第16話 無垢な花は外を知り黒く染まる

 校長室の扉を閉めると同時に、大きな鐘の音が頭上から響いてきた。

 授業の終了を告げる鐘だ。

 廊下を進んで教室が並んでいる区画に入ると、来校時には全く見ることのなかった生徒の姿をちらほらと見かけるようになった。

 此処に通う生徒は、基本的に皆裕福な家庭の出身だ、という話だが、確かに彼らが身に着けている装束は一目でそこそこ良い値段がする品であることが分かる。

 因みに、今日のミラは普段の畑仕事用の作業服ではなく、アヴィル家が用意した礼装を身に纏っている。

 アヴィル家に嫁ぐ花嫁を象徴する、白を基調としたドレス。喉元からきっちりと肌を覆う最高級のシルクで丹念に織られたそれは、要所に銀糸で細やかな刺繍が施され大小様々な大きさのダイヤモンドが散りばめられている。動きの妨げにならないように裾は膝下に届くくらいと一般的なドレスと比較して短めではあるが、パニエでボリュームを持たされたスカートは下から覗き込むと花びらを開かせた薔薇の花のように見えた。

 靴は、牛革を丹念になめして仕立てられた膝上丈の編み上げ式のロングブーツ。色はもちろん白だ。ヒールは幅広で五センチにも満たないほどの高さしかない。これは、ミラが「ハイヒールは履き慣れていないから転びそうだ」と主張したためこのようなデザインになったのだ。

 竜人ドラゴノアの象徴色を基調とした礼服は、その種の竜人ドラゴノアもしくはそこに嫁いだ人間にしか着用を許されていない。リボンやタイ、カフスなど差し色として多少含まれる程度であれば咎められないが、礼服本体にその色を用いた装束を人間が身に纏うことは罪となり、罰せられるのだ。ミラが公の前で堂々と白のドレスを着用することは、彼女が竜人ドラゴノアケテル種に嫁いだ女であることの証であるとも言えた。

 すれ違う生徒たちの目が、ちらちらと自分に向けられていることをミラは肌で何となく感じ取る。流石に堂々と直視してくる者こそいないが、まるで覗き見られているようで落ち着かなかった。

 ……アヴィル家のお名前に傷を付けないように、粗相がないように振る舞わなきゃ……

 と、自分で自分に言い聞かせるものの、ミラは支配者階級の女らしい振る舞いや礼儀を正式に習っているわけではないため、何をどうすれば『それらしく』見えるのかが分からず。なるべく足音を立てないように廊下の端の方を歩く程度のことしかできなかった。

 ……実は支配者階級の者は基本的に道の中央を歩くものなので、彼女がやっていることは全くもって逆のことなのだが、とにかく失礼がないようにしなくては、という思いで頭の中が一杯になっている彼女にはそこに考えが至るほどの余裕がないようである。

 教室が並ぶ区画を通り過ぎ、授業用の特別室が並ぶ区画へと入る。美術室、音楽室、薬品保管室……実に様々な部屋が並んでいる。先程まで使用中だったのか、室内には誰もいないが明かりは点されたまま、という部屋も中にはあった。

 大きなテラスのような広い部屋に出る。

 此処は、生徒たちの休憩所として使われている場所らしい。外の光を大きく取り入れられるように壁の一部が全面的なガラス張りになっており、植物の鉢植えが飾られ、天井にはゆっくりと回転している黒塗りのシーリングファンがある。現在は室内が明るいため作動していないようだが、照明用の魔機が組み込まれた特別製のようだ。

 ベンチが幾つも並び、そこには生徒たちが腰を下ろして仲間たちと会話している。年の頃は、多少はばらつきがあるものの、ミラよりも世代が上と思わしき者たちばかりで、幼い子供の姿はなかった。子供は体を動かす方が好きなので、存分に走り回れる場所の方に集まっているのかもしれない。

 賑やかだなぁ……

 いずれは自分もこの輪の中に入るのか。これから経験することになる、まだ見ぬ世界に仄かな期待を抱きながら、彼女はテラスに足を踏み入れた。

 その瞬間。一瞬場の空気がざわめいて、辺りの談笑がぴたりと止まった。

 ……え?

 唐突の沈黙に、ミラは思わずその場に足を止めた。

 周囲を見回すと、向けられていることが分かる、視線。困惑、忌避、嫌悪……まるで学び舎の色をそのまま表しているかのような、仄暗い感情が含まれた、眼差し。

 まるで、今の自分は闇の中に浮かぶ一匹の蛍のような。そんなイメージすら、沸いた。

 ……も、もしかして、私、此処に入っちゃいけなかった……?

 慌てて外に出ようと踵を返しかけて──振り向いた先に、セピアのドレスを纏った長身の女生徒が何人かを後方に従えて佇んでいることに気が付き、ぎょっとしてしまった。

「貴女がミラ・ユッタ?」

 相手が掛けた眼鏡越しに視線がぶつかると、その女はヴァンダイクのセミロングヘアを掻く仕草をしながら、問うてきた。

 言わずもがな、ミラと彼女は初対面である。だが、ミラは自分がセトの婚約者という肩書きで有名であるという認識はあったため、相手が自分の名を知っていることに関しては特に疑問に感じることもなく、頷いた。

「は、はい」

「やっぱりね。平凡な顔で胸も背も小さい人間の娘、そのくせに白の礼装なんて不釣合いな格好をしてるから、一目で分かったわ」

 釣り上がった細い眉、それとセットで誂えられたかのような目尻の鋭い黒の双眸。それで、彼女はミラの顔を上から高圧的に見下ろしている。

「お粗末な容姿、その上『素質』も全くない、辺境の農村出身の女。……それでル・セト様を誑かすとか、一体どういう姑息な手を使ったの? ああ、貴女の実家は薬屋なんですってね。ひょっとして、あの御方に媚薬でも盛ったのかしら?」

「……そ、そんなことなんてしてません! セトさんは……」

「お黙りなさい。あの御方と契りを交わしていない貴女は、まだ平凡な平民の娘でしかないのよ。つまり、上流階級の私よりも階級が劣っているということ。そんな貴女がこの私を差し置いてあの御方を『セトさん』だなんて親しげに呼ぶとか……身の程を弁えなさい」

「…………」

 ミラは唇を結んで俯いてしまった。

 相手の主張は全くもって言いがかりではあるが、間違ったことも言っていない。確かに現在のミラはセトの『婚約者』なので、身分としてはまだ平民。アヴィル家の者たちは彼女を義妹として扱い家族の一員だと主張してはいるが、公的には同じ一族という括りでは扱われてはいないのである。あくまで『同じ屋根の下で暮らしている他人』なのだ。

 眼鏡の女はミラとの距離を詰めると、彼女が首から下げていたペンダントを無造作に掴んだ。幼少時にセトから贈られた、再会の約束の証だと彼が言った指輪だ。

「……竜人ドラゴノアケテル種の種紋を刻んだ品を、貴女如きが賜るとか。全く、何処まで生意気なのかしら」

「その御方……レオノーラ様は、選定の儀で司祭様から稀に見る優れた『素質』をお持ちだとお褒めのお言葉を頂いた方なんですよ。そればかりでなく、神様がお与え下さった生まれながらの美貌、培われた品性……この世で最も、未来の王の番として相応しい方なのです!」

 眼鏡の女──レオノーラという名前らしい──の背後に付き従っていた女生徒の一人が、まるで我が事のように自慢げに声を上げる。

 種紋。竜人ドラゴノアは各々の種の象徴たる『色』と『宝石』を持っているが、それ以外にも種を象徴するものとして『種紋』という紋章を持っている。彼らは人間と異なり家紋を持たない代わりに、種の象徴たる紋章を持っているのだ。

 ケテル種の種紋は、王冠を被った威厳ある人の横顔を象っている。指輪をセトから貰った当時のミラは、指輪の宝石に彫られた紋章を見てもそれが何なのかは理解できなかったが、後にセトから紋章の意味を教わってからというもの、一層大切にこの指輪を扱ってきたのだ。

 セト曰く、指輪は子供用の安物で玩具のようなものだそうだが、それでもミラにとってはこの指輪が『初めて貰ったセトからの贈り物』であることに変わりはない。もはやこれは彼女の宝物なのである。

 それを、こんな乱暴に扱われるとか。ミラは基本的に他者に対して手を上げたり悪口を言ったりと攻撃的な態度は取らない性分だが、これだけはどうにも我慢がならなかった。

「やめて下さい……その指輪を、そんな風に扱わないで!」

 ミラは声を荒げると、指輪を掴んでいたレオノーラの手をばしんとひっぱたいた。結構良い音がして、叩かれたレオノーラ当人は無論のこと彼女が従えていた取り巻きたち、更には周囲で事の傍観者になっていた生徒たちもぎょっと目を丸くした。

 叩かれた手の甲が、うっすらと赤くなっている。それを見て、レオノーラは身を戦慄かせる。

 整ってはいるが、美貌よりもむしろ高慢さの方が目立っていた顔が、みるみる醜い怒りの色へと染まっていった。

「痛……この、よくも、たかがつまらない平民の分際で、バンヴァーラ家の子女たるこの私に手を上げるとかっ……」

「レオノーラ様! お怪我はありませんか!?」

「ちょっと、貴女、レオノーラ様に対して何てことを! 今すぐそこに跪いて謝罪しなさい!」

 取り巻きたちが無理矢理ミラを床に押さえつけようと手を伸ばして迫って来るが、その手たちを振り払って、ミラはその場から逃げ出した。

 初めて直接向けられた他者からの嫉妬や蔑みに、瞳には薄く涙が浮かんでいた。

 先程校長室でリソラスから聞かされた言葉が脳裏に蘇る。

 愛玩人形、不用品──その時はひょっとしてリソラスが事実を誇張して冗談ぽく言っただけなのではないかと思っていたのに、実は誇張でも何でもなくて正真正銘の『そのままの事実』であったことを思い知らされて。

 世間の女性たちにとって、自分は敵……悪しきものの象徴だったということを自覚して、心の中に暗い影を生んでしまうのだった。

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