(3/9)猫にコンドーム(〇版)
親の料理にけちをつけることは、かなり昔を最後にぱったりとやめてしまったけれど、だからと言ってあたしが母親の手料理を好きになったかというとそれは別のはなしだ。
七分の目玉焼きを食べながらいつもあたしはそう思う。熟している方が好きだと何回言ったところで、こっちの方が絶対においしいと言って出すし、固焼きにすると怒る。毒はないけどそういう親だ。うんざりするし友達にはしたくないタイプ。
「あんた、夜遊びはするけど彼氏は作らないのね」
できたところで全否定されるような親を持つとこうなるのだ。
「まあ、男より酒が好きだから」
そして、あたしもあたしで適当に答えすぎるんだと思う。仮にいても話はしたくない。
そこでふと佐々木を思い出した。巨大なこんにゃくは、味噌を塗ったらおいしそうだ。
習慣というものは恐ろしい。思考を部分的に、あるいは全面的に停止させてしまう。きょうび学習して思考する人工知能なんかいくらでもあるから、それにすら劣っていることになる。あたしも母もロボット以下なのだろう。ロボットはメンタル不調で病院に通ったりしない。
母と父は、同郷で同じ高校、大学に進学した幼なじみで、気がついたら結婚していたという父と、同級生の中で一番頭がいい人を選んで遅効性の毒を仕込んだという母の間にあたしと弟が生まれた。ちなみに弟は春に社会人になって家を出ているし、父は仕事が忙しくて滅多に帰ってこないから、狭いマンションにいるのはたいてい母とあたしだけだ。
「いってきます」
クールビズがよくわからないので、あたしは未だにビジネス用のスカートと白いブラウスだ。明るめの栗色のボブにはそんなに似合っていなくて、合唱団か、と自分でも思う。まあ、ただ、ドスケベセクハラオヤジに目を付けられるということはないからこれはこれでいいのだろうと思っている。
イヤホンから流れるラジオでは渋谷のスクランブル交差点のにぎわいと、サムライブルーが、としきりに連呼するおじさんパーソナリティからワールドカップの開催を知った。
そういえば、職場でも日本戦を見る見ないみたいな話を誰かがしていた気がする。たしか、前川主査なんかはスポーツ観戦が好きだったはずだ。
「前川主査は昨日の日本戦見ました?」
星野主事があたし越しに前川主査に話しかける。ショートカットで小柄、スポーティな前川主査の目もとはくすんでいた。明らかに寝不足だ。
「うん、すごい戦いだったね」
そう言いながら目を輝かせている。手元のパソコンでググったら昨日の日本戦は午前一時キックオフだったらしい。相手はコスタリカ。ランキング上位の相手に敢然と立ち向かい辛勝をおさめたとのこと。朝、ラジオで聞いたはずだ。知らんけど。
もうすぐ五十になる二児の母だというのに前川主査は若い。旦那さんは別の課で課長になっているがその人も見た目が若い印象で、夫婦って釣り合うんだって思った。
星野さんは、高卒新人でこの課に配属されててキャリアもあたしより長い。けれど年齢はひとつ下なので、彼女はあたしに敬語を使う。まつげが長いし、黒髪ロングが清楚そうで、男子職員の下品な話題に上ることも多いらしい。かわいそう。新婚さんなのに。
あたしはぼっとして話に加わらないポーズをしていた。何も知らないのだから加わりようがない。ワールドカップがどこで開催されているかも、ましてや今日本代表がどうなっているのかもいまひとつよくわかっていない。いや、知ろうと思えばググればいいわけで、要は昼休みくらいしっかり休みたいだけである。
サッカーなんて学校でイキりたい男がやるもので、オレ様人間とそんな男が大好きなヒエラルキー上位になんとか食い込みたい必死過ぎる品性クソ女くらいしか熱狂するものじゃないだろうと思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。あたしはあたしでそういう偏見を持っているので興味もないし、結果を知ったところで、きっとにわとりよろしく三歩あるけば忘れてしまうだろう。じゅんいちダビットソンのモノマネで本田圭佑という面白い選手がいるということを知ったくらいだ。多分コロッケがやる河村隆一のモノマネくらい本物と違っているのだろうけれど、あたしにとってはじゅんいちダビットソンがむしろ本田圭佑なので、逆にピッチに立つ彼をみてもじゅんいちダビットソンとしか思えないだろう。
星野さんの顔だったら、あたしもほんの少しだけマシな人生になってたかもしれない。少なくとも母親にブスだと罵られることはなかっただろう。あたしはあたしのことをブスだとは思ってない(でなければドスケベセクハラ市役所に入れるはずがないからだ)けれど、母親にとっては自分の面影を大して引き継がなかったあたしはブスらしい。別に星野さんが母親に似た顔というわけではなく、彼女は誰がどう見ても美人の範疇に入るような端正で、しかも少し彫りが深い顔立ちだということなのだが。
「古田さん!」
そんなことを考えていたら熊川主任主事、もといザリガニに声をかけられた。
「両脇のひとがあなたを挟んで会話してるんですよ! あなたも会話に加わらなきゃ!」
そんなオセロみたいなルールがあってたまるか。そんならお前はその歌舞伎揚げを食うのをやめろ。両脇食ってねえだろうが。
声も内容もうるさいとしか言いようがないこの感じが、この職場である種のマスコットとして受け入れられつつあるというのがちょっと信じられない。あたしは絶対に嫌だ。今この時も首にアイスピックをぶっ刺してやりたくて仕方がない。無罪になるならとっくの昔にやっている。
場が一瞬止まる。
こういうの、一番タチが悪い。
「熊川さん、じゃあサッカーの話できます?」
そして凍った。ざまあみろ。
「いえ、わたし運動がへたくそ、というかこういう障害のせいで何もできないのでサッカーはルールもわかんないんです。どうしたら勝ちなんですかね」
ザリガニは早口でまくしたてた。三十三歳オトナ女子であるところの彼女はググるという言葉を知らない。おそらく辞書に永久に登録されないのだろう。頭が悪いから。
「さあ、わかりません」
めんどくさいのでその辺で会話を切り上げて、あたしは席を立った。
後ろでザリガニがまた泣きわめき始めて前川主査が呆れた顔をしたが、知ったこっちゃない。エネルギーを爆発させるのにつき合わされる方もたまったもんじゃない。
だからあたしは絶対に市長とその一派に票を入れない。
「砂里奈だからザリガニか、へえ。うまいこと言うね」
「なんか足を引きずる姿とか、泣くとき真っ赤になるところとかがザリガニだなって」
「なんだ、語源は名前じゃないんだ」
「クレセント」はなぜか佐々木とあたしだけになっていた。ついさっきまで何人か居たはずだったんだけど。麻紀さんは煙草を吸いに奥に行ってしまった。
「ほんとひどいんですよ。あたしを目の敵にしてて、何か言うとすぐ泣くまねをするんです。どうやって生きてきたんだか不思議で」
「うーん、どうだろうな」
佐々木は椅子に寄りかかって腕を組んだ。多分、結構酔っている。
「なんとなくだけど、ザリガニさんは君と仲良くしたいんじゃないの? 君がそれを生理的に受け付けられないだけでさ」
「あたしが悪いんですか!」
思わず声を大きくしてしまった。
わかってる、酔ってる。
「いや、そうじゃなくて。君は君で生理的に受け付けられないわけじゃん、ザリガニさんを。そこに気がついてないんだよねきっと」
「ああ、確かにそうかも」
「他人の思いやりってさ、ほんと気持ち悪いじゃん。自分が必要としているものを何ひとつ与えてないのに、与えてやったって顔されても、みたいなさ。そういうのって愚鈍の副作用だよね」
佐々木の言葉が、正確にあたしの脳に突き刺さっていく。
ぞくり、とノクターンの悪寒が走り抜けた。
「あー、あたしもやっちゃうかも」
いつの間にか麻紀さんがカウンターにいて、ショットグラスにウォッカをついでいる。
「自分で考えていることが、その人にとって本当にいいことかどうかなんて、誰にもわからないもんね」
ウォッカはすっ、と麻紀さんの中に入り、グラスはかん、と高い音を立てた。
「そうなんだ。でも、ほとんどの人は自覚してないし、みんな一緒だと思いたがるんだ」
煙草の匂いがして、なぜかあたしも麻紀さんみたいになりたいなと思った。
「だけれどもう、それはしょうがないんだ。誰かの思いやりを一度気持ち悪いと思ってしまったら、どんな理屈を付けたって、気持ち悪い、にしかならなくなる」
佐々木の目は据わっていた。
「誰かに『この人とは仲良くできない』ってことをいろんな人に訴え続けないとキツいなあ。頼むから、殺さないようにね」
ぼんやりとした口調の中に、鋭く尖った、冷たいナイフの肌触りを思い出した。
「というかさ、それ先生に言えばいいんじゃない?」
「やだよ、あの人なんか信用できないもん」
「信用できない先生のとこ通ってるの?」
「うんまあ近いから」
もっともあたしは医者どころか他人をおよそ信用していないくせがある。別に大塚先生だけ信用できない、とかではない。
「なるほどなあ、なんかつながってきたぞ」
「え?」
「正直ね、最初会ったときから君のことをだいぶ変だな、って思ってた」
「変?」
あんまり言われたことはない。不思議ちゃん、ならあるけど。
「うん。変というか、妙。昔の職業の癖でね、違和感があると探しちゃうんだよね」
「えっ」
「なんだ、じゃあやっぱり良子ちゃんのことつけてたんじゃん!」
麻紀さんがやんわりと佐々木の肩を叩く。
佐々木がちらっと嫌そうな顔をして、すぐ取り繕ったのを見てしまった。できれば見逃したかった。忘れよう。
「ごめんなさい、嘘ついてました」
「いや、あたしはなんとなくわかってたからいいよ」
「えっ、麻紀さん言ってくださいよ」
真顔になってしまったせいだろう、麻紀さんは一瞬狼狽した顔になり、取り繕うように笑顔になった。これはわざと。大丈夫なやつ。
「あ、そっか良子ちゃん知らないんだっけ。すぐるくん、元刑事さんなんだよ」
なるほど、と思う気持ちが九割で、あたしは驚くリアクションがとれなかった。ちょっと悔しい。
「一瞬、というか二年間だけだけどね」
佐々木は苦い顔をした。ここまであたしに話さなかったということは、麻紀さんはわりと強引に訊いたのだろう。どうりでこの前よりちょっとよそよそしいと思った。
「言われてみれば警察官って感じ」
「ちょっとお、それ図体がでかいとか、そういうところじゃないの?」
佐々木はとぼけた口調を取り戻した。なぜかあたしはほっとして、にっこりと笑った。
「くそー、いい笑顔しやがって」
「あとね、良子ちゃん、すぐるくんってまだ二十六なの」
「えっ!」
は?
いやいやいやいや。
どう見ても三十過ぎにしか見えない。
「ちょっと麻紀さーん、勝手にひとの年齢ばらさないでくださいよ」
佐々木はほんの少しむくれた顔をする。女子か。
「年下じゃん! 敬語返せよ!」
「まあおれは古田さんが年上なの知ってるし、年下だと思われてないのも知ってるから」
「診察データ見たの?」
「見るよ、仕事だもん」
そりゃそうか。仮にも精神保健福祉士だ。しかもおそらくクリニック全件担当。
「えっじゃあ、あたしもすぐるくんって呼んでもいいの?」
「なんなら呼び捨てでもいいよ」
「ふーん」
ちょっと意外だった。
「おれ、敬語嫌いなんだ。なんか、遠くで銃撃戦してるみたいじゃない?」
「は? なにそれ意味わかんないわ」
「良子ちゃん急に辛辣!」
麻紀さんがめちゃくちゃ面白がってるのがわかる。
まあ、正直あたしも面白い。
「おれが年下だと知ったとたん態度変えるね」
「そう見える?」
「いや、そうでもねえか。最初からこうだったわ」
よろしい。あたしは勝手に胸を張った。白いブラウスだったし、なんだかはんぺんみたいだなって思った。はんぺんもこんにゃくもおでんの具だけど、夏にさしかかる今の季節には似合わない。
「良子」
ぼそり、と優はつぶやく。
あたしが目を向けると、いたずらっぽくはにかんだ。
「恥ずかしがるな!」
こっちが恥ずかしいだろ。
叩いた肩胛骨は意外と広いし、堅かった。
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