仕のように見えて、常に誰かに“何かを与える立場”だと言っているに等しい。実に尊大だ。そして、結果がついてこない滑稽さを、ずっと見ていたラピエルは嗤っていた。
全てを救える神様にでも、なったつもりか、と。
今の青葉には、かつての生き様と、今の自分を恥じる事しかできなかった。
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