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 そうしてぼくらは書きたいものを書く、から書かなくてはならないものを書く、に徐々にシフトしていった。ぼくはSFが書きたかった。ファンタジーも書きたかった。けれど別に現代物、つまり純文学はぜんぜん書きたくないし、書く意味もないと思っていた。しかし、現にそればかりが評価され、今となってはひざのうらはやおがSFの書き手であると考える人間はだれもいない(Twitter調べ)くらいになってしまった。純文学なんておもしろくもないし一番何を書くべきかわからないし、ひとの作品を読んでも特におもしろいとは感じられないのでぼくはそれほど好きではなかった。ただ芥川賞を読んでいたのは、なんというか、それを読むこと自体が書き手としての矜持のひとつであるという風に半ば強迫的に思っていたからであって、現に「別に芥川賞を読んでいたからといって何かが変わるわけではない」と思うようになってからは読まなければならないという思いはなくなった。どのような創作の場であっても、発言には一定の権威との勘案が付き物であって、ぼくが何を発言しても自由かというとそういうわけではなくて、ぼくはぼくたらしめているものについてしか発言を許されないし、ほかの書き手の皆さんもそうであるわけで、つまるところぼくは発言したいこととその立ち位置が常にねじれているというその状態を打破したいと常に思っていた。それは常に、書くものに現れ続けていたといえる。同人作品化を初めて行った「The magic nightmareまじない」からして、主人公は運命に翻弄されるし、いかなる手段を講じたところで最終的には同じ結末を迎えるというのがひざのうらはやおのごうがふかいなであることがここからしてにじみ出ている。物語というのは必ずしも語られるべきところが語られるとは限らず、むしろ語られないところが存在して隠されたピースが最後まで見つからないことによって景色がより鮮明に見えるようなものがぼくは好きだ。作家でいうと森博嗣がかなりその琴線を撃ち抜いている。しかしぼくは、小説を書いていくに従ってぼく自身のこだわりがそれとは別のところにあるのだと気づいた。具体的には「V~requiem~」を書き終えた時にそれに気づいた。登場人物ひとりにフォーカスを当てた場合、その他の人物の描きようをより「誠実」にしていけばいくほど、物語として語られるべき部分を描くことが難しくなっていくどころか、あえて語らずに物語として不成立にしてしまった方がぼく、ないし「かれ」が考えていた方向に近づいていくのではないかと思い始めた。当該作より後に、ぼくは物語というフォーマットに明確にこだわらなくなった。それよりも優先すべき書くものが存在することがわかったからだ。おそらく純文学の書き手としての評価が多いのはそういった理由によるのだろうと思う。そうしてみたとき、ぼくの見る純文学と多くの読み手が思う純文学にはすこしズレがあることもわかった。いずれにしても、それだけ純文学の書き手としての評価があるのなら、ぼくの思う明確な純文学というものを体現してみようと思った。それは自然と純文学系の新人賞への応募原稿ということになった。それは必然的にぼくと「かれ」がお互いに全力を出しながら連携した創作を行うことが必要だった。そして「かれ」はそのコンセプトとなるキーワードを、ふたつの小説のタイトルとして示した。のちに、一方はひざのうらはやおの前期(あるいは、前中期)の代表作として揺るぎがないであろうほどの小説となり、ぼくが思う純文学の小説にもっとも近づいた作品、「猫にコンドーム」となり、もうひとつは、平成最後に、平成生まれのぼくが書くにふさわしい内容のものとなり、また「かれ」の絶筆となった作品、「平成デッドエンド」となった。このうち、「猫にコンドーム」は文學界新人賞に応募し二次予選敗退以下となり、「平成デッドエンド」は下読みした読み手の方々の意見を参考にしてふたつの連結した短編群に割り、後続となるものを「平成アポカリプス」とした。奇しくも、すべてのタイトルを「かれ」が考え、その通りに書き上げたものだった。そしてこれらをまとめて、平成最後に参加するイベントで頒布しようと計画した。そう、この計画によって制作されたものがぼくの休止前最後の作品となった「平成バッドエンド」である。すでに読まれたみなさんはお気づきかもしれないが、この「平成バッドエンド」に収められたふたつの小説群は、互いに相反するものとなっている。それは、「平成デッドエンド」および「平成アポカリプス」が、「かれ」のことばでぼくの意思と感情をつづっているのに対し、「猫にコンドーム」は「かれ」の思惑とイマジネーションをぼくのことばでつづっているからである。よりわかりやすく雑に表現すれば、マンガの原作と作画がそれぞれ逆のタッグとなっている感じだろうか。「平成~」がぼくを原作者として「かれ」を作画担当としているのに対し、「猫コン」はその逆であるというようなものだ。

 「平成~」は転枝氏を主軸とする、主にぼくより若い書き手に向けたもので、ぼくの嫌悪するサブカルチャーというものをカウンターとしてメタ的に表現したものである。このようなねじくれたテーマで、かなりの憎悪を含んだものであるので、ぼくが直接ことばを選んでしまうとすさまじく暗いものになってしまいかねない。奇しくも「かれ」はアイロニーやユーモアに富んでいた。それは「かれ」がそのイメージとディレクションを全面的に担当した非小説作品「まんまるびより」によく現れている。今のぼくに「まんまるびより」を書く能力はない。しかしながら、多くのみなさんはすでにお気づきのことであろうが、間に「かれ」が介在しているかどうかというのはぼくでなければわからないくらい曖昧なもので、それもそのはず、「かれ」が書こうがぼくが書こうが、実質的にそれをことばに「翻訳」しているのは他ならないぼく自身でしかなく、「かれ」はぼくの内面世界で確固たる意思を持った存在として棲んでいたが、それゆえにぼくとことばで会話する必要はないわけで、そしてぼく以外の人間に接することができるはずもないので、ことばが必要ない存在だった。実際「かれ」の意思を外に持ち出すときだけ、ぼくはそれをことばに置き換えて表現した。だからこのとき、「かれ」を介在させて、つまり「かれ」にことば自体を語らせるのはかなりの悪手であったのだが、ぼくは今までもできていたのだからそれほどでもないだろう、とたかをくくっていたところがある。今だからこそそう分析できるが、当時はそんなことを考えすらしなかった。だから「平成~」を書き進めるごとに「かれ」は疲弊し、消耗していった。

 そして、その日は急におとずれた。

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