【短編】鉄屑(From 煤煙~浦安八景~)
終業の鐘が鳴った。旋盤や打抜機の音が一斉に止まり、代わりに工員たちの声が工場に響きわたる。班ごとに終礼を行って、解散の号令がめいめいに繰り出され、工員たちは鉄工所を後にする。去っていく工員を後目に、
彼の仕事は、鋼管を加工する工員たちのとりまとめである。あるものは切断し、あるものは曲げ、あるものは溶接して、要求された通りの鋼管を作る。それらを一手にとりまとめ、それぞれの進捗を管理しながら、それぞれ適性や熟練度の異なる工員たちの仕事を割り振ったり、振り替えたりする。
「今は順調だが、この先事故が起きたりするとまずい。工員がひとり減ったら間に合わなくなってしまうな」
上長は兼政にそう言った。
兼政は、黙ってうなずきはするものの、内心ではたまったものではないと思っていた。
「どこか、融通の利く部署はありませんか」
「ないなあ。どこもかしこもお上からの注文でいっぱいいっぱいだ。まあ、注文があるだけマシなのだろうが……」
上長もため息をつく。
老朽化した鉄骨造の公共施設が急増し、順次改修されていく中で、水道管や換気管の取り替えも行われ需要が急増したため、この鉄工所の中でも鋼管部の各班は大忙しだった。兼政の班も、工員の残業や休日稼働はないものの、各員総出で市の発注に取り組んでいるため、余裕はもとよりない。班長になって三年、これほど働いた月はない。部下の仕事を手伝ったこともあった。こっそり夜中に忍び込んで帳簿をつけたこともあった。鉄工所は残業を厳しく禁じているし、残業手当もよほどのことがない限り出さない。しかし納品を遅らせるわけにはいかないから、機械が動かせるうちは部下の仕事を手伝って、自分の仕事は時間外や休日にこっそり、というのが班長たちの間で行われていた。特に鋼管を薄くする行程が難しく、もとは熟練工であった兼政はほとんど二人ぶんの仕事を肩代わりしていた。従って彼はとりまとめの仕事や帳簿、日誌などの雑務を休日や金曜日の深夜に鉄工所に忍び込んで行う。鉄工所の製品は非常に重いものばかりで鋼の鉄扉と鈍重な鍵がしてあるが、泥棒がそんなものを持ち出すはずがないので警備員を雇うなどの堅固な対策は行われていない。そのためか他の班長級のものと鉢合わせすることもしばしばあった。彼らは出会うとばつが悪そうに歯切れの悪い挨拶をし、めいめいの仕事へと向き直るのだ。
浦安市をはじめ、公共施設への発注は、安い上に高い品質を求められるという点であまり歓迎されていなかった。極めて大口であるというところも、彼らにとって歓迎されていない部分だった。すなわち、発注がなければ仕事がまるごと消えてしまうおそれがあるくらいに、この鉄工所はとりわけ浦安市に依存していた。
昭和から平成に元号が変わる頃から、貧しくしがない漁村であった浦安は、当時の熊川村長の一大決心によって大きく変貌を遂げていた。そのうちの一つがここ鉄鋼団地である。漁業を捨て、海岸を埋め立て、そこに広大な工業用地を敷き、鉄鋼加工業者を積極的に誘致したのである。当時、千葉県の東京湾岸地域には石炭集積場や製鉄所が立ち並ぶ、京葉工業地帯が形成されつつあったのだが、その東端として、木更津や袖ヶ浦などで生産された鉄と、姉ヶ崎に集積された石炭や石油、最新鋭の燃料である
とにかく、その巨大なうねりの中で、彼ら工員たちは一所懸命に働いていた。帰りの市電の中でも作業服を着た男たちがごろごろといるのを見て、どの作業所も忙しいのだなあとため息を漏らした。堀江大橋東停留所で客の半数が降りていく。大三角線は市電の中でも利用者が多い。舞浜埠頭の先、鼠街へのめくるめく旅をする者も多いと聞く。兼政は遊女と肌を合わせる趣味は持っていないのでよく分からないが、遊郭では吉原を超える規模を持ち、その質も吉原に次ぐ水準だという話だそうだ。工員たちが話題にするのも訳ないと思いながら、兼政は鉄鋼団地線に乗り続ける。
鉄鋼団地線の終点である堀江係留所停留所で市電を降り、人通りもまばらな住宅街を歩く。帰りが遅くなってしまったが、いつもと変わらない日常だった。妻はもう寝てしまっているだろうか、と思いながら兼政は鉄工所の給金で買った自宅の門をくぐった。
やはり、工員をひとり増やすべきである、と兼政は進言した。秋になって台風や秋雨が直撃すれば、ひとりふたり休まざるを得ない者が出てくる。市内だけでなく遠方から通っている者もいる中、欠員が出ない状態でようやく完成させられる進捗では心許ない。
上長も渋い顔をしながらうなずいた。労働環境の査察が入れば市からの発注は止まる。査察が入ったことと納品に遅れたことを理由に市は発注を取りやめるだろう。そうなってしまえばこの鉄工所が存亡の危機に立たされる。兼政の懸念は上長を通じて経理部長、ひいては社長にまで伝わった。同じような声が随所で出ていることから、社長は緊急採用として臨時工員を募集する通達を出した。
さて、この通達の張り紙をするのは誰かといえば、もちろん兼政たち各班長の仕事である。結果、自動車を使って外回りをして、部下の仕事を手伝い、時間外にこっそり帳簿をつけるという仕事が兼政たちを取り巻いた。鉄鋼団地線の始発で出て終発で帰るという生活がしばらく続いたが、臨時工員の応募は来なかった。
兼政の雑務が増大したことにより、班は全体的に進捗が遅れ始めていた。このままでは追加稼働なしに納品できない。兼政は工作機械の時間外稼働を申請した。
「しかし、時間外労働があったことになれば葛南労働局から査察が入るだろうし、次の発注に影響があるかもしれない」
上長は渋い顔をした。市からの発注で食いつないでいる以上、査察などで目立つのはまずい。それは兼政にもわかっていた。
「ここで納品が遅れてしまえば市の取引停止業者に載ってしまいます。そうなれば発注に影響があるなどと言っている場合ではなくなります」
妻と義兄が市役所に勤務しているから、そういったことはよく伝え聞かされていた。兼政はこの鉄工所が真剣に危機に瀕していることを、身をもって感じていた。
「わかった。申請を認めよう」
どうやら、申請をしたのは兼政が最初だったようだ。上長は非常に戸惑った表情をしていた。他の班長は、現場に危機感を覚えていないのかもしれない。査察の資料の為に、工員たちの出退勤記録をまとめておかねば。兼政の闘志はいよいよ最高潮に達した。
申請書に印を貰ったあと、副班長が血相を変えてこちらに歩いてきた。
「すぐ来てください!」
急いで現場へ戻ると場は騒然となっており、切断機から膨大な血が流れ落ちていた。
工員の一人が、切断機に巻き込まれたという。
兼政の顔から血の気が引いていく。
「救急車! 救急車は」
「今呼びました」
電話台から工員が声を上げる。
救急車の警報が聞こえてから、夜になるまで兼政の記憶は定かではない。ただ、巻き込まれた工員は死亡し、鉄工所は営業を停止、取引各所に納品の遅滞の届けを出した。
結果、兼政の班が欠員を出し、鉄工所は営業を停止され、納品を遅滞させることとなってしまった。
しかし、このようなことは、この時代においては日常茶飯事であった。人力では曲げたり、折ったりすることのかなわない鋼鉄を加工する機械に巻き込まれれば、ただの怪我では済まなくなるのは道理で、大量の鉄製品の需要がある当時、最大稼働での営業を余儀なくされていた多くの鉄工所がこのような事態に遭ってきた。
しかし、自らの班で死者が出たことで、兼政の意気は完全に消沈してしまった。鉄工所内でもっとも安全に気を配っているという自負があった。安全を怠ればすぐに事故が起きることも熟知していた。かつての同僚でも、事故を起こして他の仕事を余儀なくされたり、死んでしまったりした者がいる。だからこそ、慎重に慎重を重ね、時には無理をしながら安全衛生に努めてきた。だからこそ、自分の部下の死は、兼政の人生の何よりも大きく響いた。
家に帰り、妻と会話した。すっかり意気消沈している夫にも、彼女は優しく声をかけ、仕事を続けるように励ましたが、兼政の中に生まれた疑念と、事故による自らの矜持の損失は、それだけでは埋めようがなかった。
翌朝、彼は上長に辞表を出した。
もっと早く対策をとっていればこんなことにはならなかった、これは自らの甘えが招いた責であると。こんなことでは許されないかもしれないが、せめて班長の職を辞すことで、償いとしたいと言った。
彼が妻帯者であることを知っている上長は、それで家庭を支えられるのか、と聞くと、わかりません、とだけ返事が帰ってきた。
「とにかく、辞めるかどうかはしばらく休んでから決めてくれないか」
そう言われて、彼は一週間の休暇を取らされた。誰がどう見ても、仕事を任せられそうになかったが、かといって彼の依願通り退職させたところで何も進展がなく、事実彼はこの鉄工所になくてはならないほど有能であった。そのため、上長はそのような判断を下したのだった。
副班長に仕事を任せ、鉄工所を出る。事故があった工作機は、青い布をかけられてしまっていて、「使用禁止」と張り紙がされてしまっていた。血の痕は工員たちによって拭き取られてはいるが、いつも気にならなかった鉄の臭いが、兼政の心に妙なざわつきを与えた。
ふと、機械の脇に何か赤黒いものが落ちているのを見つけた。手に取ってみると、鉄屑だった。小さな輪が途中でぶつ切りになっていて、切断面がぎざぎざしていた。機械にかけられたものではあり得ない。こんな切り方をしたら自分でも怒鳴ってしまうかもしれないくらい、拙い切り口だった。
拾い上げてみると、その内径は指の太さと同じくらいで、輪の内側に小さく刻印がされていた。
指輪だ。亡くなった工員のしていたものだろうか。だから、これは巻き込まれたときに工員の身体と同じように切り刻まれたのでこのような切れ方になっているのか。赤黒いのは錆ではなくて乾いた血であった。
兼政は視界がゆがむのを感じた。ひとすじの熱い涙が、つう、と伝っていく。ひとりの幸せな工員の一生を、家庭を壊してしまった。その現実がより臨場感をもって彼の心を貫いた。そして、彼もまた妻を養っているという事実にはたと行き着いた。死んでしまった彼を弔うのに、償うのに、自らの職ではあまりにも軽すぎることに、唐突に気がついてしまったのだ。
生きなくてはならない。二度と、このようなことを繰り返さないように。
兼政の決意は、休暇をとっている間も揺らぐことがなかった。
再出勤の朝、彼は上長から押し返された辞表を取り出した。
上等の脂紙で書かれた辞表はよく燃えた。そこに、工員の形見をくべた。二坪の小さな庭で、それらは煌々と燃え、そしてすぐに灰になった。
兼政は、それを庭の片隅に埋める。
晴れ晴れとした表情が、そこにあった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます