第9話 人生はかくも容易に変わりうる(その3)



 次に伊澄が眼を覚ました時、まず視界に入ったのは白い天井だった。


「……知らない、天井だ」


 いつか言ってみたいと思っていた古いアニメのセリフをポツリとつぶやいて何度か瞬きをする。三度それを繰り返すと、そこに特徴的な蒼い髪が入ってきた。


「眼を、覚まされましたか?」


 伊澄に口づけをした女性が心配そうに顔を覗き込んだ。伊澄は無意識に彼女を安心させる笑顔を浮かべてみせ、ベッドの上で起き上がる。


「起き上がっても大丈夫なのですか?」

「はい。というよりも、ここ最近無かったぐらい調子がいいです」


 言いながら伊澄は大きく伸びをした。

 実際、彼のセリフは嘘では無かった。ここしばらく続いていた疲労感は全くなく、頭に感じていた重さもない。すこぶる体調は良好。おそらくここまで元気なのは毎日七時間半きっちり寝ていた大学時代以来じゃないだろうか、と思った。

 心配していた女性も、伊澄の明るい顔に嘘や誇張ではないと分かったかホッと胸を撫でおろした。


「ご心配お掛けして、申し訳ないです」

「いいえ、こちらこそ伊澄様の心身にご負担をかけてしまいまして申し訳ありません。兵士たちも普段はあそこまで殺気立ってはいないのですが、先日に色々ありまして……」

「は、はぁ」

「みだりに敵意を振りまかないよう指導しておきましたので、今回の非礼、平にご容赦ください」

「あ、いや、そんな気を遣って頂かなくても……」

「そうはいきません。本来であればお客様としてお迎えするはずだったのですから。

 また、『言霊の魔法』についても重ねてお詫び致します。

 『言霊の魔法』は本来、無害なはずなのですが……改めて書物を調べたところ、極々稀に相性が悪い方がいらっしゃるようです。配慮が足りず、本当に申し訳ございません……」

「あ、ええっと、その、僕は大丈夫ですので……って、魔法?」


 謝罪を述べる女性に伊澄は恐縮していたが、彼女の口から出てきたファンタジックな単語に疑問を覚えた。聞き違いだろうか、とマジマジと女性の顔を見るも彼女は真面目な顔をしてうなずき返してきた。


「はい、魔法です。伊澄様の住まれていた場所では聞き馴染みのない言葉でしょうが」

「まあ聞き馴染みのないと言いますか、言葉自体は珍しくもないですけど……」


 冗談じゃなかろうか。そう思ったが、そう言えば最初は彼女が何を話しているのかも分からなかったな、と倒れる直前のことを思い出した。今も自分の口から出ているのは日本語では無い。たったあれだけの会話で知らなかった言語を理解できるほど伊澄は自分の言語能力を信じていない。だから魔法だと言われた方が、むしろすんなりと腑に落ちた。


「ワタクシたちからすれば魔法のない伊澄様たちの世界の方が信じがたいですが、今はそういうものだとお思いください」

「僕たちの世界、ですか?」

「ええ、そうです。

 伊澄様さえ宜しければその点も含めて色々と今から説明させて頂きたいのですが、如何でしょうか?」

「ぜひお願いします。職業柄、分からないことがあると気になって仕方ないので」


 肩をすくめてややおどけて見せる。彼女も伊澄に警戒や敵対といった感情がないと分かったか、頬を緩めてクスッと笑った。

 女性が傍にあったベルを鳴らす。チリンチリン、と澄んだ音が響き程なく扉がノックされ、黒髪の女性が入ってきた。


「伊澄様にお食事を。それから飲み物を二人分お願いします」


 メイドらしきその女性は恭しく頭を下げて一度退室する。そしてすぐにワゴンに食事とワインを乗せて戻ってくると、伊澄たちの前にテーブルクロスを広げ料理を並べていった。


「本日はまだお食事を召されていないでしょう? 長いお話になりますので、食事をしながらリラックスして聞いて頂ければと思います」


 女性がワイングラスを掲げ、伊澄も慌ててグラスを持ち上げる。マナーなどの心得もない伊澄は女性がワインで喉を湿らせるのを見て、遅れて自分も一口だけ飲む。すると芳醇な香りが口の中から鼻へと抜け、伊澄は目を見張った。

 普段は殆ど酒を嗜まない――昨日はともかく――し、飲む時だって何処ででも手に入るような安酒しか飲まない伊澄だが、このワインがかなりの物であることがよく分かった。自分で買おうものならばたぶん、一本で給料が飛んでいきそうな気がする。テーブルに並べられた料理もおしゃれなレストランで出てくるようなものでかなり豪華だ。普段一食数百円レベルの質より量な食事しかしない伊澄は途端に不安になる。


(これ……後で請求されたりしないよね?)


 チラリと女性を見る。彼女は首を傾げるが、伊澄の不安の種に気づくとまたクスッと笑った。


「大丈夫です。招待したお客様から代金を徴収するなんて事は致しませんから、どうぞ好きなだけお召し上がりください」


 考えを見抜かれた伊澄は恥ずかしさに身を小さくし、彼女の視線を感じながら慣れない手付きで料理を食べ始めた。


「そのままお聞きくださいね。

 まずは自己紹介から。ワタクシはエレクシア。エレクシア・ヴィンダールヴと申します。エルフたちを始めとした多くの種族が住まうこの地、シルヴェリア王国を治める国王、ガイウス・ヴィンダールヴの長女にございます。どうぞお見知りおきくださいませ」

「ぶっ!!」


 彼女――エレクシアの紹介を聞いて思わず伊澄はむせた。

 佇まいや気品からそれなりの身分の人だろうと思っていたが、まさか王女とは。おまけにエルフである。なるほど、そんな場所に突然自分が現れれば兵士たちが殺気立つのもむべなるかな、と意識を失う前に自分に向けられた仕打ちに得心した。


(いやいや! エルフだの王女様だの魔法だのって、そんな現実的に考えてあるはずが……)


 素直に納得しそうになり、伊澄は頭をブンブンと振った。そんな話はゲームやアニメなどだけの話だ。確かに伊澄もそういったストーリーや世界観は好きであるし夢のある話だと思うが、所詮空想の話である。実際にそんな世界があるはずがない。

 しかしである。


(言葉も急に理解できるようになったし、アパートの二階から落ちたはずなのに怪我もしてないし、それに……)


 伊澄はエレクシアの耳を見た。水色の鮮やかな髪を割って尖った耳が突き出ている。彼女が寝ている間に触ったそれの感触は確かに本物だった。いくら特殊メイクで見た目は偽装できたとして、果たしてあのひと肌の感触と温もりを再現できるものなのだろうか。


「あの、伊澄様? 大丈夫ですか? まだ何処か具合が……?」

「いえ、体は大丈夫ですが、なんと言いますか、自分の常識が木っ端微塵に砕かれていくようで……」

「混乱されるのも無理のない話です。ワタクシどもも、伊澄様たちの世界のことを知った当時の混乱具合は聞かされておりますから。

 そうですね……ではまずはそちらの話から致しましょう。その方が後々のご理解も易いものになるでしょうから」


 そう告げるとエレクシアは伊澄に彼女らの世界について説明を始めた。



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