3-15
そうしてぼくらは書きたいものを書く、から書かなくてはならないものを書く、に徐々にシフトしていった。ぼくはSFが書きたかった。ファンタジーも書きたかった。けれど別に現代物、つまり純文学はぜんぜん書きたくないし、書く意味もないと思っていた。しかし、現にそればかりが評価され、今となってはひざのうらはやおがSFの書き手であると考える人間はだれもいない(Twitter調べ)くらいになってしまった。純文学なんておもしろくもないし一番何を書くべきかわからないし、ひとの作品を読んでも特におもしろいとは感じられないのでぼくはそれほど好きではなかった。ただ芥川賞を読んでいたのは、なんというか、それを読むこと自体が書き手としての矜持のひとつであるという風に半ば強迫的に思っていたからであって、現に「別に芥川賞を読んでいたからといって何かが変わるわけではない」と思うようになってからは読まなければならないという思いはなくなった。どのような創作の場であっても、発言には一定の権威との勘案が付き物であって、ぼくが何を発言しても自由かというとそういうわけではなくて、ぼくはぼくたらしめているものについてしか発言を許されないし、ほかの書き手の皆さんもそうであるわけで、つまるところぼくは発言したいこととその立ち位置が常にねじれているというその状態を打破したいと常に思っていた。それは常に、書くものに現れ続けていたといえる。同人作品化を初めて行った「
「平成~」は転枝氏を主軸とする、主にぼくより若い書き手に向けたもので、ぼくの嫌悪するサブカルチャーというものをカウンターとしてメタ的に表現したものである。このようなねじくれたテーマで、かなりの憎悪を含んだものであるので、ぼくが直接ことばを選んでしまうとすさまじく暗いものになってしまいかねない。奇しくも「かれ」はアイロニーやユーモアに富んでいた。それは「かれ」がそのイメージとディレクションを全面的に担当した非小説作品「まんまるびより」によく現れている。今のぼくに「まんまるびより」を書く能力はない。しかしながら、多くのみなさんはすでにお気づきのことであろうが、間に「かれ」が介在しているかどうかというのはぼくでなければわからないくらい曖昧なもので、それもそのはず、「かれ」が書こうがぼくが書こうが、実質的にそれをことばに「翻訳」しているのは他ならないぼく自身でしかなく、「かれ」はぼくの内面世界で確固たる意思を持った存在として棲んでいたが、それゆえにぼくとことばで会話する必要はないわけで、そしてぼく以外の人間に接することができるはずもないので、ことばが必要ない存在だった。実際「かれ」の意思を外に持ち出すときだけ、ぼくはそれをことばに置き換えて表現した。だからこのとき、「かれ」を介在させて、つまり「かれ」にことば自体を語らせるのはかなりの悪手であったのだが、ぼくは今までもできていたのだからそれほどでもないだろう、とたかをくくっていたところがある。今だからこそそう分析できるが、当時はそんなことを考えすらしなかった。だから「平成~」を書き進めるごとに「かれ」は疲弊し、消耗していった。
そして、その日は急におとずれた。
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