第30話 シルヴェリア王国へ(その4)
「な、な……」
エレクシアは目の前にいる二人を見て言葉を失った。パクパクとなにか言いたげに口を上下させるが、頭が真っ白となり眼の前の光景に対する理解を拒絶している。だが目に入っていれば彼女の聡明な頭脳は現実を理解し始め、やがて受け入れると体を震わせ、ついには怒りを爆発させた。
「なんてことをしてくれるんじゃ貴様はぁっ!!」
感情的に手元にあったグラスを投げつける。中身が飛び散り、水滴のついたグラスはまっすぐに髭面の男へと飛んでいく。しかし男はひょいと軽く首を傾けるだけでそれを避け、彼の背後でけたたましい音と共にグラスが砕けた。
彼はそれを聞きながら大仰に「おおっ、怖い怖い」とからかうようにうそぶいてみせた。
「そんなに怒んなって」
「こ、こここれが怒らずにおられるかっ! オルヴィウスっ! きき貴様は自分が何をしたのか分かっておるのかっ!?」
「エレクシア様、お気持ちは分かりますがどうか一度お気を鎮めましょう」
白い頬を真っ赤に紅潮させ、興奮して肩で息をする彼女をクライヴが背をさすり宥める。だがそれでも彼女の怒りは治まらないようで、クライヴの手を払うと、たまたま目についた机上の書類を手でなぎ払い、執務机の周りに大量の書類が舞った。
「自分が何をしたかくらい分かってるって。嬢ちゃんが欲しがってた明星・ユカリを代わって連れてきてやったんじゃねぇか」
そう言うとオルヴィウスは、見るからに不機嫌な態度でそっぽを向いていたユカリの首に腕を絡ませ、グイッと強引に引き寄せる。ユカリはたたらを踏みながら苦しげな声を漏らし、オルヴィウス、そしてエレクシアを順に睨みつけていく。
「誰も頼んどらんわっ! 手を出すなとあれほど念を押したというのに貴様は……」
「いやぁ、嬢ちゃんの心の声が聞こえてなぁ。やっぱりよぉ、娘みたいに可愛く思ってる女の子の悩みを聞けば頑張りたくなるのが男ってもんだろ」
「っ……貴様という男はぁっ……!」
「オルヴィウス。いい加減その小汚い口を閉じろ」
「やぁれやれ。冗談の一つも許されねぇか。ま、わかっちゃいたけどよ」
「……」
「ユカリもいつまでもンな不景気な顔してんなって。女の笑顔一つで場が華やぐってもんだ。ほれ、こうやってニッとだな」
「汚ねぇ手で触んじゃねぇ」
「あだっ!?」
オルヴィウスがしかめっ面を続けるユカリの頬に手をやり、強引に口角を上げて笑わせようとする。が、ユカリは首を振って拒絶するとそのままオルヴィウスの顎に頭突きを食らわせた。
クリーンヒットし、思わず仰け反る。ユカリとしては殴り返されることも覚悟してのささやかな意趣返しだったが、オルヴィウスは顎を撫でながらニヤッと笑うだけで手を出してくることもしない。その態度に拍子抜けしながらもユカリは足元のフカフカとしたカーペットにつばを吐き捨て、エレクシアに向かって舌打ちをする。
「ンな『やっちまった』的なフリしたって無駄だぜ、オヒメサマ。白々しい。どうせ裏でこっそりこの山賊と繋がってんだろ?」
「だから山賊じゃねぇっての」
「……本当に知らなんだ、と言っても信じてはもらえんじゃろうのぅ」
怒りが徐々に鎮まり、代わってエレクシアに押し寄せてくるのはひどい落胆だった。ヨロヨロとおぼつかない足取りでソファに向かうと崩れ落ちるようにして座り込む。最近は手入れも行き届いていないのか蒼い髪はいささかツヤを失っていて、その前髪を握りつぶすようにしながら彼女は頭を抱えた。
そのひどい落ち込みようを見てユカリは眉をひそめた。オルヴィウスに、エレクシアは関係ないと言われてはいたが彼女はまるでその言葉を信じてはいなかった。表向きはなんだかんだと言いながら、その実はエレクシアが全て手を引いているのだと思っていた。
だがユカリの前の彼女の様子はどうだ。信じてはもらえない、と漏らしたその眼は虚ろで、うなだれた全身からは今にも倒れてしまいそうだ。
ユカリを相手にしても、前に連れてこられた時のような「キレイな」言葉遣いでなく、何処かの方言丸出し。それがエレクシアの素の言葉なのだろうが、作り物めいたものもなくユカリには新鮮であり自然な感情のように感じられた。
ひょっとして、本当にコイツは知らなかったのか? とユカリが考えを改めかけたが、しばしうなだれて黙っていたエレクシアがスッと顔を上げた。
「――分かりました」
静かに、落ち着いた声で発して立ち上がる。その顔にはたおやかな笑みが浮かんでいた。喜怒哀楽のハッキリしていた先程までと違い、今のエレクシアからは怒っているのか、落ち着いているのか、それさえハッキリと判別が難しい。
一瞬で雰囲気が変わったエレクシアの姿にユカリは思わずたじろぎ、エレクシア、そしてオルヴィウスの顔を順に見上げた。
「わざわざお心遣い頂きましてありがとうございますわ、オルヴィウス
「……おうおう、なんだよエレクシア。ンな堅苦しい言葉遣いしてくれちまって水クセェじゃねぇか。ユカリの嬢ちゃんがいるからって、そうかしこまらなくったって良いんだぜぇ?」
「いえいえ、これがワタクシの
くだらないお話はおしまいにしましょう。それでは早速、依頼の品――明星・ユカリを引き渡して頂けますか?」
そう言って感情の読めない瞳をオルヴィウスに向け、その細く白い腕を差し出した。
「どうぞ彼女をこちらへ」
「……やれやれ、そう来たか」
「どうなされましたか? ああ、そういえば金額については取り決めておりませんでしたね。ワタクシたちが手をこまねいていたものを連れて帰ってきてくださったのです。そちらの言い値で構いませんが、いかがでしょう?」
「へえ……こっちとしちゃありがたい話だが、エレクシアの嬢ちゃんはいいのかい?」
「ええ、構いませんわ。その代わり――二度とこの地に踏み入ることは許しませんが」
仮面を貼り付けたような笑み。そんなエレクシアの瞳の奥でだけ感情が怒りに滾っていた。
「エレクシア様……」
「いいのです、クライヴ。こうなってしまった以上、一蓮托生といきましょう。
さあ、早くお願いしますわ、オルヴィウス様? こう見えてもワタクシも忙しい身でございますので」
賓客を前にした時の様に腹部の前で軽く手を合わせ、小首をかしげてみせながらオルヴィウスを急かす。
彼女の態度にクライヴもまた困惑を見せた。エレクシアがこういった形で怒りを示すのは初めてではない。だがその対象となるのはだいたいが政治に直接関わる議員や貴族の連中であり、クライヴが間近で眼にすることはなかった。
果たして、オルヴィウスがどういう反応を見せるか。クライヴは固唾を飲んだ。
「……く」
二人から視線が注がれる中、オルヴィウスは体を屈めた。頭が垂れ、体を震わせた。
そして――大きな笑い声が響き渡った。
「がっはっはっはっはっ!!」
緊張した場で、場違いとも思える程に爆笑を続ける。心底愉快でたまらない、とばかりに頭を押さえながら続く豪快な笑いは留まるところを知らない。気が触れたかと思える程に一人笑い続け、姿形も態度も普段のオルヴィウスとそう変わらないはずなのに、彼以外の三人にはそれが不気味に映る。
「……何がおかしいのです?」
「ひーひっひひひ……いやぁ笑うなっつう方が無理っつうもんだぜ? これを笑わなくってなんだってんだ?」
「オルヴィウス……貴様、何を企んでいる?」
「何を企む?」オルヴィウスは笑いすぎて滲んだ涙を太い指で拭った。「企むも何も、俺ぁ何も隠し事もしてねぇぜ? いやしかし、中々どうして。甘ぇ甘ぇとは思っちゃいたが、まさかここまで甘いとはな」
「何を言って――」
「なぁ、エレクシア嬢ちゃんよ。いや、ここはアンタの流儀に従って王女『サマ』と呼ばせてもらおうか。
さっきから王女サマの話を聞いてるとよ、どうやらアンタは俺がユカリ嬢ちゃんを渡すために連れてきた前提で考えてるようだがな――いつ、俺がアンタのためにユカリ嬢ちゃんをさらってきたって言った?」
そう言って、オルヴィウスの口端がゆっくりと吊り上がっていったのだった。
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