(7/9) 幻影のかなたに ~Precious Memories~ 第1話
「ねえねえ、つばさちゃんって誰?」
綾香が去ってからしばらくして、玲奈は少しひかえめな声で有希に聞いた。
玲奈が聞いた感じでは、つばさという少女は明菜とかなり親しい間柄のようだ。それも、そこそこ有名な生徒らしい。
隣の部屋ということを聞いたというのもあるが、あの非常に目立つ赤坂部長が「目立つ」というのだから、それはどんな子だろうか、とほんの少し興味がわいたのだった。
「ああ、玲奈ちゃんはまだ会ったことないかぁ。
有希はえっへんと少し胸を反らせ気味になりながら説明した。
「へえ、そうなんだ。全然知らなかったなあ、そんなこと」
有希は、玲奈にも分かるように丁寧に説明したつもりだったのだが、やはり学園の事情にまったくと言っていいほど通じていない玲奈には、どうもピンとこないようだった。
「あっ、そうだ。じゃあ、あたしもあとで有希ちゃんと一緒に行っていいかな? つばさちゃんの部屋に」
「ああ、それいいねぇ。つばさちゃんって、玲奈ちゃんみたいな子と結構気が合いそうだしぃ。いいよ、帰ったら一緒にお見舞いに行こう!」
有希は、ぽん、と胸の前で手を叩いて満面の笑みを浮かべながらそう言った。
有希のそんな笑顔を見ると、玲奈はなぜだか心の中がほんわかとしてきて、とても心地がよくなるのだった。
この気持ち、赤坂さんだったらいったいどんな言葉で表現するのだろうかと、玲奈は率直に思った。
さて、その明菜はというと、すでに執筆の構想でも練ろうとしているのか、小さなメモ帳と鉛筆を取り出してうんうんと唸っていた。とても話しかけられるような雰囲気ではない。
「部長ったら、ああなっちゃうと手がつけられなくなっちゃうんだよねえ。まあ、いいや。玲奈ちゃん、今日は帰ってつばさちゃんに会いに行こう!」
「ええーっ、でもでも、ほっといていいの?」
玲奈が心配するのももっともだ。先輩に挨拶もしないでほっといて帰るのは、いくらなんでも失礼だろうと考えるのが普通である。
「いいのいいの。どうせ何言っても聞いてないし。ささ、帰りましょう玲奈ちゃん!」
玲奈は明菜の方を向いてどこか心配そうな顔をするが、有希はそんなことはお構いなしに玲奈の手を引いて部室を出た。
相変わらず、有希はまだまだハイテンションである。
よく遊びに行く隣の部屋とはいえ、やはりその扉を開けるのは普通若干の躊躇があるだろう。
しかし、有希はまるでそこが自分の部屋であるかのようになんのためらいもなくドアを開け、
「つばさちゃん入るよぉ!」
とドアを全開にしてずんずんと中へ進んでいった。
玲奈はやはりためらったが、立ったままでいるわけにもいかないうえ、もう有希は靴を脱いで上がりかけている状態なので、
「おっ、おじゃましまーす」
と、おずおずしながら部屋に入った。
部屋の中に入ると、玲奈はすぐ右側にアルミ製のラックと、おそらく自分で持ち込んだのだろう、奥にも同じようなアルミ製のロフトベッドがあり、その下に質素な勉強机が置いてあった。
年頃の少女の部屋にしては、どこか物足りない印象を感じた。
そして、落合つばさはそこにはいなかった。
ここで玲奈は違和感を覚えた。
「あれっ、何でベッドが一つしかないの?」
それに、よくよく見渡せば部屋も玲奈たちのよりも少し狭い。
「つばさちゃんはね、一人部屋を希望したの。一人部屋ってそんなにないんだけど、つばさちゃんって体が弱いから申請が通ったみたいね。私も、初めて入った時はびっくりしたなあ。隣が一人部屋だとは思わなかったもん」
確かに、つばさの部屋は5号室で、寮の一番奥にあったのだが、普通の部屋は二人部屋なので、つばさの部屋が一人部屋だと気がつく人は、やはり一人部屋を使っている人くらいなのだ。
「でもつばさちゃんいないなあ。……あ、もしかしてお風呂入ってるのかも。玲奈ちゃん、ここのお風呂まだ入ったことないよね?」
「うん、ここの寮に大浴場がついていて、そこにみんなでお風呂に入るのは知ってるけど……こんなに早くに入って大丈夫なの?」
「もちろんだよぉ。学校が終わったら、ここのお風呂ってもう沸いているんだよぉ。すっごい便利だよねえ!」
「へえ、そうなんだ。じゃああたしも入ろっかな……」
「玲奈ちゃんが入るなら私も入るよぉ。よし、多分つばさちゃんはお風呂だから、こうなったら急ぎましょ玲奈ちゃん!」
有希は休む間もなく自分の部屋に引き返す。
玲奈は、そんなエネルギッシュな有希を見ていても、疲れるどころか癒されてすらいる、そんな自分がいることに気がついた。
負けられないなあ。
玲奈は心の中でそうつぶやくと、有希と同じようにぱっと部屋へ引き返した。
はたして、落合つばさは、だだっ広い大浴場の洗い場に、たった一人で寝そべっていた。のぼせてしまったらしく、身体じゅうが真っ赤に火照っている。
「わ、わわ、ちょっとつばさちゃん大丈夫ぅ?」
有希は入ってすぐつばさを見つけるなりそう言って、彼女のもとに駆け寄った。
「おお! なんだ有希か。誰かと思ったよ。いやいや、ちょっとのぼせただけさ。僕は大丈夫だよ」
つばさが、あまり大丈夫とはいえない様子で応える。
「もお、風邪をひいたかと思ってお見舞いに行ったらやっぱりのんきにお風呂なんか入ってたのぉ?」
有希は頬をぷっくりと膨らませた。彼女の場合、なぜかこういったコミカルな感情表現がよく似合う。
「いいじゃないか。僕は風呂が好きなんだ。特に、誰もいない今の時間に、この広い浴場でのんびりとするのって気持ちがいいよ。……まあ、今日はちょっとのぼせちゃったけど」
つばさは、弱弱しく笑うと、玲奈の方を向いて目を細めた。
「あれ、あの子は……誰?」
「あの子はねぇ、私のルームメイトで編入生の千住玲奈ちゃん。つばさちゃんと気が合いそうな元気な子だよぉ!」
「そうか……。玲奈さん、よろしく。僕は落合つばさ。こんな、誰もいない時間に一人で風呂に入るような変な女だけど、隣同士の縁だ、どうぞ、僕と仲良くしてくださいな」
つばさは、ふらつきながらゆっくり立ち上がると、玲奈に近づいて左手を差し出した。
「こっ、こちらこそ急にごめんなさい。あたしのことは玲奈でいいわ、よろしくつばさちゃん」
玲奈もあわててその手を取る。
立ち上がったつばさの顔はとても端正な美男子そのもので、短く切りそろえられた空色の髪の毛からも、運動部に入っているのだろう、その筋肉質で締まった体つきからも、やはり少年のような凛々しさを感じさせられた。ちょうど玲奈が朝に見た雄来の印象を真逆にしたような感じだ。
「でも、君、やっぱり編入生なんだね。ほっとしたよ」
つばさのその微笑みも、少女というよりは少年のそれに近かった。
「え、どうして?」
「だって、ここの人たちって、僕の顔を見るなり、悲鳴を上げるか、顔を真っ赤にするかしかしないんだ。だから僕は、普通に接してくれる君や有希のような人が隣の部屋で、すごくうれしいんだ」
確かに、これだけ男前な容姿であったなら、たとえ女の子だったとしてもたくさんのファンがいておかしくないな、と玲奈も思った。
「ねえ?玲奈ちゃんいい子でしょお?」
有希は玲奈の腕をとりながらつばさに微笑む。
つばさはにっこりと微笑んでうなずいた。
その微笑みは、やっぱり少年のようだった。
「いやあ、今日は楽しかったなぁ。つばさちゃんってめったに他人としゃべらないのに、やっぱり玲奈ちゃんはすごいねぇ」
「いやいや、そんなことないって。でも、つばさちゃんと仲良くなれてよかったなあ……」
夕食もすみ、夜も更けた寮の部屋の中。
二人は二度目の風呂から帰ってきたところだった。
玲奈は、かわいらしい花柄のパジャマを着ながら、髪をほどいて眼鏡をかけた有希を見て、おそらく今日最後になるであろうが、ちょっとびっくりした。
ちなみにその玲奈は、女っ気のないゆったりとしたぼろぼろのスウェットを着ていて、その溌溂と撥ねていた銀色の髪は水の力をもってしてもやはりストレートな髪にはならず、その特徴的な髪形は、実は彼女がひどい癖っ毛だっただけだということを雄弁に物語っていた。
「ゆっ、有希ちゃんって眼鏡かけてたの?」
「うん、そうだよぉ。私、すごく目が悪くて。でも、コンタクトレンズの方が便利だし使いやすいから寝る前にしかかけないけどぉ」
「へえっ、そうなんだ」
「まあね、たまあに、眼鏡にするときもあるけどねぇ。もしかして玲奈ちゃんは眼鏡が好きだったりするのぉ?」
有希のトーンは、放課後よりもかなり下がっている。
これが普段の彼女だとしたら、今までのあの子はいったい誰だったのかと、玲奈は思った。
「いやあ、別にそういうわけじゃないけど……でもっ」
玲奈は、少し真顔になった。
「でも?」
有希はそんな玲奈の様子に意表を突かれて、
一瞬怪訝そうな顔をした。
しかし、玲奈はそんなことには気がつかず、
「眼鏡をかけた有希ちゃんも可愛いよっ!」
と、真顔のまま言った。
一瞬の、不思議な間。
そして、
「ぷっ、くすっ、うふふふふっ、あっはっはっはっは……」
有希の高い笑い声が響く。
「えっ、何?何がおかしかったの?」
「もお、玲奈ちゃんったらいきなり真顔で何言いだすのかと思ったら、あっはっはっは……もおびっくりしたあ……」
有希はまだ笑っている。
「もうっ、そんなにおかしかった?」
「だって……だっていきなり真面目な顔になるんだもん玲奈ちゃんったら……ああおかしい……」
有希の笑いは収まらくなっていて、彼女はついに腹を抱え出した。
「だって有希ちゃん眼鏡が嫌いみたいなんだもん。眼鏡が似合う人だっているよ!」
少しむっとした彼女の脳裏に、突然雄来の顔がよぎった。
不思議な現象ではあったけれども、玲奈はそれをなぜだろうとは考えなかった。というのは、彼女は単純に、雄来の顔と眼鏡が似合っていると思っただけだったからだ。
「いやあ……確かに眼鏡をかけた自分ってあんまり好きじゃないけどぉ、玲奈ちゃんがそう言ってくれるんだったら、明日は眼鏡をかけて行こうかなあ……うふふ」
有希はまだ笑い続けていたが、とてもうれしそうに笑っていた。
それは、見ているだけで玲奈まで幸せになってきそうな、そんな笑顔だった。
「もお、玲奈ちゃんったら、ほんっと面白いんだからぁ。さあて、今日はもう遅いから、私たちも寝ましょうか」
有希は部屋の隅に畳んであった布団を敷いた。
玲奈は玲奈で、有希に組み立ててもらったメープル色のベッドの上に横たわる。
「あっ、いいなあそのベッド。なんかふかふかしてそぉ。そうだ、玲奈ちゃん一緒に寝ようよぉ。私も玲奈ちゃんのベッドで寝たいぃ」
「ええーっ、このベッドひとり分だから狭いよ?」
「いいじゃんいいじゃん。今日は寒いらしいよぉ?二人で縮こまって寝た方が絶対いいってぇ。では、えいっ!」
そう言うが早いか、彼女は自分の布団から抜け出すと、さっと玲奈の横に飛び込んだ。
「ちょ、ちょっと有希ちゃ……ってもう寝てるし!」
有希は相当疲れていたのだろう、ベッドに飛び込んだ瞬間、玲奈の腕につかまったまま眠っていた。
玲奈は途方に暮れたが、幸いなことに有希の体は細身だったので、玲奈はそう大して窮屈さを感じなかった。
なんだ、意外とあたしのベッドって広いんだ。
隣で子供のように抱きついて眠っている有希を見ながら、玲奈はなぜだか母親になったような錯覚を覚えた。
こうして、玲奈の波乱に満ちた学園生活は始まったのだった。
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