(6/9) 幻影のかなたに ~Precious Memories~ 第1話
連れてこられたのは、部室棟の一階で、他の部室とは少し違う、広めの部屋だった。
玲奈たちが部屋に入ると、中に一人、先輩と思わしき生徒がいた。
右手に牛乳のパックを持ちながら、パンを口いっぱいに頬張っている。
「ん? おう、なんだ綾瀬か。……んで、そいつはどうした?」
彼女は、ぶっきらぼうにそう言いながら玲奈たちの方へ近づいてきたが、何しろ口に大きなパンが入っているため玲奈はよく聞き取れなかった。
非常に清廉かつお上品であることをよしとする聖アーカンゲルの女子としては、処分をくらってもおかしくないほど非常にがさつで見苦しい格好であるが、なぜか玲奈はそれを嫌悪しなかった。きっとどことなく勇ましいように見えたからなのかもしれない。
「はい、こちら、入部希望者の千住玲奈ちゃんです。私のルームメイトなのですよぉ。可愛いでしょお? 玲奈ちゃん、この人、私の部長で、
有希は、ちゃんと赤坂部長の言葉を聞き取ったようで、そう言いながら玲奈にぴったりとくっついて頬ずりをした。
「ちょっと、有希ちゃん! まだあたし入るなんて言ってないよ!」
そう、彼女はまだここがどんな部活かもわかっていない。
「お、おい綾瀬、綺麗な人って、おっ、お前、そ、そんな、褒めても、なっ、何も出ねえからな!」
大柄で体格もがっしりしている明菜先輩は、有希の言葉にだいぶ照れた様子を見せながらも、二人を見ながら楽しそうに、
「そんで、まあご紹介に預かった赤坂だが……綾瀬に連れられてきたってことは、どーせまともな説明されてねえだろ?」
と、パンを食べ終わったので話し始めた。
「ええ……まあ」
玲奈は少しうつむきながら答えた。事実、有希の暴走とはいえ、何も知らないままここに来てしまったのは少し恥ずかしい。
「はあ……やっぱりそうだ。んまあ、……なんつうの、とりあえずだ、俺たちは文芸部やってんだよ。ったく綾瀬、お前って奴は」
「いいじゃないですかぁ。それに、玲奈ちゃんは文芸部だって聞いたら絶対来ませんでしたよぉ?」
明菜の話し方は、昭和のおじさんそのものだったが、すでに五〇年以上も前の昭和時代をそもそも知らない玲奈たちがそんなことに気づくはずもなかった。とにかく、そのぶっきらぼうな口調に似合わず、さっきの照れ具合といい、けっこうシャイな女の子であるようだ。
一方、有希はその間延びした口調とは相反して、なかなかにずばっとした物言いである。無論、明菜は有希のそういう面も嫌いではなかった。そうでなければ、いくら部員が少ないとはいえ、先輩相手に不遜ともとれる態度を見せる彼女を置いておくはずがない。
「玲奈ちゃん、そういうわけで私たち文芸部なの。ねえ、すばらしいでしょぉ?」
「こらこら、ごり押しすんなよ綾瀬。ほら、戸惑ってるじゃんか」
正直なところ、玲奈は文章を書くことはおろか読むことも得意ではないので、このまま帰りたいところではあったが、有希の手前もあるうえ、どうも文芸部員はこの赤坂部長と有希のたった二人のような気がして、ちょっとかわいそうになったのとで、どうにも帰りにくくなってしまった。
「でも、でもっ、あたし、文章とか書けないし……」
「いいのよそんなの。私だってそんなに文章を書いているわけじゃないしぃ。それより、今うちの部私と部長しかいないんだよ! だ・か・ら、ぜひとも玲奈ちゃんに入って欲しいのぉ。ねえ、お願いだからさあ?」
有希は器用に上目遣いで目をうるうるさせながら玲奈の顔を見る。
見事な交渉テクニックだが、若干使いどころを誤っている気がしなくもない。
「う、うーん……どうしよっかなあ」
そしてその策略に玲奈も動かされそうになっている。そもそも、彼女の予感が当たってしまったことも、決断に重大な関わりをもってきてしまう。はたして、彼女は文芸部に入るのか入らないのか。
「おいおい、そんなに悩むなって。別に俺は無理に入れとは言わないし、入りたくないんだったらそれでもいいぜ。でもよ……」
気がつくと、弱小文芸部長が玲奈のすぐ前に立っていた。
「綾瀬が連れてくる女に悪い奴はいねえんだ。だから、正直言うとあんたにはぜひ入って欲しいんだよな、千住さんよ」
近くで見た明菜は、その男性的な言動に反して、非常に女性的な美を放っていた。
およそ高校生とは思えないほど大きな身体と大人びた顔つきは、特に吸い込まれそうなほど黒く大きな瞳とぷっくりとやわらかそうに膨らんだ唇を魅力的にし、その燃えるように紅い髪は、無造作に長く伸びて腰の辺りまでばっさりと垂れている。さらにその色合いが真っ黒な制服と奇妙に調和している。
しかし、それよりも玲奈の目を引いたのは、彼女の眼前に突き出された大きな胸のふくらみだった。制服の上からでもはっきりとわかるほどの規格外の大きさであるそれは、誰もが思わす自分のそれと見比べてしまうほど目立っていて、かえって清楚さが売りの聖アーカンゲル女学園の制服を着ていた方が蠱惑的であるともいえる。
確かに、すぐ近くにいる有希も、女性的なかわいらしさに充ちあふれていることはいるのだが、種類が全く別個のそれなのである。たとえて言うなら、有希はチャーミングで、明菜がダイナミックといった感じだろう。
「ちょっと、考えさせてください……」
玲奈は、さんざん考えあぐねた結果、中道的な判断をするにいたった。直観的な行動が多そうな彼女にしては珍しい。
と、がちゃんと音がして再び扉が開く。
「失礼するわ!」
中に入ってきたのは、濃緑色の髪が印象的なふたり組だった。
部屋に入ってすぐに前に出たひとりは、玲奈も先刻入学式で見かけた、いかにも生徒会長然とした雰囲気をたたえ、冷静沈着とも冷酷非道ともつかない不思議な無機質さを顔全面に押し出している、誰もが認める生徒会長、乃木坂綾香その人だった。
背はかなり高いが、明菜よりかは若干低い。風貌も完成した女性のそれに近く大人びているが、すぐ側にいる明菜とはまた違った風格を持っている。まるで幾つもの死線を乗り越えてきた敏腕女弁護士のような、という表現がもっとも近いと思われるその雰囲気は、それだけで女子生徒たちの憧憬の的となるのに十分な要素であった。
加えて、比較的美少女が多いと言われているこの聖アーカンゲル女学園の中でも五本の指に入るという、まさに抜群という表現がふさわしいその美貌は、彼女のいかなる表情をも彼女を魅力的にさせるので、綾香は、かつての涼夏と同じように、学年を問わず生徒たちから絶大なる支持を得ているのだった。
さて、その後ろに控えているのは、今となっては珍しい、髪をおさげにして制服をきっちりと着た誠実そうな少女で、たくさんの資料が入っていそうな大きくて分厚い封筒を抱えており、乃木坂の秘書、といった感じで後ろにぴったりと控えていた。
「おう、乃木坂と上原じゃねえか。どうした?」
聖アーカンゲル女学園の生徒たちにとっては何を隠そう(とはいっても別に隠すものなど何もないわけであるが)、この生徒会の圧力というものはかなり重いものとなっているわけだが、明菜は非常にリラックスした姿勢で、にこにこと笑顔さえ見せながら応えた。
「明菜ちゃん、貴女、部誌を出していないでしょう?」
綾香は、優美な声で言った。玲奈が聞きほれてしまうほどである。
「ん? そ、そりゃあ何のことだ?」
明菜はそっぽを向いて肩をすくめる。若干オーバーアクションにも見えるが、体が大きい彼女だとなぜか決まっているから不思議だ。
「とぼけないで頂戴。貴女、去年度の部誌代を申請しておきながら当の部誌を出していないわね。これ、私たち生徒会としては、とっても重大で見過ごせない事態なのだけれど、そこのところ、わかっていらっしゃるのかしら?」
綾香は、早口でまくしたてながら数歩踏み出して明菜に迫る。
「おいおい、そんな急に部誌を出せって言われても……うおっ、ちょっ、ちょっとお前いくらなんでも近くないかおい?」
しかし綾香はそんな突っ込みなど華麗に無視して、そのまま明菜に接近すると、彼女の首の後ろに手を回し、妖しく微笑んだ。
「あら、私の前でそんな悠長な言い訳は通じないわよ、明菜ちゃん」
さっきまでの無機質な表情が一転、妖艶な微笑を見せた綾香は、恐ろしいほど魅力的で、彼女自身に引きずり込まれるような、そんな感覚を、見ている者たちに与えている。聖アーカンゲル女学園の生徒会長は代々絶対的な人気をもつ者がその座に収まるという暗黙の了解があるのだが、彼女がその地位になるべくしてなったということは、この学園の特殊性を理解している人間であれば、彼女のこの表情を見れば一目瞭然であろう。
「やめ、ちょっ、おま、やめろって……」
明菜の顔が赤くなる。
しかし、綾香は彼女を拘束するだけでは飽き足らず、ぴたりと体をくっつけ、その耳元で、
「まあ、貴女が一週間のあいだ、私の好きにさせてくれるのであれば、その言い訳、聞いてあげてもよくてよ?」
と、甘い声で囁いた。
明菜の顔が今度は青に変わる。
「わ、わかった! わかったからちょっと待ってくれって! な? そんなに急かされたってできるもんじゃねえんだって! な、わかるだろ?」
いよいよしどろもどろになる明菜。
どうやら綾香の言いなりになるのは、彼女にとってかなりの苦痛らしいのだが、それがなぜかを知っている人間は少ない。
「じゃあ、いつまでに部誌を仕上げてくださるのか、きちんと約束して欲しいのだけれど?」
「う、うぐっ……そ、それはどうかな……」
明菜は明らかに狼狽し、いやな汗をかきまくっている。
「あらぁ、大丈夫ですよ部長。うちには新入部員の玲奈ちゃんがいるじゃないですかぁ!」
「ちょっ、ちょっと有希ちゃん!」
「大丈夫、私は信じてるよ玲奈ちゃん!」
「え、ええーっ!」
有希が、少し困った表情で固まっている玲奈に抱きつきながら明菜にそう言った。
どうやら、いちゃついているように見えて実は彼女が逃げないように拘束しているようだ。おとぼけているようでいてなかなかに強引でしたたかなのが綾瀬有希という少女のあまり知られていない一面でもある。
「おい、だから、新入部員で、しかもお前に何の部かも説明されずに連れてこられたような子に部誌なんてもん任せられるかよ!」
明菜の意見もごもっともなのだが、残念なことに聞き入れてくれる人がいない。
「あら、新入部員? それはまた珍しいこと」
綾香はそう言って明菜から離れると、今になってようやく気づいたらしく、玲奈の方を見た。
「あらあら、あの子、確か編入生クラスの千住玲奈ちゃんじゃない」
「え? どっ、どうして……」
自己紹介もしていないのに相手が自分の名前を知っているので、玲奈はびっくりした。彼女は今日だけでかなりの回数びっくりしている。おそらく普段の二倍以上はびっくりしているだろう。
「ふふ、どうしてかというとね……」
そう言いながら綾香は玲奈のもとにつかつかと歩み寄ってきて、
「私は、可愛い女の子なら一目見ただけで覚えられるからよ」
と、彼女の肩に手を置き、熱い視線を送った。
「ちょっと、綾香。
入口に控えていた
そう思うと、有希は内心ひやひやしていた。
「あら残念。それじゃあ、明菜ちゃん、再来月の終りまでに部誌を書き終えなかったら……うふふふふ、どうしましょう?」
綾香は嗜虐性を多分に含ませた微笑みを浮かべながら言った。
「わ、わかった、わかったから! 再来月の終りだな? おし、任しとけ! 絶対書き上げてやるからな!」
「あら、そう? 私はどちらでも構わないけれど。貴女と毎日……うふふふふ……」
綾香はあろうことか少し惚けている。乙女の中の乙女であるこの学園の生徒の中でも、さらに粛然としなければならないような職務である生徒会長にあるまじき表情だといってもいいだろうが、しかしその表情は、どこからどう見ても完全無欠であるはずの彼女に、どこか人間らしい魅力を感じさせるのであった。
「綾香。いい加減にしなさい。もう時間がないのよ!」
深雪が優しいながらも厳かな声で言った。
「あら、いけない、私ったら、明菜ちゃんに時間をかけ過ぎてしまったわ。そろそろお暇しなくてはならないのね。……そうそう明菜ちゃん、貴女、つばさちゃんがどこにいらっしゃるかご存知かしら?」
明菜は綾香が元の生徒会長の調子に戻ったのを見てほっとすると、
「ああ、そういや今日は見てねえなあ。目立つ奴だからいれば気がついたはずだけど……風邪でも引いたかもしれねえな。あいつ、結構病弱だからな……」
とこちらも元の調子に戻って言った。
「ああ、つばさちゃんなら、私の隣の部屋ですけど寝込んでいましたよぉ。よく見てないけど風邪だと思いますね、あれ」
すかさずその後を有希が継いだ。彼女の頭の回転はかなり早いのではないかと、このとき玲奈はひそかに思った。
「あら、そう。じゃあ、あとでお部屋に行かなくてはならないわね。部の代替わり手続きに不備があったのだけれど、有希ちゃん、お部屋に帰ったらそう伝えといてくださらないかしら?」
「ええ、わかりましたぁ。乃木坂先輩は、いつ頃お部屋に向かうおつもりですかぁ?」
「そうねえ……。今日の夜にでも寄りたいのだけれど、有希ちゃん何か用事でもあるのかしら?」
「いえ、いつ頃いらっしゃるのかも伝えておかないと、つばさちゃん、寝るのも早いので」
「ああ、確かにそうだ。つばさの奴、昔から寝るのがすげえ早いんだよ。あれか、あんなに寝てっから背も伸びるのかねえ?」
「あら、明菜ちゃん、貴女、どう見てもつばさちゃんより背が高い気がするのだけれど?」
綾香は、そう言って、明菜の方を見ながらゆるんだ微笑みを浮かべた。
「お、そうだっけか? いや、でもよ、去年の俺はあんなにでかくねえって!」
明菜は男らしくげらげらと笑う。これほど男らしい笑顔が似合う美少女は、探してもなかなか見つけられないだろう。
「そんなこと言って、貴女、去年と今年とで二ミリしか変わってないじゃないの」
「うそ? 本当に?」
「全生徒の身体測定のデータを閲覧できる私が言うのだから間違いないわ」
明らかに生徒会の越権行為だが、きっと綾香ならば許されるのだろう。
「へえ、そんなもんなんだ。でも、なんかあいつ、遠くから見るとでっかく見えるんだよなあ……」
「まあ、ただでさえ男の子みたいな顔をしているのだから、そうなのかもしれないわね。まあ、私はつばさちゃんよりも明菜ちゃんの方がいいわね……そうそう、貴女のスリーサイズは確か……」
「そ、それは言うな!」
明菜の顔が紅くなった。
「綾香! 急がないと全部の部にまわれないわ! わかっているの!」
そこに、突然深雪が痺れを切らして、綾香を怒鳴りつけた。
綾香は、急にしゅんとしてしまい、お別れの挨拶もそこそこに、文芸部の部室から立ち去った。
場の空気が少し気まずくなった。
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